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文字数 3,175文字

 翌日の昼休み、弁当を食べ終わって自分の席で本を読んでいた。左手の痛みはすっかり引いていた。

樋上(ひかみ)くん」

 名前を呼ばれて顔を上げると、女子がふたり、机の前に立っていた。クラスメイトに声をかけられることは滅多にないので、何かやらなければならないことを忘れていたのかと不安になる。

「2組の穂村さんが、用あるって」

 指さされた方向を見ると、教室の入り口で穂村さんが半分だけ顔をのぞかせていた。廊下の窓の光を浴びて、真っ白な夏服が輝いている。その近くで、机を囲む男子たちが慌ただしくしていた。

 役目を終えた女子たちがそそくさと帰っていく。

 立ち上がった拍子に椅子が後ろの机にぶつかった。謝ってから廊下へ向かう。視線を受けて体が熱い。こういうときは脳を冷やすイメージを浮かべると、心拍数が下がることを知っていた。そして自分に対しても、冷静を装うのだ。

「急にごめんね、話したいことがあって。今から大丈夫?」

 穂村さんはビニール袋を提げていた。乳白色で中は見えない。うなずくと彼女はにぱっと笑って、「場所を移そう」と言った。

 彼女の歩く道には甘い香りが残って、後ろをついていく僕はどぎまぎした。

 連れられたのは、前の日に彼女と会った外廊下の手洗い場だった。昼休みは体育館は閉鎖されており、教室からも離れているため、周囲にひとけはなかった。

 穂村さんはビニール袋から紙コップをひとつ取り出すと、蛇口を捻って水を入れた。

「わたしの力はね、きっときみと真逆なんだ」

 突き出されたコップの中に熱が生まれたのを感じた。湯気が立ち始め、勢いを増していく。やがて沸騰しそうになったころ、穂村さんは「あちち」と紙コップを流し台に放り投げた。

「ちょっと張り切りすぎちゃった」

 蛇口の水にかざすその指先は赤い。迷った末、水を冷やした。変化に気づいた穂村さんが感嘆の声を上げ、「ありがとう」と笑った。その笑顔を向けられるのはとても心臓に悪く、また蛇口を凍らせてしまうのではないかと心配になった。

「わたしは温めることはできるけど、冷ますことはできないの」

 穂村さんは蛇口を止めて、スカートのポケットから白いハンカチを取り出した。

「昨日ここで困ってるのを見て、きみも同じなのかなって」

 違う? というふうに首をかしげる。教室を出たときから言い逃れることは諦めていた僕は、素直にうなずいた。

「水を冷やそうとして、温度を下げすぎちゃったんだ」

 穂村さんは微笑んだ。

「体育館の中からでも分かったよ。思わず出てきちゃったもん」

 彼女もまた、温度の変化に敏感なのだという。

「わたしも加減を間違えることはよくあるよ。飲み物を温めようとして沸騰させちゃったりとか。火にだけは気をつけなきゃと思ってるけど」

 火事の危険を抱えて暮らすのは、相当な気苦労だろう。

「練習すれば、冷やすこともできるようになるかもって思ってたけど、きみも同じなら、やっぱり難しいのかな」

 顎先に指をあて視線をやや上にやり、物思いにふける姿は、とても絵になった。

 穂村さんは姿勢を直すと、今度はしみじみとした口調で言った。

「今となっては便利なこともあるけど、小さなころは大変だったよ。熱気が止まらなくなって何度も入院したし、たくさん検査もされて。お父さんの知り合いの病院だったから、騒ぎにはならなかったみたいだけど」

 設備の整った病院と繋がりがあるという彼女の父親は、いったい何者なのだろう。

「あ、そうそう! ここからが本題なんだけど!」

 穂村さんは両手をパンと合わせる。

「どうしても、きみに頼みたいことがあるの」

「僕にできることなら……」

「ありがとう! まずはちょっと実験」

 穂村さんはビニール袋の中から新しい紙コップを取り出して水を入れると、今度は流し台の縁に置いた。

「今からこのコップの水に熱を加えるから、冷やしてみてくれる?」

 同意すると、コップの水の温度が少しずつ上がり始めた。言われた通り、僕も力を向ける。温度の上昇がぴたりと止まったところで、

「このまま、元の温度くらいまで戻せる?」

 と聞かれたので、力を強めた。

「じゃあ今度は、もう少し強くしても平気?」

「大丈夫だと思う」

 水の温度が再び上がり始めたのが分かった。歩調を合わせるように力を強めると、また均衡状態に落ち着く。

 やがて合図があって、徐々に力を弱めた。コップの水は最後まで沸騰することも凍結することもなかった。お互い熱の操作を終えたことを確認したのち、穂村さんはそっと紙コップに触れた。

「すごい! ちゃんと相殺できてるよ!」

 紙コップを差し出されたので、一応、僕も手に取って確認した。水の温度は蛇口から出てきたときとほとんど変わらなかった。

「それでね、実は今度、中間試験明けの日曜日、デートに誘われてるんだけど」

 突然のことで、気の抜けた声が出た。

「こっそり付いてきて欲しいんだ」

 困惑を隠せなかったためか、穂村さんは視線を落とした。

「実は、今もまだ力の制御が完全にはできなくて、うっかり周りのものに熱を加えてしまうことがあるの」

「ああ、うん、分かるよ、僕もたまにある」

「ほんと?」

 穂村さんは顔を上げ、ほっとしたような表情を見せた。

「特にイライラしたり、ドキドキしたときにそうなっちゃうことが多いんだけど、デートなんて絶対緊張すると思うの」

「そ、そうなんだ」

「だからそうなっちゃったとき、きみの力で抑え込んで欲しいんだ。流石に火事を起こしたりはしないと思うけど、周りを暑くしたりとか、飲み物を沸騰させちゃうことくらいはあるかもしれなくて」


 確かに、デート中にそんなことが起こったら大変だろう。

「だからお願い! 協力して!」

 両手を合わせ、上目遣いで僕を見る。自分の美貌を知ってのことであれば、熱を操る能力よりもよっぽど恐ろしい。僕は首を縦に動かすほかなかった。



 その夜、夕飯を終えて2階の自室でひとりになると、かばんから1枚のメモを取り出した。そこには短い英数字の文字列が並んでいる。昼休みに穂村さんから渡されたものだ。校内では携帯の使用は禁止されているため、帰宅後にこのIDを使って連絡先を登録して欲しいとのことだった。休み時間などに隠れて携帯を使っている生徒がほとんどなので、案外真面目なのだと思った。デートの詳細が決まり次第、連絡をくれるという。

 携帯のメッセージアプリを起動して、IDを入力する。画面が切り替わり、白くて大きな犬のアイコンが表示された。その下には名前と、連絡先を追加するためのボタンがある。数秒間それを見つめたあと、一度トップ画面に戻り、再度IDを入力して、さらに一呼吸置いてからボタンを押した。

 同世代の異性の連絡先を登録したのは初めてだった。とりあえず、登録できたことをメッセージで伝えた。

 翌日の授業に備えて古文の現代語訳を書き下していると、携帯の通知音が鳴った。穂村さんから返信が届いていた。

『良かった! 今日はありがとね! よろしく!』

 穂村さんは文面でも感嘆符が多かった。『よろしくお願いします』とだけ返事をした。

 教科書に目を移してすぐ、また通知音が鳴った。

『写真、かわいいね! 樋上くんも犬飼ってるの?』

 僕のアイコンには、我が家の飼い犬の写真を使用している。御年5歳になる雌の柴犬で、室内飼いで散々甘やかされて育ってきたせいか、年々ふてぶてしさを増してきている。

『うん。写真は少し前のだけど。穂村さんの写真に写ってるのは、サモエド?』

『そうそう! よく分かったね! ふわふわでしょ』

 メッセージといっしょに、いくつか写真が送られてきた。被写体のサモエドが、お座りの格好をしたり、ご飯を食べたり、寝そべったりしていた。我が家の愛犬には悪いが、小さいころから大型犬に憧れを抱いていた僕は正直なところかなり気分が上がった
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