第16話 トンネルの始まり

文字数 4,049文字

 あれは忘れもしない、一歳六か月健診のときのこと。

 地域の保健センターにずらっと並ぶ、乳幼児とその母親。保健師さんに順番に呼ばれますが、待っている間はちょっとドキドキです。
 何しろそれまでの乳児健診とは違って、今日はテストがあるのです。音や光に反応するか、どの程度歩けるようになっているか、などなど。母親にとっては結構なプレッシャーです。

 動物や車のカードを見せられるテスト。指さしがまったくできないジゾウを見て、その保健師さんは表情を曇らせました。
 本人は言葉が分からないわけではない(と母親の私は思っていました)。だけど私の膝の上に乗ったジゾウは、「あ~」とか「う~」といったいわゆる「喃語(なんご)」しか発していません。

「お母さん」
 保健師さんは少し語調を改め、私の方を見ました。
「この子、一語文や二語文はまだ、というお話でしたよね?」

 はい、と私は悪びれもせずに答えました。ちょっと胸がとどろいていましたが、気にしない、気にしない。
 だってジゾウはまだ一歳半ですよ? 確かにちょっと発語が遅めではあるけれど、このぐらいの子はいくらでもいます。

 だいたい育児書には「言葉の発達が少し遅い程度で、今時の母親は大騒ぎをし過ぎなのである。大抵はすぐに他の子に追いつくものだ」みたいなことがよく書かれているじゃありませんか!
 そう、母親がグズグズ悩んでいることの方が、よっぽど子供には悪影響なのです。

 だけど保健師さんは首を傾げるばかり。しばし考え込んだ挙句、私にこう聞いてきます。
「一人っ子ですね? おじいちゃん、おばあちゃんとも同居はされていないのですね?」
「はい……」
 そこを突かれると痛かった。私が「二人目」攻撃をさかんに受け、度重なる流産に悩むようになるのはもう少し後のこと。だけどジゾウにとって、コミュニケーションの練習をする相手が少ないことはこの時点で十分に自覚していました。親として後ろめたい気持ちです。

 保健師さんは言葉を続けます。
「お母さんがご心配でしたら、このまま二次検査に進んで頂くこともできますが……」

 何それ!?
 私はむっとしました。自分の子育ての手法を責められたような気がしたんです。
 あなた、ジゾウの何をご存知だって言うんですか? この子、絵本の読み聞かせをすると、けっこう食いついてくるんですよ。彼の脳内では言葉の蓄積がなされているところなんです。私、母親業をサボってなんかいませんから!

 ……といった感じでしたが、これを口に出していたら完全に「モンペ」でしたね(笑)。
 当時の私は「お母さんがご心配でしたら」の言葉にも引っかかっていたように思います。勝手に心配しているのは、私じゃなくてあなたでしょ!ってね。

 保健師さんは年齢から推察すると、かなりベテランの方でした。たぶん私の無言の抵抗には気づいたでしょうが、そんなことは意に介すこともなく、淡々と二次検査を勧めてきます。
「ご希望の方には、本日中にご案内できます。ちょうど今日、臨床心理士が来ているんです。別室で対応しておりますから」

 ご希望により、という言い方ではありますが、かなり強めの推奨でした。これを振り切ってまで帰るとは言いにくい。しぶしぶながら、「じゃあお願いします」と返しました。

「異常なし」の結果をもらって、さっさと帰宅する他の親子がうらやましいの何の。

 私とジゾウは待合室のベンチで過ごします。
 周囲には他にも「引っかかった」親子が何組も待っていましたが、私の目にはこの子たちと帰宅を許された子との区別がまったくつきません。うちのジゾウだって、一体どこがおかしいっていうんでしょう? あの保健師さんのせいでとんだ目に遭ったものです。

 やがて呼ばれた二次検査会場の中には、明らかに保健師さんとは違う、白衣のお医者さん風の人が待ち構えていました。いかめしい顔のおじいさん。この人が臨床心理士さんのようです。
 だけど病院の診察室と違うのは、目の前にプレイマットが敷かれ、ブロックや積み木などのおもちゃがたくさん置かれていること。

「はいはい、ジゾウ君ね。ちょっと遊んでみようかあ~」
 先生は優しく声を発しますが、目は笑っていません。子供を自由に遊ばせ、その子がどんな風に積み木を重ねていくか、あるいはブロック同士をくっつけていくか。どんな小さなことも見逃すまいと厳しい目で観察しています。

 私はそんな先生の表情と、いつも通り無表情で遊ぶジゾウとを見比べ、何となくヒヤヒヤ。
 不安でした。鼠経ヘルニアの件といい、ジゾウはそんなに体が丈夫ではなさそうです。ここで知能にも問題ありと言われたら、私とK君の人生はお先真っ暗、ぐらいに思っていたのです。

 結構な時間をかけて観察した後、先生はこう仰いました。
「……年齢相応に手先が器用になっていますし、視点も定まっています。多動の傾向は見られませんね。声掛けにもちゃんと反応します。言葉の遅れはありますが……」
 ちょっぴり明るい気分になりかけたところで、再びカーテンを下ろすようなしめくくり。
「まあ、もう少し様子を見なければ何とも言えないでしょう」

 ん? 今の段階では分からないってこと?

 私はおずおずと聞きました。
「先生、この子、知能に問題がある可能性があるんでしょうか」
「まだ何とも言えませんね」
 先生、ここだけは即答。
「ただ、ご心配でしたら、二、三か月後に再度発達相談を受けることもできます。申し込まれますか?」
「……」
 また「ご心配でしたら」です。責任転嫁の匂いがします。結局「異常なし」の結果が出ることになっても、あれこれ検査をしたのはあくまで母親の希望があったから、ということにしたいんでしょうか。

 だけど、うやむやのまま終わるのも気分が悪いもの。ちゃんと「異常なし」の診断をもらわなくちゃ、と当時の私は思いました。
「はい。ぜひお願いします」
 尖った声で食いついた私に、先生は微笑を寄越します。
「まあまあお母さん。まだ発達障害と決まったわけじゃないですから」

 ずしっと重たいものがのしかかってきたのはこの時です。専門家の口から「発達障害」の言葉が出た。それもかなり濃厚な可能性を匂わせる形で。
 この時点でかなりのストレスを覚えていました。本当は一刻も早く「心配いりませんよ。あなたはちゃんと子育てをしていますよ」というお墨付きをもらいたいのに。私は必死にそれを抑えているのに、この先生はそれを無視しやがった!

 帰り道、ベビーカーを押しながら、私は悔しくて泣きました。
 K君との間にようやく授かったジゾウ。K君に顔が似ているから、K君と同じように頭が良いと思っていたのに、それが違うっていうの?

 すがるように思い出します。散歩の途中で知らないお婆ちゃんたちに「んまあ、お利口そうな子ね~」などと言ってもらったっけ。そう、ジゾウの目には、偉大な知性が宿っているように見えるのです。私だけじゃないよ。みんな、ジゾウを賢い子だと思うんだから。
 この子が発達障害なわけないじゃない!

 だけど一方で胸の奥には不安もとどろいていました。たくさんの乳幼児を見ている人たちが「直感」として得たものを、簡単には無視できないことも分かっていましたから。
 ところで、発達障害の言葉はよく聞くけど、発達障害って何だろう?

 自宅マンション近くに戻ってくると、知り合いの先輩ママの二人がおしゃべりしていました。私の硬い表情に気づいたのか、片手を上げ、あえて明るく声を掛けてくれます。
「あら、お帰り~」

 ちょうど良かったとばかり、私はこの二人に今日の健診での出来事を話しました。先輩に元気づけてもらいたい、あの保健師さんと臨床心理士さんのことをがつんと否定してもらいたい。そうやって甘えたい一心でした。
 でもそれと同時に、この二人はこういう惨めな思いをしたことがないのかも、という一種の疎外感に囚われたのも事実です。

「あらあら、大丈夫よ、そんな~」
 二人は私の意を汲んだかのように、笑ってくれました。
「まだ一歳半でしょ~? あれこれ心配しても、結局は子供って元気に育っていくもんだからさ」

 二人の子供たちが、すぐそこで遊んでいました。どの子もジゾウよりわずかに上の、よちよち歩きの子供たちですが、改めてこうして見ると、かなりしっかりしているような……。
 輪になっていた子供たちの中で、二歳のAちゃんが立ち上がって、こちらに手を振りました。
「ママ、見て~! トンネルできた~!」
 
 はいはーい、と手を振り返すお母さんの横で、私は衝撃を受けていました。
 Aちゃん、普通に会話をしてる!

 よその子との比較は駄目、と子育ての場面ではよく言われます。でもその一方で、世の中には発達の目安とされているものが厳然と存在し、一定の範囲から外れた子はこうして引っかかるわけです。どこがどう「外れて」いるのか、私はここで一つの答えにたどり着いたのかもしれません。

 Aちゃんは一人前に、上の子供たちに交じって遊んでいます。これまではその姿を見ても、お姉ちゃんに面倒を見てもらっているとばかりに思ってきたけど、今はそうじゃないことが見て取れました。ちゃんと子供たちの共同体ともいうべきものができていて、Aちゃんはその構成員として仲間に受け入れられている。ジゾウとほとんど同年と言ってもいいぐらいの子が、それだけの社会性をすでに身に着けているのです。

 一人っ子、という負い目がまた顔を出します。二人目、三人目はきょうだいの影響を受けて早めに成長するというのはよく聞く話。また女の子は男の子より「おませさん」なことが多いもの。
 けれども一方で、そうした環境要因だけでもなさそうでした。
 ジゾウがあと半年や一年であのようになるとは思えません。やっぱり何かが違う。先天的な能力差というものが、やっぱりあるんだ……。

 子供たちの掘ったトンネルが、暗い入口を覗かせています。
 私にとってもこの日は、長い長いトンネルの始まりでした。
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