第11話 救急外来という戦場
文字数 3,813文字
抱いてあやして、やっと眠ったジゾウ。
だけどほっとしたのもつかの間、彼はすぐに目覚めて夜泣きを始めてしまいます。母親である私に何を求めているんでしょう?
「勘弁してくれよ~。私はまだ体が痛いんだよ~」
赤ちゃんって、寝ている時は天使でも、起きたら地獄の鬼。
どうしてこうも、親を休ませてくれないんでしょう? 夜間の授乳がきついことは聞いていましたが、睡眠不足の厳しさは想像以上でした。久々に6時間ほど続けて眠れた時には、奇跡のように頭がすっきりして感動したものです。
誕生から時間が経つにつれ、どの赤ちゃんも「夜には眠る」ことを学習していくはず。なのにジゾウときたら一向に落ち着きません。
しかも夜泣きの時は、昼間の泣き方より激しくなっていきました。それもどこか、苦しがっているような……。
「ねえ、どうしたの? どこか痛いの?」
私は不安になってジゾウに話しかけましたが、赤ちゃんって「ここが痛い」とか「気持ち悪い」とかも言ってくれないんですよねえ。
しかしこんな私にも母親の直感というものがあります。必死に観察しているうち、どうもお腹が痛いんじゃないか、という結論に至りました。
「明日、小児科の先生のところに行ってみようねえ」
抱き上げて話しかけても、ジゾウは身を反らせてギャンギャン泣くばかり。うっかりすると落っことしそうです。
当時うちの近所では、小児科はあまり選択肢がありませんでした。その中でも、私は最も距離的に近いクリニックへと直行しました。
「近いのが一番だよね~」
その後、もっと近い場所に別の新しいクリニックがオープンしたり、この時の先生が田舎に帰って他の先生が同じ場所で開業するなど事情は大きく変わりましたが、子育てする時には近所のクリニックって重要です。
この時、先生はジゾウのお腹を指先でつついてうなずきました。
「うん。ミルクでお腹を壊しちゃったかな?」
ということで、ミルクに混ぜることのできる整腸剤を出されました。
ところがこの薬。効いているんだかいないんだか。
ジゾウの夜泣きは収まらず、私は彼の小さなお腹をさすりながら、ほとんど一晩中あやす日々が続きました。
「参ったなあ。ちょっとぐらい寝かせてよ……」
とはいえ、赤ちゃんとはそういうもの。先輩ママたちからもさんざんな苦労話は聞いていました。私も頑張りどころなんでしょう。
夫のK君は相変わらず仕事で忙しい日々を送っていましたが、その日はあまりに寝不足な私を見かねて真夜中のおむつ替え&ミルクやりを代わってくれました。
そのとき、
「あれ、ちょっとおかしいぞ……!」
K君の不穏な声が響きました。
なんだ、代わってもらったところで、やっぱり眠れないじゃないか。
どうしたの、と起きて行くと、K君がジゾウのお腹を指で押していました。
「ここ、膨らんでるだろ?」
K君が指さすその先は下腹部。性器の横あたりに、確かにポコッと小さな膨らみが見えます。それも右側だけ。左側にはありません。
私もおむつ替えの際に、その膨らみを何度も目にしていました。だけど。
「え、これって異常なの?」
私の呑気な質問に、K君は内心あきれたようです。
「普通ないだろ、こんな膨らみ!」
男きょうだいのいなかった私は、男の子の体に関する知識がなかったんです。そういうものかと思い込んでいました。男性であるK君の目がなかったら気づかなかったところです。
ああ、パパの育児参加!
これが必要なのは、何もママの負担軽減のためだけじゃないですよ。パパじゃないとできないことってあるんです。時にはそれが子供の命に関わることも。
この時のK君、小児科医でさえ見抜けなかった症状によく気づいてくれたと思います。もちろんあの先生に恨みはありません。赤ちゃんの病気ってそれほど難しいわけだし、K君だってたまたま気づいたに過ぎませんから。
それでもパパの直感に拍手です。またもや私は借りを作ってしまいました。
おむつ替えは私が代わり、K君はパソコンで赤ちゃんの病気について調べます。
「鼠経ヘルニアの可能性があるな……」
私もその記事を読みましたが、確かに症例にピタっと当てはまります。そしてこの症状に気づいたら、すぐに病院へ行けと書いてあります。
病院へ行く? こんな真夜中に?
時計を見たら午前一時。
迷いました。行くなら、夜間の救急外来でしょう。
子育てあるあるです。なぜだか子供って夜中に具合が悪くなるんですよね。実際、夜間の救急外来に行くと何組もの親子に遭遇します。
すでに妊娠中の母親学級の時から「親が救急車を呼んだケースの、実に九割近くが緊急性のない案件だった」などと聞かされていました。核家族化した時代の親の知識のなさが、救急医療に関わる多くの方々に迷惑をかけている。確かにその通りです。
一方で祖父母と同居していれば、子育てについて適切なアドバイスが受けられるとも限りません。人によってはむしろ足を引っ張られそうです。
「早く救急車を呼びなさいよ!」
と、ヒステリックに叫ぶおばあちゃんもいるでしょうね。
私はひるんでしまいました。救急、というその言葉が重く感じられたのです。
時間が前後しますが、ジゾウは一歳を越えてからも病気が多く、特に熱性けいれんは何度も経験しました。最初にけいれんを起こした時には、あまりの症状の激しさに私もK君も焦ってしまい、
「119、119だ!」
すぐさま救急車を呼んでしまいました。間違って110番しそうな勢いでした。
が、これが全然緊急じゃなかった(笑)。翌朝の受診でも良かった、というパターンです。
救急救命士さん、ごめんなさい。だけど救命士さんもよく分かっていて「ああ、赤ちゃんのけいれんね~」と慣れた様子で白目を剥くジゾウの体をなでてくれました。失われた意識は、病院へ搬送される前に見事に戻りました。
同じ経験をしたママさんが私の周囲だけでも複数いますので、これはかなりメジャーな顛末なんだと思います。
だけど本当に「やばい」ケース。
この、生後二か月の鼠経ヘルニアの時はそれに該当したんですが、この時は受診自体を迷ったぐらいですから、そこまで焦ってはいませんでした。救急車を呼ぶほどじゃないでしょ、と気持ちの上ではまだ余裕があったのです。
だけど迷う。一応受診はするにしても、今すぐ? それとも明日で良い?
当時も#7119に該当する電話の救急相談はありました。
だけどつながらない。
今はどうなんでしょうかねえ? 電話をする親は藁にもすがる思いなのですから、ちゃんとつながって欲しいものです。
仕方がないので、ネット上の救急相談ページに行きました。質問に対し「はい/いいえ」で答えていくと、やっぱり「すぐに病院へ!」の文字が出る。
近所ではありませんが、車で三十分以内の場所に、大きな大学病院があります。
K君がそこの代表番号にかけました。真夜中だからなのか、相談に対応できる看護師さんが電話に出られたようでした。
「確かに鼠経ヘルニアの可能性があります。すぐに連れてきて下さい」
救急外来という所に足を踏み入れたのは、この時が初めてでした。
大人用の大きなストレッチャーに、小さなジゾウが乗せられ、殺気立った先生たちの手でガラガラと運ばれていきます。
あんなに苦労して産んだジゾウ。
もうここで、お別れなのかな。
私とK君は無言で手をつなぎました。ハッピーエンドが、とんだバッドエンドに変わりそうな暗い予感。私は丈夫な子を産んであげられなかったと、夫に対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
だけど一方で、奇妙なほど冷めた感情もありました。ここで焦っても仕方がないんです。出産の時は母親が頑張らなければならないけど、今はすべて先生たちに託すしかないのですから。
とはいえその場にいたのは、研修医の若い先生ばかり。
皆さん優しそうだけど、ジゾウの下腹部を診てもどうすれば良いのか分からない様子。おろおろして、何だか頼りない感じです……。
だ、大丈夫なんですか?
っていうか、救急外来ってこんな所なの!?
そこへ、ベテランらしき先生が駆け付けてきます。緑色の手術着姿からは、今の今まで別の緊急手術をしていたことが感じられました。登場しただけでその場の空気が変わる、という人がたまにいますが、この先生がまさにそうでした。
「お前ら、何やってんだ、コラ!」
その大音声は、もちろん研修医の先生たちに向けられた言葉でしたが、私とK君まで叱られたような気分になって、その場にビシっと直立します。
このベテランの先生からは、戦士の気迫が立ち上っていました。私もテレビのドキュメンタリーなどで救急外来の様子を見たことがありましたが、戦場さながらの緊迫感に戦慄したものです。この先生が来た途端、その場は本物の救急外来になりました。
ベテランの先生はジゾウのお腹に超音波の機械を当て、画像を見ながら研修医の先生たちに何やら説明をします。研修医の先生たちは、必死にメモ、メモ。
さっきまで苦しんでいたジゾウは、超音波のぬめりが気持ちいいらしく、ニコニコ顔で手足を動かしています。
やがてくるっと椅子を回し、ベテランの先生の怖~い目がこちらへ注がれました。
「……お父様と、お母様ですか?」
「は、はい!!」
私とK君は同時に返事をしましたが、二人とも声が裏返っていました。
だけどほっとしたのもつかの間、彼はすぐに目覚めて夜泣きを始めてしまいます。母親である私に何を求めているんでしょう?
「勘弁してくれよ~。私はまだ体が痛いんだよ~」
赤ちゃんって、寝ている時は天使でも、起きたら地獄の鬼。
どうしてこうも、親を休ませてくれないんでしょう? 夜間の授乳がきついことは聞いていましたが、睡眠不足の厳しさは想像以上でした。久々に6時間ほど続けて眠れた時には、奇跡のように頭がすっきりして感動したものです。
誕生から時間が経つにつれ、どの赤ちゃんも「夜には眠る」ことを学習していくはず。なのにジゾウときたら一向に落ち着きません。
しかも夜泣きの時は、昼間の泣き方より激しくなっていきました。それもどこか、苦しがっているような……。
「ねえ、どうしたの? どこか痛いの?」
私は不安になってジゾウに話しかけましたが、赤ちゃんって「ここが痛い」とか「気持ち悪い」とかも言ってくれないんですよねえ。
しかしこんな私にも母親の直感というものがあります。必死に観察しているうち、どうもお腹が痛いんじゃないか、という結論に至りました。
「明日、小児科の先生のところに行ってみようねえ」
抱き上げて話しかけても、ジゾウは身を反らせてギャンギャン泣くばかり。うっかりすると落っことしそうです。
当時うちの近所では、小児科はあまり選択肢がありませんでした。その中でも、私は最も距離的に近いクリニックへと直行しました。
「近いのが一番だよね~」
その後、もっと近い場所に別の新しいクリニックがオープンしたり、この時の先生が田舎に帰って他の先生が同じ場所で開業するなど事情は大きく変わりましたが、子育てする時には近所のクリニックって重要です。
この時、先生はジゾウのお腹を指先でつついてうなずきました。
「うん。ミルクでお腹を壊しちゃったかな?」
ということで、ミルクに混ぜることのできる整腸剤を出されました。
ところがこの薬。効いているんだかいないんだか。
ジゾウの夜泣きは収まらず、私は彼の小さなお腹をさすりながら、ほとんど一晩中あやす日々が続きました。
「参ったなあ。ちょっとぐらい寝かせてよ……」
とはいえ、赤ちゃんとはそういうもの。先輩ママたちからもさんざんな苦労話は聞いていました。私も頑張りどころなんでしょう。
夫のK君は相変わらず仕事で忙しい日々を送っていましたが、その日はあまりに寝不足な私を見かねて真夜中のおむつ替え&ミルクやりを代わってくれました。
そのとき、
「あれ、ちょっとおかしいぞ……!」
K君の不穏な声が響きました。
なんだ、代わってもらったところで、やっぱり眠れないじゃないか。
どうしたの、と起きて行くと、K君がジゾウのお腹を指で押していました。
「ここ、膨らんでるだろ?」
K君が指さすその先は下腹部。性器の横あたりに、確かにポコッと小さな膨らみが見えます。それも右側だけ。左側にはありません。
私もおむつ替えの際に、その膨らみを何度も目にしていました。だけど。
「え、これって異常なの?」
私の呑気な質問に、K君は内心あきれたようです。
「普通ないだろ、こんな膨らみ!」
男きょうだいのいなかった私は、男の子の体に関する知識がなかったんです。そういうものかと思い込んでいました。男性であるK君の目がなかったら気づかなかったところです。
ああ、パパの育児参加!
これが必要なのは、何もママの負担軽減のためだけじゃないですよ。パパじゃないとできないことってあるんです。時にはそれが子供の命に関わることも。
この時のK君、小児科医でさえ見抜けなかった症状によく気づいてくれたと思います。もちろんあの先生に恨みはありません。赤ちゃんの病気ってそれほど難しいわけだし、K君だってたまたま気づいたに過ぎませんから。
それでもパパの直感に拍手です。またもや私は借りを作ってしまいました。
おむつ替えは私が代わり、K君はパソコンで赤ちゃんの病気について調べます。
「鼠経ヘルニアの可能性があるな……」
私もその記事を読みましたが、確かに症例にピタっと当てはまります。そしてこの症状に気づいたら、すぐに病院へ行けと書いてあります。
病院へ行く? こんな真夜中に?
時計を見たら午前一時。
迷いました。行くなら、夜間の救急外来でしょう。
子育てあるあるです。なぜだか子供って夜中に具合が悪くなるんですよね。実際、夜間の救急外来に行くと何組もの親子に遭遇します。
すでに妊娠中の母親学級の時から「親が救急車を呼んだケースの、実に九割近くが緊急性のない案件だった」などと聞かされていました。核家族化した時代の親の知識のなさが、救急医療に関わる多くの方々に迷惑をかけている。確かにその通りです。
一方で祖父母と同居していれば、子育てについて適切なアドバイスが受けられるとも限りません。人によってはむしろ足を引っ張られそうです。
「早く救急車を呼びなさいよ!」
と、ヒステリックに叫ぶおばあちゃんもいるでしょうね。
私はひるんでしまいました。救急、というその言葉が重く感じられたのです。
時間が前後しますが、ジゾウは一歳を越えてからも病気が多く、特に熱性けいれんは何度も経験しました。最初にけいれんを起こした時には、あまりの症状の激しさに私もK君も焦ってしまい、
「119、119だ!」
すぐさま救急車を呼んでしまいました。間違って110番しそうな勢いでした。
が、これが全然緊急じゃなかった(笑)。翌朝の受診でも良かった、というパターンです。
救急救命士さん、ごめんなさい。だけど救命士さんもよく分かっていて「ああ、赤ちゃんのけいれんね~」と慣れた様子で白目を剥くジゾウの体をなでてくれました。失われた意識は、病院へ搬送される前に見事に戻りました。
同じ経験をしたママさんが私の周囲だけでも複数いますので、これはかなりメジャーな顛末なんだと思います。
だけど本当に「やばい」ケース。
この、生後二か月の鼠経ヘルニアの時はそれに該当したんですが、この時は受診自体を迷ったぐらいですから、そこまで焦ってはいませんでした。救急車を呼ぶほどじゃないでしょ、と気持ちの上ではまだ余裕があったのです。
だけど迷う。一応受診はするにしても、今すぐ? それとも明日で良い?
当時も#7119に該当する電話の救急相談はありました。
だけどつながらない。
今はどうなんでしょうかねえ? 電話をする親は藁にもすがる思いなのですから、ちゃんとつながって欲しいものです。
仕方がないので、ネット上の救急相談ページに行きました。質問に対し「はい/いいえ」で答えていくと、やっぱり「すぐに病院へ!」の文字が出る。
近所ではありませんが、車で三十分以内の場所に、大きな大学病院があります。
K君がそこの代表番号にかけました。真夜中だからなのか、相談に対応できる看護師さんが電話に出られたようでした。
「確かに鼠経ヘルニアの可能性があります。すぐに連れてきて下さい」
救急外来という所に足を踏み入れたのは、この時が初めてでした。
大人用の大きなストレッチャーに、小さなジゾウが乗せられ、殺気立った先生たちの手でガラガラと運ばれていきます。
あんなに苦労して産んだジゾウ。
もうここで、お別れなのかな。
私とK君は無言で手をつなぎました。ハッピーエンドが、とんだバッドエンドに変わりそうな暗い予感。私は丈夫な子を産んであげられなかったと、夫に対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
だけど一方で、奇妙なほど冷めた感情もありました。ここで焦っても仕方がないんです。出産の時は母親が頑張らなければならないけど、今はすべて先生たちに託すしかないのですから。
とはいえその場にいたのは、研修医の若い先生ばかり。
皆さん優しそうだけど、ジゾウの下腹部を診てもどうすれば良いのか分からない様子。おろおろして、何だか頼りない感じです……。
だ、大丈夫なんですか?
っていうか、救急外来ってこんな所なの!?
そこへ、ベテランらしき先生が駆け付けてきます。緑色の手術着姿からは、今の今まで別の緊急手術をしていたことが感じられました。登場しただけでその場の空気が変わる、という人がたまにいますが、この先生がまさにそうでした。
「お前ら、何やってんだ、コラ!」
その大音声は、もちろん研修医の先生たちに向けられた言葉でしたが、私とK君まで叱られたような気分になって、その場にビシっと直立します。
このベテランの先生からは、戦士の気迫が立ち上っていました。私もテレビのドキュメンタリーなどで救急外来の様子を見たことがありましたが、戦場さながらの緊迫感に戦慄したものです。この先生が来た途端、その場は本物の救急外来になりました。
ベテランの先生はジゾウのお腹に超音波の機械を当て、画像を見ながら研修医の先生たちに何やら説明をします。研修医の先生たちは、必死にメモ、メモ。
さっきまで苦しんでいたジゾウは、超音波のぬめりが気持ちいいらしく、ニコニコ顔で手足を動かしています。
やがてくるっと椅子を回し、ベテランの先生の怖~い目がこちらへ注がれました。
「……お父様と、お母様ですか?」
「は、はい!!」
私とK君は同時に返事をしましたが、二人とも声が裏返っていました。