ストリクトリー・パーソナル【第十七話】

文字数 1,793文字





「でも……」
 と、わたしは口に出してしまう。
 わたしの隣には、ナイトが守るように、朽葉コノコ姉さんが立っていて。
「でも、なんなのだ?」
 と、首をかしげる。
 こんな状況下で疑義を挟むのはよくない、と知りながら、わたしは横にいる姉さんに言う。
「わたしたちは血みどろの戦いをしています。で、さっきの涙子さんの話だと、要人が暗殺されるときだけひとは騒ぐ、と。確かに要人が暗殺されたときだけ騒ぐのはおかしいと思います。でも、考える契機にはなっているわけですよね、目的達成のために殺人をしてもいいのか。意外と人々は、要人を殺して社会がわるい意味かいい意味かは別として、風向きが変わった実績があるし、昔は右も左も暴力で全てを解決するところがあったことを引き合いに出して、暴力反対と言うひとをへたれている、日和見だから社会は変わらないんだ、と言う。一方で、知識人と呼ばれるひとは暴力反対だ、と念仏のように暴力反対とだけぶつぶつ唱えているひとも多い。その知識人を茶化す人々はさらにそこに、変わらなかったのを変えたのは暴力で、起こるまで封殺されてなにも変わらなかった、と言うし、大抵事実として暗殺で今まで隠ぺいされていたのが露呈することがある。知識人はそれに対して、機会があったから言っただけで、いつも暴力反対だ、と言う。これはわたしたちが今からやろうとしていることと関係があると思うのですよ。わたしにはなにもわからない……ですよぉ」
 一気にまくし立てると、コノコ姉さんは笑う。
「自由、と言ったときに、それは〈ルールの下の自由〉であるのだ。それが〈リベラル〉というものなのだ。リベラリズムが自由主義だからって、なんでも自由に行動するという意味ではないのだ。ルールとは法律なのだ。これがリベラル知識人なのだ。暴力反対と言うのは当たり前なのだ。確かに要人暗殺で露呈することがあったのも、この国でも事実としてあるのだ。でも、それでも暴力反対と言う人々がみんなリベラルかというとそうでもないのだ。そこには、道徳や社会通念上、それはあってはならないことなのだ、と言っているのが普通で、それが人として当然だ、というわけなのだ。少なくとも、この国の〈道徳や倫理〉は、その空気が醸成してきたものだから、ルールの範疇でなかったとしても、それはそう言うだろう、のだ。つまり、ルールが例え改正されたとしてもそれとは別のレイヤーとして、暴力反対を言うのだ。……ルール、道徳。今は右も左も暴力反対なのだ。暗殺上等の暴力肯定の革命路線を〈極右〉や〈極左〉と呼ぶ。ルールはひとがつくったものだし、〈抵抗権〉が生まれたのは封建社会という悪しきルールを破るためにあったから運用されたのだ。自分らから見て〈奸物〉だと絶対に断定したものを撃つのは〈ルール改変〉のために不可避だった、難攻不落の城を落とすためにはそれしか道がなく、むしろ悪政がはびこったところに〈道〉を開くには、仕方なく必要なときがある、とするのが革命路線の考え方なのだ。ルールをメタ視点に眺めたときに、ルール自体が機能しない悪政のときには暴力、というわけなのだ。その単純明快さから、血気盛んなひとたちはその革命理論は知らずとも、それに賛同してしまい、ときに暗殺というかなしいしルール上あってはならない出来事を賛美する」
 わたしはさらに尋ねる。少し、いじわるに。
「わたしたちはどういう立場なのです?」
 コノコ姉さんは、楽しそうに言う。
「〈舞台の裏〉ではなにが起こっているか、知らない人間の意見なのだ。〈闇に紛れて魑魅魍魎と戦う〉のがわたしたちなのだ。この裏の世界ではルールも道徳も違うものなのだ」
「どう違うのです?」
「裏と裏で戦うときに基準になるルールがあるなら、強いて言えば〈信念という名の美学〉なのだ。そしてわたしたちは〈裏にある闇同士〉で〈信念のぶつかり合い〉をしているのだ。己を信じないと闇に呑まれて〈殺される〉側になるだけなのだ」

 わたしは黙り込む。
 戦いは続く。
 姉さんの言葉は、答えになっていないと思うのは、おかしいでしょうか。
 でも、現実問題として、強大な暴力がわたしたちを襲ってきて、それを向かい打たねばならないのもまた事実だし、ルールが適用、運用が出来る状態ではないのも、その通りなのでした。
 そこには、殺さなきゃ殺される状況下が寝転がっているだけなのです。


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