第13話 15号室の人々
文字数 3,645文字
これはコロナ禍のずっと前のこと。
だから感染対策ではなく防犯上の理由だと思いますが、小児病棟は外部の人間を厳しくシャットアウトしていました。
自動ドアの向こう側には、基本的に親しか入れません。別世界に足を踏み入れるような、物々しい緊張感。
看護師さんに案内され、病室に向かいます。
他の患者さんに遠慮して、私はジゾウを抱っこしたまま静かに中に入ります。
ところが、そこでいきなり大歓声が上がりました。
「キャー、かわいい赤ちゃんが来たー!!」
もろ手を挙げ、満面の笑みで近寄ってくる女性たち。異様なほどテンション高めな感じです。
私は彼女たちの熱い抱擁を受け、求められるままに一人一人と握手をしましたが、この大騒ぎの意味がまったく分かりません。一体これは何なんでしょう?
自己紹介が始まります。全員がこの病室に入っている子の母親でした。
ここでは「〇〇ちゃんママ」などと呼び合うのが慣例のようです。私もこれに従うべきでしょう。
で、私も自己紹介。皆さんに聞かれるまま、入院の経緯も答えました。
「……そうなんです。実はゆうべ救急にかかって、鼠経ヘルニアだって言われて……」
その時です。
しゅっと空気がしぼみました。ママさん達は絶句し、目を伏せます。一気に暗い雰囲気になりました。
え、今度は何? 私、何かまずいことを言った?
もちろん静かになったのは一瞬のこと。一人の女性がすぐに顔を上げ、再び満面の笑みで叫びました。
「そっか。大歓迎だよー! 仲良くしてねー!」
本当に大きな声。こっちが圧倒されるほど元気いっぱい、常にハイテンションです。
こちらこそよろしく、と頭を下げた私でしたが、頭の中は困惑、いや混乱の嵐でした。
今のは何だったんだろう? そしてこの人たちの、爆発的な元気は何なんだろう?
次の日、看護師さんの一人が誕生日を迎えていました。
みんなでハッピーバースデーの大合唱をし、長い間、拍手をしました。
「おめでとう~! 本当におめでとう~!」
今日という日が奇跡であるかのように、ママさん達は全力で喜んでいました。私もこの調子に慣れてきて、とにかく合わせました。一緒に歌い、拍手をします。
どうしてこうなのか、私にも分かったんです。
ここのママさんたちにとっては、鼠経ヘルニアなんてすぐに治る病気は、病気のうちに入らない。今日ここに命があることに全力で感謝しなければ、とても生きてはいけない人たちだったのです。それほど壮絶な人生を生きている人々だったのです。
本来ならジゾウはもっと軽症患者の部屋に入るべきところ、ベッドの空きの関係でこの部屋へ案内されてきたのでした。つまり、あの絶句の意味は「なーんだ。あなたはすぐに退院して行く人種なのね。私たちとは違うのね」ということ。
だけど彼女たちは、そういう理由で私を排除するようなことはしませんでした。
私はこの「15号室」に入院できて本当に良かったと思っています。
小さな喜びを一つ見つけたら、全力で喜ばなくてはならない。ここのママさんたちは、それを私に教えてくれました。今でも私の心の糧になっています。
ある日の午後、先生が15号室にやってきて、ケンちゃんママを呼び出しました。
元気なここのママさん達の中でも、彼女はとりわけ声が大きくて目立つ人。
ケンちゃん本人は検査を受けていて不在。他のママさんや子供たちもどこかへ行っていました。だからその時15号室にいたのは、私と(昼寝中のジゾウと)ケンちゃんママのみ。先生に促され、付いていく彼女を、読書中だった私はふと目を上げて見送りました。
少しして、彼女は一人で15号室へ戻ってきました。いつもはそういう時、彼女は必ず私に声をかけてくれるのに、珍しく無言で通り過ぎたかと思うと、自分たちのベッドの方へと姿を消しました。
やがてカーテンの陰で押し殺した嗚咽が聞こえました。
厳しい宣告があった、と感じられました。
ジゾウ君のママはいいな。
彼女のそんな心の声が聞こえたような気がしました。
ヘルニアなんて簡単な病気じゃない。うちだってその程度で済んでいたら、どんなに良かったか!
いや、決してそんな風には思っていないでしょうが、それでもいたたまれなくなりました。自分がこの部屋にいることが、私たち親子がのうのうと生きていることが申し訳ないと思いました。
神様は不公平です。あんなにいいママさんなのに、どうしてあんな悲しい思いをしなくちゃならないのでしょうか。ケンちゃんがどんな悪いことをしたっていうんでしょうか。
ケンちゃんの両親の結婚が「ハッピーエンド」だったかどうかは知りません。とにかくその先にこんな現実が待っている人もいるのです。
いや、深刻な話の時にも、お母さんが一人で対応していたところを見ると、ケンちゃんママは一人親だったのかもしれません。他の家は時々、お父さんも姿を見せていました。もし彼女がシングルマザーだったら、そうしたよその家庭の温かさを見るにつけ、さらに傷ついていたのかもしれません。
でもケンちゃんママは、私が思っているよりずっと強かったように思います。彼女は最後まで、私の前では満面の笑みしか見せませんでした。最後はケンちゃん親子の一時帰宅中に我が家が退院するという形になりましたが、彼女はこれがお別れだと分かった途端、私の手をぎゅっと握って言ってくれたのです。
「元気でねー! ずっとずっと忘れないからねー!」
他にも私にとって忘れられないのが、お向かいのベッドのレン君。
レン君は二歳になっていましたが、まだ首が据わっていませんでした。目の焦点が合わない子なので、彼と視線が合うことはありません。時おり奇声を発するし、言葉もしゃべれないみたい……。
だけどレン君ママは、ちっとも卑屈な態度を見せない人でした。
彼女はお邪魔しまーす、とうちのベッドに遊びに来ると、そこにあったスリング(抱っこ紐)をしげしげと眺めます。
「これ、おっしゃれー。フランスのブランド? へえ~お前、生意気だな!」
寝ているジゾウを指さしてそう言い、
「ちょっと貸してよ」
「どうぞどうぞ」
ジゾウのスリングにレン君をセッティングし、彼女は見せびらかしながら病棟内を歩き回ります。
「ちょっと見て~。おフランスのスリングだぜい」
その勢いでナースステーションにも「殴り込み」に行くので、さすがにそれは迷惑なんじゃないかと思っていたら、案の定看護師さんに冷たい反応をされ、すぐに戻ってきました(笑)。
余談ですがこのスリングは赤ちゃん落下の事故が多発して、今では売られていません(同タイプの物なら売られているようですが)。
私がデザイン優先で選んだベビーグッズは、その手の物が多かったです。イギリスのM社のベビーカーだって「指切断事故」がニュースになり、日本市場から姿を消してしまいました。安全第一と分かっていても難しいですが、やっぱり安全って大事ですね。
だけど後にこのスリングを使うたび、私はレン君ママのことを思い出して明るい気持ちになれました。とことん前向きな彼女が気に入ってくれたスリングだから、私も前向きな育児ができるだろうと思えました。
なので問題ありだろうと何だろうと、このスリングは良い思い出です。
ジゾウは幸いなことに手術がうまくいき、術後の経過も良好でした。入院期間は(手術日が未確定だったので)当初一か月を覚悟しろと言われたにも関わらず、実際には一週間に満たないうちに退院。
つまり私がここでの生活を経験したのは、ほんの数日のことでした。人生の中ではごく短い期間です。
それでも得たものは大きかったと思うのです。この後、私も子育てにまつわる、よりメジャーな諸問題と無縁ではいられませんでしたが、何にぶつかってもそんなに驚かずに済みました。
だって「15号室の人々」の苦労を思ったら、悩むまでもないことじゃないですか!
「ママ友」問題を始め、私にも数々のきわどい場面はあったのですが、あのママさんたちなら豪快に笑い飛ばすところだろうなーと、私は淡々とやり過ごしました。孤独に陥った時は、15号室を思い出すことにしていました。それがどれほど助けになってくれたことか。
あのママさんたちが、子供たちが、今も元気でいるのかは分かりません。あるいは私たちより一歩先に、天国へ旅立った子もいるかもしれない。
だけど私の記憶の中で、彼ら15号室の人々は今も元気に笑っています。どうかあの人たちが、幸せでありますように。そう願うことがまた、私の心の支えにもなっています。
さてジゾウはこの春、めでたく中学生になりました!
小学二年生あたりまでは病弱で、学校も休みがちでしたが、三年生でメキメキと丈夫になり、高学年ではほぼ皆勤賞。命が危ういほどの幼少期があったとは、今では信じられません。
もちろん思春期に入り、生意気にもなりましたけどね。
ここはレン君ママに言われた通りだ(笑)!
だから感染対策ではなく防犯上の理由だと思いますが、小児病棟は外部の人間を厳しくシャットアウトしていました。
自動ドアの向こう側には、基本的に親しか入れません。別世界に足を踏み入れるような、物々しい緊張感。
看護師さんに案内され、病室に向かいます。
他の患者さんに遠慮して、私はジゾウを抱っこしたまま静かに中に入ります。
ところが、そこでいきなり大歓声が上がりました。
「キャー、かわいい赤ちゃんが来たー!!」
もろ手を挙げ、満面の笑みで近寄ってくる女性たち。異様なほどテンション高めな感じです。
私は彼女たちの熱い抱擁を受け、求められるままに一人一人と握手をしましたが、この大騒ぎの意味がまったく分かりません。一体これは何なんでしょう?
自己紹介が始まります。全員がこの病室に入っている子の母親でした。
ここでは「〇〇ちゃんママ」などと呼び合うのが慣例のようです。私もこれに従うべきでしょう。
で、私も自己紹介。皆さんに聞かれるまま、入院の経緯も答えました。
「……そうなんです。実はゆうべ救急にかかって、鼠経ヘルニアだって言われて……」
その時です。
しゅっと空気がしぼみました。ママさん達は絶句し、目を伏せます。一気に暗い雰囲気になりました。
え、今度は何? 私、何かまずいことを言った?
もちろん静かになったのは一瞬のこと。一人の女性がすぐに顔を上げ、再び満面の笑みで叫びました。
「そっか。大歓迎だよー! 仲良くしてねー!」
本当に大きな声。こっちが圧倒されるほど元気いっぱい、常にハイテンションです。
こちらこそよろしく、と頭を下げた私でしたが、頭の中は困惑、いや混乱の嵐でした。
今のは何だったんだろう? そしてこの人たちの、爆発的な元気は何なんだろう?
次の日、看護師さんの一人が誕生日を迎えていました。
みんなでハッピーバースデーの大合唱をし、長い間、拍手をしました。
「おめでとう~! 本当におめでとう~!」
今日という日が奇跡であるかのように、ママさん達は全力で喜んでいました。私もこの調子に慣れてきて、とにかく合わせました。一緒に歌い、拍手をします。
どうしてこうなのか、私にも分かったんです。
ここのママさんたちにとっては、鼠経ヘルニアなんてすぐに治る病気は、病気のうちに入らない。今日ここに命があることに全力で感謝しなければ、とても生きてはいけない人たちだったのです。それほど壮絶な人生を生きている人々だったのです。
本来ならジゾウはもっと軽症患者の部屋に入るべきところ、ベッドの空きの関係でこの部屋へ案内されてきたのでした。つまり、あの絶句の意味は「なーんだ。あなたはすぐに退院して行く人種なのね。私たちとは違うのね」ということ。
だけど彼女たちは、そういう理由で私を排除するようなことはしませんでした。
私はこの「15号室」に入院できて本当に良かったと思っています。
小さな喜びを一つ見つけたら、全力で喜ばなくてはならない。ここのママさんたちは、それを私に教えてくれました。今でも私の心の糧になっています。
ある日の午後、先生が15号室にやってきて、ケンちゃんママを呼び出しました。
元気なここのママさん達の中でも、彼女はとりわけ声が大きくて目立つ人。
ケンちゃん本人は検査を受けていて不在。他のママさんや子供たちもどこかへ行っていました。だからその時15号室にいたのは、私と(昼寝中のジゾウと)ケンちゃんママのみ。先生に促され、付いていく彼女を、読書中だった私はふと目を上げて見送りました。
少しして、彼女は一人で15号室へ戻ってきました。いつもはそういう時、彼女は必ず私に声をかけてくれるのに、珍しく無言で通り過ぎたかと思うと、自分たちのベッドの方へと姿を消しました。
やがてカーテンの陰で押し殺した嗚咽が聞こえました。
厳しい宣告があった、と感じられました。
ジゾウ君のママはいいな。
彼女のそんな心の声が聞こえたような気がしました。
ヘルニアなんて簡単な病気じゃない。うちだってその程度で済んでいたら、どんなに良かったか!
いや、決してそんな風には思っていないでしょうが、それでもいたたまれなくなりました。自分がこの部屋にいることが、私たち親子がのうのうと生きていることが申し訳ないと思いました。
神様は不公平です。あんなにいいママさんなのに、どうしてあんな悲しい思いをしなくちゃならないのでしょうか。ケンちゃんがどんな悪いことをしたっていうんでしょうか。
ケンちゃんの両親の結婚が「ハッピーエンド」だったかどうかは知りません。とにかくその先にこんな現実が待っている人もいるのです。
いや、深刻な話の時にも、お母さんが一人で対応していたところを見ると、ケンちゃんママは一人親だったのかもしれません。他の家は時々、お父さんも姿を見せていました。もし彼女がシングルマザーだったら、そうしたよその家庭の温かさを見るにつけ、さらに傷ついていたのかもしれません。
でもケンちゃんママは、私が思っているよりずっと強かったように思います。彼女は最後まで、私の前では満面の笑みしか見せませんでした。最後はケンちゃん親子の一時帰宅中に我が家が退院するという形になりましたが、彼女はこれがお別れだと分かった途端、私の手をぎゅっと握って言ってくれたのです。
「元気でねー! ずっとずっと忘れないからねー!」
他にも私にとって忘れられないのが、お向かいのベッドのレン君。
レン君は二歳になっていましたが、まだ首が据わっていませんでした。目の焦点が合わない子なので、彼と視線が合うことはありません。時おり奇声を発するし、言葉もしゃべれないみたい……。
だけどレン君ママは、ちっとも卑屈な態度を見せない人でした。
彼女はお邪魔しまーす、とうちのベッドに遊びに来ると、そこにあったスリング(抱っこ紐)をしげしげと眺めます。
「これ、おっしゃれー。フランスのブランド? へえ~お前、生意気だな!」
寝ているジゾウを指さしてそう言い、
「ちょっと貸してよ」
「どうぞどうぞ」
ジゾウのスリングにレン君をセッティングし、彼女は見せびらかしながら病棟内を歩き回ります。
「ちょっと見て~。おフランスのスリングだぜい」
その勢いでナースステーションにも「殴り込み」に行くので、さすがにそれは迷惑なんじゃないかと思っていたら、案の定看護師さんに冷たい反応をされ、すぐに戻ってきました(笑)。
余談ですがこのスリングは赤ちゃん落下の事故が多発して、今では売られていません(同タイプの物なら売られているようですが)。
私がデザイン優先で選んだベビーグッズは、その手の物が多かったです。イギリスのM社のベビーカーだって「指切断事故」がニュースになり、日本市場から姿を消してしまいました。安全第一と分かっていても難しいですが、やっぱり安全って大事ですね。
だけど後にこのスリングを使うたび、私はレン君ママのことを思い出して明るい気持ちになれました。とことん前向きな彼女が気に入ってくれたスリングだから、私も前向きな育児ができるだろうと思えました。
なので問題ありだろうと何だろうと、このスリングは良い思い出です。
ジゾウは幸いなことに手術がうまくいき、術後の経過も良好でした。入院期間は(手術日が未確定だったので)当初一か月を覚悟しろと言われたにも関わらず、実際には一週間に満たないうちに退院。
つまり私がここでの生活を経験したのは、ほんの数日のことでした。人生の中ではごく短い期間です。
それでも得たものは大きかったと思うのです。この後、私も子育てにまつわる、よりメジャーな諸問題と無縁ではいられませんでしたが、何にぶつかってもそんなに驚かずに済みました。
だって「15号室の人々」の苦労を思ったら、悩むまでもないことじゃないですか!
「ママ友」問題を始め、私にも数々のきわどい場面はあったのですが、あのママさんたちなら豪快に笑い飛ばすところだろうなーと、私は淡々とやり過ごしました。孤独に陥った時は、15号室を思い出すことにしていました。それがどれほど助けになってくれたことか。
あのママさんたちが、子供たちが、今も元気でいるのかは分かりません。あるいは私たちより一歩先に、天国へ旅立った子もいるかもしれない。
だけど私の記憶の中で、彼ら15号室の人々は今も元気に笑っています。どうかあの人たちが、幸せでありますように。そう願うことがまた、私の心の支えにもなっています。
さてジゾウはこの春、めでたく中学生になりました!
小学二年生あたりまでは病弱で、学校も休みがちでしたが、三年生でメキメキと丈夫になり、高学年ではほぼ皆勤賞。命が危ういほどの幼少期があったとは、今では信じられません。
もちろん思春期に入り、生意気にもなりましたけどね。
ここはレン君ママに言われた通りだ(笑)!