第4話 〈エス〉の誘いは不穏な調べ
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その時、講堂の裏手にするりと回り込む後ろ姿が見えた。ちらりと見えただけだが、背筋のまっすぐ伸びたきれいな上半身と、
(何をなさっているのかしら?)
わたしは一瞬、
始業の鐘にはまだ時間がある。授業開始直前にばたばたと教室に走り込むようなことは、淑女の学び舎として許されることではないけれど、あと五、六分は道草をしても大丈夫なはず。
もちろん、
でも――
(主よ、この恥知らずな娘をどうかお許し下さい)
今日は朝から、いったい何回
(これも小説の材料がなくて困っている、哀れな父を救うためなのです)
無理矢理親孝行の皮を被ると、わたしは足音を忍ばせて、講堂の裏に回った。
「さあ、お返事を聞かせて下さらないこと? と言ってもお答えはわかっておりますけれど、念のためね」
いきなりよく通るお声が聞こえてきて、わたしは思わずびくりとした。
壁に手を当てて、そっと覗き込む。
(ああ、やっぱり……)
五年A組の
まだ入学して二週間足らずの一年生でも、超有名人のこの方のことを知らぬ者はない。
鏡華さんが大輪の牡丹の華やかさだとすれば、房子さまは楚々とした
成績は常に学年一位。しかも、おっとりと浮世離れしたお嬢様が多い中で、体操の時間のフートボール※なども大変お得意で、五年生の体操の時間には、熱狂的な房子さまファンである下級生たちが、その颯爽たるお姿を一目見ようと、教室の窓から亀の子のように首を突き出すので、先生が教鞭で
正に才色兼備を絵に描いたような方なのだが、房子さまには下級生たちから熱っぽい憧れの瞳を向けられると同時に、
それは、一見優しげな大和撫子風の外見とは裏腹に、房子さまは御父上の血を濃く受け継いでおられ、人を
なんでも、生徒の中には房子さまの意のままに動く「忠臣」が何人もいるのに加え、小野寺家から毎年多額の寄付が学校になされているために、校長先生でさえ、房子さまには非常に丁寧に接せられるとのことだった。他の先生方などは、それこそ腫れ物に触るような態度を
房子さまの
実際、この春から二年生のはずの方がお一人、ずっと学校を休んでいらして、その原因は房子さまのご機嫌を損ねたことにある、と
「そんなに緊張なさらなくてもよろしいわ。イエスか、ノーか。簡単なことですもの。イエスなら、その可愛らしいお首をひとつ縦に振って下されば、それでよくってよ」
そういうことか。わたしは
女学校には、〈エス〉と呼ばれる関係がある。
〈エス〉というのは、〈シスタア(SISTER)〉の頭文字で、文字通り上級生と下級生が〈姉妹〉の契りを結ぶことを意味する。ただ、わたしも話には聞いていたものの、実際に
房子さまのお声はあくまで優しげなのに、なぜか
鏡華さんは、黙ってじっと房子さんを見返していた。なんという勇気! わたしはひそかに舌を巻いた。もしわたしが鏡華さんの立場なら(まあ、そういう状況はあり得ないけれど、あくまで仮定として)、俯いたまま眼も上げられず、雰囲気に流されるまま頷いてしまうに決まっている。
だって、房子さまからのお申し出なのだもの。
そもそも、拒絶するなんて選択肢は存在しないのだ。
やがて――
銀の鈴をうち振るような美しいお声が響いた。
「お断りいたします」
わたしはそれが、鏡華さんの桃の蕾のような唇から発せられた言葉であることを確認するために五秒ほど時間がかかり、その言葉の意味を理解するのに、更に七秒ほどかかった。
※ 現代の表記では、「フットボール」。つまり、サッカーのこと。日本では、既に明治期末から女学校に導入されており、体操の時間や休み時間に女学生が「フートボール」に興ずる姿はごく普通に見られた。