第24話 愛のための健康

文字数 2,682文字

 余命宣告される時って、どんな気持ちなんだろう?

 私はまだその経験がないので、想像するしかありません。義父と一緒に診察室に入る時には、ちらっちらっとその横顔をうかがってしまいます。
 先生からは毎回そこそこ厳しい話があります。義父はもはや無表情。すでに私たちとは別の風景を見ているかのようです。

 ものの本では、死を宣告された人の心理状態は「否認、怒り、取引、抑うつ、受容」の五段階に分けられるのだとか。義父の場合は確かに最初の四段階を経たはずですが、年齢的なこともあって、最後の「受容」に至るまでは比較的短かったんじゃないか、というのが横で見ている私の印象です。

 いつの日か、夫のK君の余命宣告をこうして一緒に聞くことになるのかな。
 目の前の義父の心配より、むしろそんな未来の想像をしてしまう自分がいます。
 
 そのとき私は正気でいられるでしょうか。「否認、怒り」が爆発してしまうかもしれません。泣き叫んで、自分も一緒に死にたい、などと思ってしまうかもしれない。耐えきれる自信はありません。

 むしろ逆であって欲しい。
「ごめんね。あなたと一緒に歩ける時間は、あとわずかなんだ」
 私がそう言ったとき、夫はどんな顔をするでしょうか。
 このパターンもつらいけど、それだけの愛がその時に持続していたならば、もう十分に幸せな人生と言えるのかもしれません。

「死が二人を分かつまで」のその時は、いつか来る。
 だけど義父の様子を見ていると、嘆くようなレベルを超越する時もまた来るのかもしれません。考えようによっては、それは希望にもなります。

 親の老いと死に向き合うことは、自分たちのこれからをシミュレーションすることにつながってきます。そして(言葉は悪いけれど)反面教師にしようと思うこともしばしば。やはり一つのモデルケースが目の前にあると切実感が違います。

 どんなに健康に気をつけていたって、病気になる時はなります。
 だけど何もしなくて良いかというと、それも違うようです。人間いつかは「死因」につながる重大な病気を得て、本物の死に近づいていくわけですが、年を取れば他のトラブルも複数抱えて生きていくことになります。

 義父の場合「胃がん肝転移」が進んでいるところですが、「他のトラブル」の代表格が前立腺肥大。体力がないと手術は難しいのでそちらは諦め、今のところ尿道カテーテルを通して排せつを促しています。医療器具は消毒して使わなければなりませんが、本人ができなければ家族がやってあげることになります。
「つばめさん、すみません……」
 もういいですって何度も言っているのに、義父は私に謝ります。本人は肉体的にはもちろん、精神的な苦痛も相当なものなんでしょう。

 例えば、と想像します。
 私が「大腸がん」で死ぬとき、脳梗塞も糖尿病も認知症も患っていたら?
 骨も弱って全身骨折、介護ロボットの力を借りても動かせないほどになっていたら?
 目が見えず、耳も遠くなっていたら?
 いやいや、それはつら過ぎる(笑)。せめて一個か二個にしてくれって感じです。

 息を引き取るその瞬間まで、良い人生にしたい。

 と考えると、逆算して今の年齢からやっておかなければならないことがいろいろありそうです。認知症に関しては、何か興味を持って取り組むことが重要だと言われますよね。このサイトに集まる方々、すなわち執筆の趣味がある方は、その点では比較的有利な立場にいるんじゃないでしょうか。書くまでの調査などの時間も含め、相当なレベルで「脳トレ」しているはずです。
 また情熱を持ってやっているはずですから、それも良い方向へ働くはず(打ち込み過ぎて睡眠不足にならないよう注意したいところではありますが)。

 だけど、いわゆる生活習慣病ではない病気の予防は難しい。「がん」の予防法、誰か発見してくれないものでしょうか。もちろんできたらノーベル賞ものですが、切に願います。
 がんの原因の一つに加齢がよく上げられますが、誰しも年を取らないわけにはいきません。現実的に自分ができる対策とは何でしょう?

 そこで調べに調べ、考えに考えていくわけですが、やっぱり行き着くのは「食事、運動、睡眠」。
 やっぱりそこか! という感じですが、やっぱりそうなんですよ(笑)。お医者さんがしつこく繰り返すのは、理由があってのことなんでしょう。

 というわけで、見える効果がろくに出なくても、私は走り続けています。軽い筋トレもやっています。汗だくで帰って来ると、夫が新聞から目を上げてからかってくることがあります。
「ちょっとは痩せた?」
「うるさいなあ(怒)。放っておいてよ」

 心の中で言い返します。
 だってK君。私はあなたより先に倒れるわけにはいかないんだよ? あなたが病気になった時、誰が看病するって、そりゃ私でしょうが。

 施設でお世話になっている義母は、恐らく夫の死期には立ち会えないでしょう。
 そして義父もまた、長年連れ添った妻に対して恐らく期待はしていません。長い間、義父は献身的に義母の介護をしてきたんですが、私の目には一方的な奉仕だったように見えます。そこに前向きな感情があったとすれば、それは愛というより、若い時に家庭を支えてくれた人に対する感謝の念に近かったんじゃないでしょうか。

 あるとき義母の入っている施設から電話があって、介護士さんから義父の病状を尋ねられたことがあります。義母が突然思い出したように、義父の心配をし始めたというのです(義母は認知症ではありませんが、元々の性格と重度のパーキンソン病に加え、軽い脳梗塞等もあって、普段は家族のことを思い出す余裕もない、というのが私たちの認識です)。
 ここで良いニュースを提供できれば良かったんですが、なかなかそうもいきませんでした。
「懸命に、病と闘っています」
 とだけ伝えたら、介護士さんも心得てくれました。たぶん、上手に義母に伝えてくれたことでしょう。

 義父にこの話をしたら、
「おれのことを思い出すこともあるんだなあ……」
 そう言って笑いました。

 このエッセイの最初の方に、相手への「期待」と愛との関係を書かせて頂いたのですが、まさにこういうところで切迫感が漂います。愛する人に最後まで寄り添っていたいと思ったら、自分が健康でいることがどれほど重要なことか!

 そんなわけで、がん検診の類も私はバッチリ受けています。来月は大腸内視鏡を予定しています。ポリープ切除などを伴うかもしれません。
 正直、気が重いです。でも、癌になるよりはるかにましでしょう!
 健康は何より、愛のためだと思うのです。
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