第18話 診断って必要ですか

文字数 5,453文字

 健診で「要経過観察」となったはずのジゾウ。
 ですが、この時点で診断がついたわけではありません。しばらくは専門家につながれない、というのが悩みとなりました。

 ジゾウ幼年期の当時、母親である私にはなぜこうなるのか全く分かりませんでした。「要注意」みたいなことをたくさん言われたのに、後は放置ってどういうこと!?
 分からないというのはかなりのストレスです。当時はネットで得られる情報も少なくて、私はとにかく焦りました。
 自治体は、子育てについての相談窓口を設けています。もちろん最初はそこに連絡したわけですが……埒が明かないとはこのこと。

「お子さんのことが、ご心配ですか? 発達相談を受けられますか?」
 役所の窓口で聞かれるたび(これがまた、のんびりした口調に聞こえるのです)、私は自分でも理解できないような苛立ちに襲われました。
「はい。ぜひお願いします……!」

 ご心配ですか、ですって!
 私はそのためにここに来ているんじゃないですか。前もって電話でそう申し上げたじゃないですか。何のために今日ここへ、電車とバスを乗り継いでやってきたと思ってるんですか。
 衝動的に叫び出したいぐらいでした。

 もちろん相手は事務的にしか対応してくれません。
「専門の先生の予約は、なかなか取れないんですよ。しばらくお待ちいただくことになりますが」
「それでもいいです。ぜひお願いします」
 お役所というのはそういう所。分かっていても「なぜ?」の思いは頭の中をぐるぐるします。

 電話がかかってきたのは、実に数か月後。やっと案内してもらえたと、こちらはつい前のめりになります。
 今度こそ、専門家からはっきりした意見を聞かせてもらおう。
 そう意気込んで臨んでみるものの……
 応対してくれるのはやっぱり地域の保健師さんでした。この流れは何度か繰り返しましたが、面談の会場が健康センターであろうと、社会福祉会館であろうと同じです。はっきりしない内容に終始します。

「私たちは専門家ではないので、障害については何とも言えないんですが……」
 そう前置きし、保健師さんたちは一般的な子育てのアドバイスをいろいろ授けてくれます。こう言っては申し訳ないけれど、育児書によく書いてあるようなこと。

 私が求めているのはこれじゃない!
 こちらはこの自治体での療育についての情報が欲しいのに、相手からの答えはどうもピントがずれています。

 悩みごとを吐き出すだけでも救いになる、という考えもあるでしょう。だけど、愚痴を聞いてもらうだけなら友達が相手でもいいという話です。もう途方に暮れました。

 ところで。
 実は住んでいる自治体には専門の発達支援センターがあり、そこで専門家のカウンセリングが受けられるはずなのです。表向きには。
 
 そこで診てもらうのが最も理想的です。前に一度だけ診てくれた臨床心理士さんも、支援センターの先生でした。
 けれども、直接の予約はできないようになっていたのです。
 私が役所に何度も問い合わせた中には、この支援センターに行ってみたいということも含まれていたのですが、結果として案内されるのはいつも保健師さんの「お悩み相談」。
 それもまた「ご希望でしたら」。

 だったらいいや……と気持ちが後ろ向きになってしまいます。
 どうも本命の支援センターの方は、同じような親子がずらっと待機していたようです。ほとんどパンクしていたんでしょうね。

 ちなみに支援センターへの通院は、小学校に入ってから再検討することになりました。今度は学校を通してのかなり強力なアプローチでしたが、その時も半年待ちの状態で、けっきょく別のクリニックへと案内されるという結果に。
 専門家の数が圧倒的に足りないのだと、ここでようやく分かってきました。コロナで入院できない問題と似ていますね。

 ネット上では、専門家によるこんな声も見かけました。
「最近では発達障害の言葉が一人歩きしていて、心配だからとりあえず受診というお母さんが多いんですよね。困ったものです」
 受診控えを勧める意見ですね。

 そんなあ~、と嘆きたくなってきます。早期療育が大切だと言いながら、療育を求めて電話をかけまくるのは迷惑?
 こちらは救急車を呼ぶ・呼ばない問題にも似ています。手遅れになったら親の責任。だけど過剰利用は駄目。理屈は分かりますが、親にはそこまでの判断力がありません。

 当時の私は、ちょっとでも発達障害に関する情報を集めようと、まずはネットに頼りました。ネットには、情報だけは(いるものも、いらないものも)あふれていますが、当時も同じです。
 そこで閲覧するのは、ある程度信頼のおけるものだけに絞ろうと思うわけですが、これが難しい。自分の知識もあやふやな段階では、何をどこから読んだらいいのか分からないものです。

 しかも出てくるのは、個人の体験談のようなものばかり。
「この点は個人差が大きいです」
「人によって困りごとの種類は違います」
「迷ったら専門家に相談しましょう」
 うんうん。そうだよね。で?

 しかし情報はそこまで。
 当時の私は、ネットの中には発達障害の定義すら見つけられなかったし、きちんと体系立った、信頼できる説明は見当たりませんでした。

 この点、現在ではいくらか改善されているように思います。「生まれつきの脳の障害」という定義がすぐに出てきますし、
「対人関係をうまく築けない」
「特定分野の勉強が苦手」
「落ち着きがない」
「集団生活が苦手」
 といった困りごとの具体例も分かりやすく書かれています。

 とはいえまだまだ不親切だと感じます。現状では研究途上のことが多いし、実際の支援のあり方も手探りなんだから、仕方がないのでしょう。
 でも当事者が一人で悩んでいるケースでは、そこまでたどり着けるかどうかさえ微妙だし、周囲で支える人だって同じです。苦しむ人が多いのは変わっていないんじゃないでしょうか。
 なので、こうして個人が情報発信するのも、今の段階では意味があるような気がします。これもあくまで個人の体験談の範囲にとどまるけれど、多くの経験者の声が集まれば、誰かがその中からヒントを見つけてくれるかもしれませんから。

 十年後、二十年後には有効な解決法が見つかっているかもしれない。だけど私たちは、とてもそれまで待っていられない。子供は日に日に成長していくし、大人になった当事者にはもっと時間がないのです。今、どうしたらいいのか。自力でそこを探っていく姿勢が必要です。

 ネットで答えにたどり着けないのなら、やはり専門家の書いた本が必要。当時の私もそう思いました。
 まずは本を取り寄せ、必死に読み込むことで理解に近づこうとします。
 
 だけど育児書がまた難敵なのです!
 発達障害の専門家による著作となると、多くがアメリカで書かれた本の翻訳でした。日本とは制度上のことがいろいろ違います。もちろん日本人研究者の本もあるけれど、専門的過ぎて子育て中の親にとって参考になる部分が少ない……。
 しかも、ちょっとだけ書かれている解決法は、すでに試したものばかり。

 もしかして。
 私はふと疑問に思いました。専門家の先生につながれたとしても、こういうアドバイスしか受けられないの?

 何となく見えてきたのは、専門家でさえ、ここまでしか分かっていないんだということ。
 壮絶な光景が視界に入ってきました。遠くから見る分には簡単に登れる山かと思ったのに、麓まで来てみたら道さえ存在しない。発達障害の本が示してくれたのは、考えていたよりはるかに険しい難路でした。

 一般向けの育児書は、なおさら使えませんでした。どんなに名著とされている本でも、その内容はあくまで「最大公約数」。すべてのケースなど、とても網羅できていません。当てはまる子が七割、八割ぐらいいれば、十分に名著なんでしょう。
 抜け落ちる子が少なからず、いる。うちのジゾウもしかり。
 誰か、どうしたらいいのか教えて!

 最近は発達障害当事者や家族のブログ、本も増えましたね。皆さん、診断がつくまで相当の苦労をされているようです。
 読んでいると、多くの医療機関を渡り歩いた方も少なくない。涙ぐましい体験談です。
「ああ、その気持ち、分かる(涙)!」
 何度そう叫んだか分かりません。

 一方で、発達障害の特徴は、人それぞれで大きく違うわけです。お母さんたちのブログには「うちの場合、これでうまく行きました!」的なアイデアも豊富なのですが、例えば、
「聞く力が弱い子は、逆にビジュアルには強いので、言葉で言って聞かせるより絵や写真で教える方が早い」
 などという意見。当てはまる子には、効くでしょう。だけど、
「……これは、ジゾウには効かないんだよね~……」
 私は頭を抱えてしまいます。自分たちにとって参考になるものを見つけるのは、容易ではありません。

 さて私は行政側の窓口にばかり行ってしまいましたが、後でいろいろな方の話を聞いたところ、医療機関に相談した人の方が多い印象です。
 どちらにしろ、苦労するのは同じ。
 小児科の先生は発達のことに関しては専門外です。頼めば、精神科や心療内科のクリニックを紹介してくれるそうですが、これが救いになるかは別問題。必ずしも、悩めるお母さんたちを支え、伴走してくれる先生ばかりとも限りませんのでね。

 基本的に、医師にやってもらえるのは、診断と投薬に絞られます。
 診断は一般的に三歳から。それも保護者の強い希望があって初めてやるものです。
 ジゾウの場合、幼稚園に上がってから「田中ビネー式知能検査」を、小学校では四年生時に「WISC(児童向けウェクスラー知能検査)」を受けました。
 が、若干低めの知能指数が出たというだけ。専門家は細かい数値から読み取れるものがあるのでしょうが、親の悩みを解決してくれるというものではありません。

 そして投薬治療という選択肢。これは障害を「治す」ものではなく、いわゆる対症療法です(そう、生まれ持っての障害は、治療や努力で治るものではありません)。
 処方されるのは、抗てんかん薬とか、睡眠導入薬の類です。種類はたくさんあるので、その子の症状と体質に合ったものを探していくわけですが、大人だって飲み続けることには慎重を期すもの。小さな子供には、基本的に薬はないと考えて良さそうです。

 というわけで、「療育」とはあくまで環境の方を整えていくことにありそうです。また、そうやってチックなどの二次障害を防いでいくのが、療育の目的なのだそうです。

 となると、今度は専門家につながった人が具体的にどんな対策をしているのかが気になってきます。それが分かれば、家庭で真似をすることもできるじゃないですか。
 私はつながれなかったので、ここでも本に頼りました。やはり発達障害に関する本ですが、今度は研究者による著作ではなく、療育の現場の先生によるアイデア集を選びます。
 
 アイデア集という形ですが、個人のブログよりは内容が整理されていました。
 一つ一つのアイデアはさほど斬新なものではありませんでしたが、見えてきたことが一つ。
 療育といっても小さな子の場合、特別な訓練をするというより、その子の特性に合わせ、運動をしたり、美しい音楽を聴いたり、絵本を読んだり、普通のことをするのです。「とにかく繰り返し教える」、「多くの刺激を与える」といった印象でした。
 なるほど、とは思います。
 だけどそれなら、定型発達の子を育てる場合と変わらないじゃないですか。

 調べに調べて、それだけで疲れてきました。
 肝心のジゾウのことはほったらかしで、私は何をやっているんでしょう?

 もういいや!
 私は本を閉じました。こんなものを読んでいる暇があったら、ジゾウと外で元気に遊ぼう!

 というわけで、私はよそと同じ子育てをすることを放棄しました。
 専門家の診断なんていらない。ジゾウの目を見て、この子が今何を感じているか。何を見たくて、何を欲しているか。そこを探った方が良いと思ったんです。

 ほとんど毎日、公園へと出かけました。近所に大きな公園があったことに、大いに救われました。ここなら思い切り叫んでも、怒られることはありません。
 四季折々の花が咲き乱れ、木漏れ日が輝き、いろんな形の葉っぱがあって、どんぐり拾いもやりたい放題。

 いつまでも、お友達のできないジゾウ。
 だけどそれを嘆くのはもうやめます。
 滑り台も、何回でも滑っていいよ(あ、でも順番は守ってね)。
 お砂場で服を汚してもいいよ(あ、でもよその子に砂を投げつけないでね)。

 とにかく何でもいいから親子で全力疾走。二人で雄叫びを上げます。
 ボールを蹴る。投げる。
 ジゾウは高く上がったボールを見て、大喜びでした。

 そんな幼少期が、私の精一杯の子育てだったのです。

 ちなみに、ジゾウにASD(自閉症スペクトラム)の診断が下ったのは、小学校四年生でWISCを受けたとき。
 はい、そうですか、と淡々と聞いたことを覚えています。もはや医師の診断は、私の子育てを左右するものではなくなっていました。

 四年生のこの時は、小学校の特別支援の先生から勧められて受診したのです。中学校でも通級利用を希望する場合、診断書と知能検査の結果が必要だったから。つまり、あくまで事務手続きのための診断です。
 生きていくために、診断を得なければ! そう思い詰めている人がいたら、もっと肩の力を抜いていいよ、と言ってあげたいところです。
 
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