セーフ・アズ・ミルク【第十四話】

文字数 1,472文字





 空美野涙子さんが左手に抹茶ラテの入った紙カップを持っていて、もう片方の右手に持っていたものは。
「それは……それがもしかして、サトミ先生……なのですか、涙子さん」
「抹茶ラテでも飲め」
 ベッドの枕元に紙カップを置く涙子さん。
「それ、ホルマリン……ですか?」
「ちょっと違うが、似たようなもんだ。〈培養液に入った脳髄〉。もちろん、この脳髄は、サトミのもの」
「身体は……」
「破棄された。研究所の者たちにとって、それはいらないもの、だったからな。残ったのはこの培養液に入ったサトミという保険医の脳髄だ」
 うぉえぇぇぇ、とわたしは漏らして、その場で床に吐瀉してしまう。
「この脳髄は、空美野学園に〈固有結界〉を張る。それで外部からの攻撃を防ぐ。今までの保険医・サトミの役割と同じことが出来る」
「殺した……のですか、サトミ先生を」
「生きてるだろう、この脳みそが、な。今まで通りの役割を果たす。問題ない」
「涙子さん! そんなのは非人道的です!」
「ああ、そうだな。でも、ここは〈そういう街〉だぞ」
「…………」
「じゃ、見せたし、この脳髄とのご対面は終わりだ。研究所所員のもとに戻してくるぜ」
 ドアを大きな音で閉めて涙子さんが出て行くと、わたしは嗚咽を漏らして泣いた。
「そ、そんなの、あんまりですよぉ……」
 そして、また吐く。
 泣いて、しばらくしたあと、部屋の片隅にある木製の机上になにかプリントアウトした紙の束があるのにわたしは気付く。
 もしかしてサトミ先生についての資料では、と思って、抹茶ラテを飲み干すと、ふらふらしながら机に近づいた。
 束の表紙には「『シミュラクラについて』と書いてある」
 シミュラクラ?
 わたしはページをめくる。
 ヴァルター・ベンヤミンの〈アウラ〉論について、最初は記述されていた。
 そこから、ボードリヤールの〈ハイパーリアル〉の話。
 メディア論だ。
 もう、この世界にはオリジナルが失われ、シミュラークルと呼ばれる〈まがいもの〉で、世界はあふれ返る。
 シミュラークルのシミュラークルのシミュラークル、という無限退行するほど、シミュラークルでこの世界は出来上がる。
 そのシミュラークルであふれ返った世界が、ハイパーリアルと呼ばれる世界であり、この現代社会である、という内容。
 リオタールが言う、大きな物語の終焉と、それは接続され、シミュラークルの快楽がそこでは蔓延する。
 ただ、この紙の束に書かれたのは、そこで終わりではなかった。
 それが〈シミュラクラ〉と呼ばれる存在。
 人間と人造の人間……ホムンクルスのようなもの……の違いは、なんなのか。
 それを、〈先の大戦で敗戦国となったこの国を実験国家にし、確かめる〉という内容だった。
「異能の開発だけを、しているわけでは……ないのですか、研究所がしていることは」
 もしかして、ですが、わたしは、人間ではないのではないのじゃないですか。
 これはもしや、〈シミュラクラ〉の実験の被験体は、わたしなのではないですか……。
「異能のプロジェクトではなく、シミュラクラのプロジェクトに、わたしは関係している?」
 わたしは帰ろうと思いました、コノコ姉さんのところへ。
 戻ってきた涙子さんは、タクシーを呼んでくれたので、わたしは、朽葉珈琲店まで戻ることにしたのです。
「助けることが出来なかったですね、すみませんでした、……サトミ先生」
 タクシーの中で、涙をこらえながら、わたしは珈琲店に戻ると、誰にも会わずに、自室に戻り、そのまま万年床にダイブして、それからやっと泣くことが出来て……そして、そのまま眠ったのです。


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