セーフ・アズ・ミルク【第十話】

文字数 1,641文字





 その深みの奥にわたしは見た。四折紙葉のまま、宇宙にあまねく散らばるものが、愛によって一冊の本に綴じられ、残らずここに取り集められているのを。
 すなわち、諸々の実体、諸々の偶有、またそれらの相関物が、わたしの語るところ、ただひとつの単純な光にほかならぬかのように、溶融しているのを。

   ——ダンテ『神曲』天国篇第三十三歌——







 放課後、今日はバイトがある日なので、コノコ姉さんと朽葉珈琲店でせっせとバイトをする。
 シンクで洗い物をしながら、軽い飲み物をつくったり、ウェイトレスをする。
 駅前から続く空美坂をのぼる、その途中にあるのが、朽葉珈琲店だ。
 この空美坂には喫茶店や居酒屋が密集している。
 その中でも有名な飲食店のひとつが、朽葉珈琲店である。
 麦酒を運ぶためわたしとコノコ姉さんは店の裏口に来た。
 コノコ姉さんは麦酒樽の上に座り、抹茶ラテを飲む。
 一方のわたしは、瓶麦酒の入っていない麦酒ケースを逆さにして、そこに座り、カフェオレを飲む。
「メダカちゃん」
「なんですか、コノコ姉さん」
「この街には、いろんな職種のひとがいるのだ」
「大きな街ですからねぇ」
「一年くらい前、声優をやっているひとに、『たまごかけご飯も出来ないなんてね!』と、罵倒されたことがあるのだ」
「はい? たまごかけご飯、ですか?」
「落語のマクラの名前で、それのことを言っていたのだと思うのだ」
「はぁ。マクラ、ですか」
「話に相手を引き込む才能が、わたしにはないのだ」
「またまた、そんな」
「いや、実際、そうだったのだ。で、落語のマクラのことをその声優さんは例に出したわけなのだ。そのときはさっぱり意味がわからなかったのだ」
「はぁ……。それがなにか」
「話の導入が上手く行かないなら、本題に入っても聴いちゃくれないのだ。そこが、わたしが他人から理解されないことの一因でもあった、ということなのだ」
「わたしも、話に引き込むのは、苦手ですねぇ」
「だいたいメダカちゃんは、エキセントリックなところがあって、行動原理がわからないことがとても多いのだ」
「よく言われますぅ」
「噺のマクラもなにもあったもんじゃないのだ」
「うぅ」
「で、なのだ」
「なんです、姉さん」
「なにか言いたいことがあるんじゃないのだ?」
 そう、わたしはまず最初に、姉さんに話すことがあったのだ。
 目の前でコノコ姉さんは、抹茶ラテを飲みながら、こっちを見て微笑んでいる。
「転校生のこと、です」
「ふぅむ。切り口としては、そこか、のだ。確かに、転校生・緋縅氷雨は、生徒会長・斎藤めあが呼び寄せた人材なのだ」
「でも、昨日、保険医のサトミ先生を襲撃したのですよぅ」
「サトミ先生は今、休暇を取っているのだ」
「サトミ先生は、無事なのですか」
「今は、涙子ちゃんの家でやってる研究所にいるのだ」
「え? 研究所の所員の娘さんが氷雨ちゃんなのでは」
「つまり、そういうことなのだ」
「そういうこと、とは」
「水兎学、という革命勢力があるのだ」
「鏑木盛夏ちゃん、ですね」
「そうなのだ。さっき言ったけど、この街は広いのだ」
「ええ、そうですね」
「空美野研究所と水兎学の徒が仲が悪い、という構図は理解出来たのだ?」
「出来ました」
「あとは自分の足で歩いて確かめるのだ」
「どういうことで? 話が飛び飛びでわからないですよぉ」

「ウェブ作家・成瀬川るるせ、の正体がメダカちゃんなのだ。作家には、経験値が必要なんじゃないか、のだ。それこそ、自分の経験から噺のマクラが出来るくらいに」

「…………」
「構えることはないのだ。涙子ちゃんの家に行くといいのだ」
「涙子さんの家はどこに」
「空中庭園、なのだ」
「く、空中庭園…………」
「都市鉱山の方にあるのだ」
「産廃の山……ですよね、都市鉱山って」
「その空中に浮いているのだ。あの邸は」
「どういうことで?」
「アポイントメントは取っておくから、バイトが終わったら行ってみるといいのだ」
 それから姉さんはウィンクをして、
「自分の目で確かめるのだ」
 と、わたしに言ったのでした。


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