第2話 どうして私を選んだの?

文字数 3,537文字

 今を去ること二十数年前。
 就職氷河期まっただ中の就活で苦労した挙句、私は某金融機関のシステム子会社にどうにか引っかかり、
「は~、良かった。行き先があって」
 と、喜ぶというよりは就職浪人せずに済んだことにほっとして、入社を決めました。

 ちょっと待て、つばめ! お前は地理歴史の教師を目指して勉強していたんじゃなかったのか。教育実習にも行ったのに。大学四年間、何をしていたんだ!
 と、自分でも突っ込みたくなりますが、とにかく当時の私が出した結論はそうでした。

「今は教職もきついよー。民間企業にしておいた方がいいよー」
 という周囲の声にすっかり流されてしまったのです。今も私は判断力に欠けるところがありますが、若かった当時はよりその傾向がありました。
 教職の道に進んでいたら、まったく違った人生があったことでしょう。どちらが幸せだったかは分かりません。

 とにかく私は同じような大卒の女の子たちに囲まれて、社会人生活をスタートさせました。
 入社前から何となく「社風」というものは感じていましたが、入ってみて驚いたの何の。だってリクルートスーツから解き放たれた周囲の女性たちの華やかなこと!
 ハイブランドのバッグや化粧品は持っていて当たり前。昼食時のおしゃべりはマウンティングの嵐。趣味はヨットに海外旅行にダイビング? 最初のボーナスでメルセデスを買っている子もいました。何だこりゃ。

 お給料は高くないのに、どこからその資金が?
 今って「超」が付くほどの就職氷河期なんだよね?
 地味な歴史女子だった私は、目を白黒させるばかり。とんだ場違いな世界に飛び込んでしまったものです。

 後からじわじわと分かってきたんですが、ここには「そこそこ」良い所のお嬢様が集まっていたようです。この会社の知名度は決して高くなかったんですが、親会社の方は違いました。ちょっと意地悪な言い方をすれば、人件費削減のために作られた子会社に、親会社のブランド名に惹かれた人が入る、という感じでしょうか。
 つまりその辺の事情を踏まえた上で、それでも自分なりの考えがあって入るというのなら良かったんでしょう。でも私はそうじゃなかった(笑)。当時はネットでの情報集めも難しかったということもありますが、それにしても私はただ内定をもらえたからという理由で入ってしまったわけです。本当に世間知らずだったと思います。

 そんなわけで庶民の私は、ハイソな会社で浮きまくりました。
 周囲には同じように「間違って」入ってきてしまった女の子が何人かいて、彼女たちと仲良くしていれば良かったんですが、それでも会社生活は苦しいものとなりました。元々が不器用な私は仕事を満足にこなせず、それでいて歴史や文学をフランクに語り合える人は一人もいない……学生時代の自分がどれほど恵まれていたのか、痛感しました。以前の気の置けない友人はというと、これまたそれぞれの職場で苦労していて、会うこともままなりません。

 ところでこの会社。当時は親会社所有の建物の中にありました。
 というか、親会社と未分離の状態にありました。島こそ分かれていたものの、フロアーは同じ。使用するエレベーターやトイレ、給湯室はもちろん共同。新入社員は一番最初の研修こそ会社ごとに別ですが、途中から仕事に直結する内容になってくるので、そこから親会社の同期と合流します。

 で、当時はほぼ「親会社の社員=男性、子会社の社員=女性」だったんです。総合職、一般職の名残りというか。この時もかなり時代錯誤だなあと思った記憶があるんですが、金融業界って旧態依然としたところがありますね。
 夫のK君が言うには、さすがに今は親会社も子会社も(それぞれ業界再編で違う組織になっています)性別関係なしの採用になっているそうです。少なくとも表面的には、目に見える男尊女卑はなくなり、親会社の方は特に、女性活躍の先端企業の一つとしてマスコミによく名前が登場します。現実が伴っているかは甚だ怪しいですが……。

 とにかく想像して下さいよ! 少数の親会社の男性社員と、多数の子会社の女性社員が入り混じってる姿を。しかも、みんな大学を卒業したばかりの、血気盛んな若者です。
 何が起こるか、分かるでしょ(笑)? これをハーレムと呼ばずして何という。

 私は冷めた上にひねくれた子だったので、親会社の男性社員を無邪気に取り囲む同僚の女子社員には内心舌打ちしていたものです。そこで溜まってると邪魔なのよね~。トイレにも行けないじゃない。どうでもいいけど、きゃあきゃあ騒がないでくれない?

 だけど。
 この氷河期に、数百倍(?)の難関をくぐり抜けてきた男性たちには、確かにと思わせるだけのものはありました。まぶしかった。うちの大学にはああいう人、いなかったなー。頭いい人っているんだなー。

 私は彼らとまともに目を合わせる自信もなくて、顔を伏せて脇を通り抜けるだけ。これ以上、場違いな競争の世界に首を突っ込んでたまるかといった、頑なな気持ちもありました。

 それなのに、女の子たちの頭越しにK君の声が降ってくるんです。
「つばめちゃ~ん!」
 ぎょっとして顔を上げると、人垣の中にいるK君が満面の笑みで手を振っているのです。まるで子供みたいに素直なその表情。女同士の熾烈な戦いが目の前で繰り広げられているというのに、まるで気づいていないかのような、その屈託のなさは何なんでしょう?

 私はどんな顔をしたらよいか分かりませんでした。
 なんでここで、私に声を掛けるかなあ? 確かに昨日の研修では、隣の席に座ったけどさ。私が明らかに格下の女だって、K君だって分かったでしょ? あなたは十分にモテモテ君なんだから、私のことまで巻き込まないで欲しい。放っておいてよ。

 というか、それよりも恐怖ですよ。他の女の子たちの刺すような視線といったら!
 彼女たち、背後に私が通りかかっていることすら気づいていなかったでしょう。何でこの子なの? という心の声が聞こえます。こんな子のどこがいいのって。
 事実、私よりきれいで頭の良い女性がいっぱいいました。
 つまり私は選べなかったけど、K君はかなり選べました。どうしてこうなったのか、と今でも不思議に思います。

 それからず~っと時間が経って、K君がどこにでもいるような普通のおじさんになって、もう誰の嫉妬も受けないであろうという状況になってから、聞いてみたことがあります。あの時、どうして私を選んだのって。
 K君はニヤニヤして答えます。
「う~ん、血迷ったとしか言いようがないねえ」
 だけどそこで、パッと子供みたいに笑う。
 昔から変わらない、素直な表情です。

 私はここに惚れちゃったのかもなあ、と思うのです。どろどろした、人間の嫌な部分を見てしまっても、この人はまっすぐに歩いて行くだろうなあって、あの時もそう予感していたような気がします。
 そしてそれは間違っていなかった。
 
 K君が浮気をしたことはありません。嘘をつくのが上手な男性もいるかもしれませんが、妻は夫の隠し事には気づくもの。ごまかすことはまずできないと思うのです。ましてや素直過ぎるK君は、何でもすぐに表情に出てしまいます。その辺はもう、話にならないレベル。

 クラシック音楽ファンのK君は、超美人ピアニスト、アリス・サラ・オットーさんに夢中になっていて、アリスちゃんの来日の際はこっそり一人でコンサートに行ったみたいだし、彼のパソコンにはアリスちゃんの画像やら何やらいろいろ入っているみたいですが、
「別に隠すほどのことでもないのにな……」
「コンサートに行くなら、私も誘ってよね」
 ぐらいが妻の言い分。淡々と、今日も掃除機をかけてますよ。

 飲み会のたびに、酔っぱらったフリしてK君に抱きついてたあの子やあの子(ほんと、猛烈アタックをしていた人が複数いました)……どうしてるかな。その後、転職したり別の会社の方と結婚したり、と風の便りに聞きました。もうK君のことはほとんど覚えていないかもしれません。

 でも私はいまだに彼女たちと心の中で競っています。引け目を感じているところもあります。別の女性と結婚していたら、K君の人生はもっと幸せだったんじゃないか。そんな風に何度思ったことか。

 あまりに大きな幸せをもらってしまうと、それがその後の人生を規定してしまうっていうこともあるのかもしれませんね。だけど私は、やっぱり夫に感謝してる。K君が私を理解してくれたからこそ、こうして小説執筆もちょっとずつ続けられているわけだし。一生かかっても返せないぐらいのものは、すでにもらっていると言っていいかもしれない。

 私はどこまでお返しできるか。自問自答する日々です。
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