第31話 化学療法その1
文字数 3,799文字
時間が前後して申し訳ありませんが、話は一年以上前にさかのぼります。義父のがん治療の続きです。
転移が分かって、余命宣告。
残された道は化学療法のみ。義父は挑戦すると決意しました。
主治医の先生から最初に処方されたのは、「エスワンタイホウ」という名前の薬でした。「TS-1 」という薬のジェネリック。飲み薬です。
さて本格的に抗がん剤の治療に入る前に、私たちにはもう一つやることがありました。
義父は白内障が進み、ものが見えにくくなっていました。うちの近所の眼科クリニックで日帰り手術をしてもらえますが、抗がん剤治療を受けている間はこうしたものを受けられません。
主治医の先生は、「ぜひ受けて来て下さい」と仰いました。後で考えると、本人に残された最後の日々、少しでもQOLを上げるようにと配慮してくれたのでしょう。視界がクリアである。美しい物を見られる。それって本当に生き甲斐につながってきますから。
主治医からの手紙を受け取った眼科の先生も、すごく理解のある方でした。本当は片目ずつ慎重に手術していくものなのに、早く抗がん剤を始めなくてはならない義父の事情を鑑み、特別に両目いっぺんにやって頂くことに。
だけど両目を眼帯で覆うと、まったく見えなくなります。自宅に帰るのも大変です。
「手術当日は、ご家族の方に必ず付き添いをお願いしますね」
幸い、この眼科クリニックは駅のバスターミナル前。反対側にタクシー乗り場がありました。もちろんそこまでの数十メートル、義父の体を抱きかかえるようにして連れて行かねばなりませんでしたが、この立地は有難かった!
しかも翌日には眼帯が取れ、義父は順調に回復しました。
「……何か、人生変わったな……」
義父は遠くの看板の文字まで読み取れるようになったことに、とても感動していました。本当にこの手術を受けさせておいて良かったと思います。ちゃんと見えるという快感は本人の表情にも表れますし、機嫌が良くなれば介護者をも救うわけです。眼科の先生に感謝!
さて白内障が済んだら、次はいよいよ「エスワンタイホウ」です。
飲み薬なので、素人目には普通の風邪薬などと変わりません。食後30分程度、一日二回、などという注意書きも、おなじみのもの。
ですが中身は劇薬です。義父も最初の服用の時はひどく緊張した様子でしたし、私たち夫婦も食後の洗い物などをしながら、ハラハラと(しかし本人に気づかれないよう、こっそり)見守っていました。
だけど、何もない。
義父はそのままテレビを見ています。
あれ? あの脅し文句は何だったの?
「……あの、お義父さん、大丈夫ですか? 苦しくないんですか?」
私が恐る恐る聞くと、義父はあっけらかんとうなずきます。
「ええ、大丈夫みたいです」
副作用がないのは助かりますが、この後じわじわと出てくるのかもしれません。気を抜けないまま服用を続けます。
時々病院に行って、血液検査をする必要がありました。ここで何らかの数値に問題が出てくる(=体力レベルが落ちている)と、その薬を飲み続けることができません。義父の場合、ここもすべてクリア。意外と体力あるんだな~、というのが私の実感でした。
服薬期間と休薬期間を何クールか繰り返し、いよいよCTを撮る日になりました。
ここで、がんの大きさや数を確かめます。
先生から告げられたのは、またも厳しい結果でした。
エスワンタイホウは、まったく効いていなかったのです。副作用がなかった代わりに効果もなかった、ということだったのでしょうか。以前からのがんが消えていないのはもちろん、新しくできてしまった影もありました。
先生からは、ここでも緩和ケアへの移行を勧められました。
「いかがですか? この辺で緩和ケアを……」
「いいえ、先生」
真面目で大人しい性格の義父でしたが、粘り強い一面もありました。まだまだ引き下がる気配はありません。
「次のお薬もあるというお話でしたよね? そっちに挑戦します」
この病院は義父の以前の住居に近く、手術を始めとして大変お世話になりました。そして先生も良い方だったのですが、難点はうちから遠いというところ。私と夫、どちらが付き添うにしても、通い続けるのは大変です。
うちの近所のがん拠点病院については、前から検討していたんですが、より厳しい治療にチャレンジすると決まったこの時が潮目になりました。今までの先生方に感謝して、新しい病院へ移ります。
数年前に建て替えられたその国立病院は、とても敷地が広く、建物も立派でした。駐車場も充実しているし、24時間営業のコンビニもあるし、一階受付前にはコーヒーショップもあります。
今まで小規模の病院に通っていた私たちは、目を丸くしました。
「うちから車で10分の所に、こんな病院があったんだねえ~」
近所とはいえ県をまたいでしまう立地のせいもあって、私たちはこの病院がカーナビや地図に表示されているのを見たことがあっても、ほとんど意識すらしていませんでした。ジゾウの鼠経ヘルニアの時はここを検討することなく、もっと遠い(だけど同じ自治体の)大学病院に行ったのです。入院時はとにかく、その後の通院のことを考えると病院は少しでも近い方がいいですよね。もっと早く知っていたかった……。
というわけで、心機一転、こちらの病院でお世話になります。
こちらの主治医は若いN先生。優しくて素敵な先生です。
「抗がん剤の、第二段階ですね。一緒に頑張りましょう!」
ガッツポーズを作って、そう言ってくれます。がん患者とその家族は心細さでいっぱい。こういう夏の日射しのような、頼もしい先生がいてくれるだけでうれしくなります。
次のお薬は「サイラムザ」と「パクリタキセル」。
二種類の抗がん剤を組み合わせることで、最大限の効果を引き出せるようになるそうです。
だけど今度は飲み薬ではなく、点滴。副作用も強く出ることが心配されました。
「最初の投与は、入院した上でやりましょうね」
優しいN先生も、こういうところは有無を言わせずといった感じでした。義父は入院が大嫌い。なるべく外来で済ませようとするのですが、先生は認めません。
「ご自宅で容態が急変したら、困るでしょう?」
そうそう。前の病院でも「最初の一回は外来では駄目です。入院ですよ」と言われたっけ。
義父も心細かったのでしょうか。この病院への初めての入院では「個室」を希望しました。後に入退院を繰り返すようになってからは「大部屋でいいや」という感じになりましたが、最初はやっぱり怖かったんでしょうね。
抗がん剤には、末梢神経にしびれなどの影響が出たり、爪が激しく割れたりといった特殊な副作用の出るものがあります。義父の場合、「パクリタキセル」という薬がそれに該当しました。
そもそも抗がん剤はがんに届けば良いわけで、手先や足先は関係ありません。そちらには血流をわざと悪くしたり、冷やすなどして抗がん剤を届きにくくし、トラブル予防をする必要がありました。
この病院では、サポートタイプの靴下、あるいは保冷剤を自宅から持参して、点滴をしている間だけそれらを身につけることになっていました。なので通院日の朝、それらを用意するのも私の仕事になりました。
そうやってさんざん気にしていた副作用ですが、義父の場合、入院中はまったく問題なし。
出てきたのは退院後、外来で複数回、薬を入れてからのことです。
私たちとの食事中、ふと吐き気を覚えて義父は口をふさぎます。足が弱っているので、トイレに駆け込む等はできません。
慌てて料理用ボウルなどを差し出すと、義父は受け取りますが……やはり遠慮もあるのでしょうか。食卓で吐くということは、一度もありませんでした。でも苦しそうに肩を上下させている時間が次第に長くなっていきます。
前の病院でもらったガーグルベース(プラスチック製の汚物受け)があったので、私は夜中の吐き気に備え、義父の枕元に置こうとしたのですが、本人はイヤな記憶を呼び起こされるらしく、いい顔をしませんでした。
「それはいりません、つばめさん。仕舞って下さい」
なかなか強情です。自分は吐き気なんかちっとも感じていないぞ、とでもいうようでした。
ここまで苦しい思いをした「サイラムザ」と「パクリタキセル」。
効いてくれればいいな、という思いでしたが、話はそう簡単ではありません。
いや、効いたことは効いたのです。CTを撮ったところ、がんは小さくなっていました。
効果があると思われたからこそ、半年近くに渡って治療を続けることができたとも言えるでしょう。
しかし血液検査の結果は、だんだん悪くなっていきました。
すでに高齢で腎臓が弱っていた義父でしたが、腎臓に関する数値がかなり悪くなっていたのです。恐らく副作用の一種だと思われました。
言うまでもなく、腎臓って体内の老廃物を外へ出す大切な役割を果たしてくれているわけです。腎機能が極端に落ちると、それで命を落としてしまいます。
というわけで、この第二段階の薬もここまで、ということになりました。
義父は先生の説明に納得したものの、自分が頑張っただけに、しかも薬が効いていただけに、やめるのはもったいないと感じたようです。
「他に、使える薬はないんでしょうか……?」
そうです。まだまだ粘ります!
転移が分かって、余命宣告。
残された道は化学療法のみ。義父は挑戦すると決意しました。
主治医の先生から最初に処方されたのは、「エスワンタイホウ」という名前の薬でした。「
さて本格的に抗がん剤の治療に入る前に、私たちにはもう一つやることがありました。
義父は白内障が進み、ものが見えにくくなっていました。うちの近所の眼科クリニックで日帰り手術をしてもらえますが、抗がん剤治療を受けている間はこうしたものを受けられません。
主治医の先生は、「ぜひ受けて来て下さい」と仰いました。後で考えると、本人に残された最後の日々、少しでもQOLを上げるようにと配慮してくれたのでしょう。視界がクリアである。美しい物を見られる。それって本当に生き甲斐につながってきますから。
主治医からの手紙を受け取った眼科の先生も、すごく理解のある方でした。本当は片目ずつ慎重に手術していくものなのに、早く抗がん剤を始めなくてはならない義父の事情を鑑み、特別に両目いっぺんにやって頂くことに。
だけど両目を眼帯で覆うと、まったく見えなくなります。自宅に帰るのも大変です。
「手術当日は、ご家族の方に必ず付き添いをお願いしますね」
幸い、この眼科クリニックは駅のバスターミナル前。反対側にタクシー乗り場がありました。もちろんそこまでの数十メートル、義父の体を抱きかかえるようにして連れて行かねばなりませんでしたが、この立地は有難かった!
しかも翌日には眼帯が取れ、義父は順調に回復しました。
「……何か、人生変わったな……」
義父は遠くの看板の文字まで読み取れるようになったことに、とても感動していました。本当にこの手術を受けさせておいて良かったと思います。ちゃんと見えるという快感は本人の表情にも表れますし、機嫌が良くなれば介護者をも救うわけです。眼科の先生に感謝!
さて白内障が済んだら、次はいよいよ「エスワンタイホウ」です。
飲み薬なので、素人目には普通の風邪薬などと変わりません。食後30分程度、一日二回、などという注意書きも、おなじみのもの。
ですが中身は劇薬です。義父も最初の服用の時はひどく緊張した様子でしたし、私たち夫婦も食後の洗い物などをしながら、ハラハラと(しかし本人に気づかれないよう、こっそり)見守っていました。
だけど、何もない。
義父はそのままテレビを見ています。
あれ? あの脅し文句は何だったの?
「……あの、お義父さん、大丈夫ですか? 苦しくないんですか?」
私が恐る恐る聞くと、義父はあっけらかんとうなずきます。
「ええ、大丈夫みたいです」
副作用がないのは助かりますが、この後じわじわと出てくるのかもしれません。気を抜けないまま服用を続けます。
時々病院に行って、血液検査をする必要がありました。ここで何らかの数値に問題が出てくる(=体力レベルが落ちている)と、その薬を飲み続けることができません。義父の場合、ここもすべてクリア。意外と体力あるんだな~、というのが私の実感でした。
服薬期間と休薬期間を何クールか繰り返し、いよいよCTを撮る日になりました。
ここで、がんの大きさや数を確かめます。
先生から告げられたのは、またも厳しい結果でした。
エスワンタイホウは、まったく効いていなかったのです。副作用がなかった代わりに効果もなかった、ということだったのでしょうか。以前からのがんが消えていないのはもちろん、新しくできてしまった影もありました。
先生からは、ここでも緩和ケアへの移行を勧められました。
「いかがですか? この辺で緩和ケアを……」
「いいえ、先生」
真面目で大人しい性格の義父でしたが、粘り強い一面もありました。まだまだ引き下がる気配はありません。
「次のお薬もあるというお話でしたよね? そっちに挑戦します」
この病院は義父の以前の住居に近く、手術を始めとして大変お世話になりました。そして先生も良い方だったのですが、難点はうちから遠いというところ。私と夫、どちらが付き添うにしても、通い続けるのは大変です。
うちの近所のがん拠点病院については、前から検討していたんですが、より厳しい治療にチャレンジすると決まったこの時が潮目になりました。今までの先生方に感謝して、新しい病院へ移ります。
数年前に建て替えられたその国立病院は、とても敷地が広く、建物も立派でした。駐車場も充実しているし、24時間営業のコンビニもあるし、一階受付前にはコーヒーショップもあります。
今まで小規模の病院に通っていた私たちは、目を丸くしました。
「うちから車で10分の所に、こんな病院があったんだねえ~」
近所とはいえ県をまたいでしまう立地のせいもあって、私たちはこの病院がカーナビや地図に表示されているのを見たことがあっても、ほとんど意識すらしていませんでした。ジゾウの鼠経ヘルニアの時はここを検討することなく、もっと遠い(だけど同じ自治体の)大学病院に行ったのです。入院時はとにかく、その後の通院のことを考えると病院は少しでも近い方がいいですよね。もっと早く知っていたかった……。
というわけで、心機一転、こちらの病院でお世話になります。
こちらの主治医は若いN先生。優しくて素敵な先生です。
「抗がん剤の、第二段階ですね。一緒に頑張りましょう!」
ガッツポーズを作って、そう言ってくれます。がん患者とその家族は心細さでいっぱい。こういう夏の日射しのような、頼もしい先生がいてくれるだけでうれしくなります。
次のお薬は「サイラムザ」と「パクリタキセル」。
二種類の抗がん剤を組み合わせることで、最大限の効果を引き出せるようになるそうです。
だけど今度は飲み薬ではなく、点滴。副作用も強く出ることが心配されました。
「最初の投与は、入院した上でやりましょうね」
優しいN先生も、こういうところは有無を言わせずといった感じでした。義父は入院が大嫌い。なるべく外来で済ませようとするのですが、先生は認めません。
「ご自宅で容態が急変したら、困るでしょう?」
そうそう。前の病院でも「最初の一回は外来では駄目です。入院ですよ」と言われたっけ。
義父も心細かったのでしょうか。この病院への初めての入院では「個室」を希望しました。後に入退院を繰り返すようになってからは「大部屋でいいや」という感じになりましたが、最初はやっぱり怖かったんでしょうね。
抗がん剤には、末梢神経にしびれなどの影響が出たり、爪が激しく割れたりといった特殊な副作用の出るものがあります。義父の場合、「パクリタキセル」という薬がそれに該当しました。
そもそも抗がん剤はがんに届けば良いわけで、手先や足先は関係ありません。そちらには血流をわざと悪くしたり、冷やすなどして抗がん剤を届きにくくし、トラブル予防をする必要がありました。
この病院では、サポートタイプの靴下、あるいは保冷剤を自宅から持参して、点滴をしている間だけそれらを身につけることになっていました。なので通院日の朝、それらを用意するのも私の仕事になりました。
そうやってさんざん気にしていた副作用ですが、義父の場合、入院中はまったく問題なし。
出てきたのは退院後、外来で複数回、薬を入れてからのことです。
私たちとの食事中、ふと吐き気を覚えて義父は口をふさぎます。足が弱っているので、トイレに駆け込む等はできません。
慌てて料理用ボウルなどを差し出すと、義父は受け取りますが……やはり遠慮もあるのでしょうか。食卓で吐くということは、一度もありませんでした。でも苦しそうに肩を上下させている時間が次第に長くなっていきます。
前の病院でもらったガーグルベース(プラスチック製の汚物受け)があったので、私は夜中の吐き気に備え、義父の枕元に置こうとしたのですが、本人はイヤな記憶を呼び起こされるらしく、いい顔をしませんでした。
「それはいりません、つばめさん。仕舞って下さい」
なかなか強情です。自分は吐き気なんかちっとも感じていないぞ、とでもいうようでした。
ここまで苦しい思いをした「サイラムザ」と「パクリタキセル」。
効いてくれればいいな、という思いでしたが、話はそう簡単ではありません。
いや、効いたことは効いたのです。CTを撮ったところ、がんは小さくなっていました。
効果があると思われたからこそ、半年近くに渡って治療を続けることができたとも言えるでしょう。
しかし血液検査の結果は、だんだん悪くなっていきました。
すでに高齢で腎臓が弱っていた義父でしたが、腎臓に関する数値がかなり悪くなっていたのです。恐らく副作用の一種だと思われました。
言うまでもなく、腎臓って体内の老廃物を外へ出す大切な役割を果たしてくれているわけです。腎機能が極端に落ちると、それで命を落としてしまいます。
というわけで、この第二段階の薬もここまで、ということになりました。
義父は先生の説明に納得したものの、自分が頑張っただけに、しかも薬が効いていただけに、やめるのはもったいないと感じたようです。
「他に、使える薬はないんでしょうか……?」
そうです。まだまだ粘ります!