第22話 空き家の冒険、始めませう(前)
文字数 1,641文字
月が、出ていた。
白い月の光に照らされた庭は、まるで荒れ果てた海の底だった。
右手にカンテラ、左手に木剣を持った夏子さんが先頭、次がやはり木剣を持った鏡華さん、殿 が何も持っていないわたし。こんなことなら、お台所の擂 り粉木 でも持ってくればよかったかしら、とちらりと思う。
「こず枝さん、わたしの後ろから離れないでね」
「う、うん。わかった」
やがて、例の硝子戸の開いている場所に着いた。
カンテラの光はぼんやりしていて、照らせる範囲もごく狭い。しかも、光の届かない場所はかえって闇が深くなるような気がする。
夏子さんが足音も立てずに中に入る。鏡華さんも今は躊躇 なく、すっと敷居を跨いだ。後ろから離れないよう言われているわたしも、慌てて後に続く。
建物の中は、外と比べて温度が二三度低いようで、思わず身震いが出た。
しかも、夏子さんのカンテラの動く度に、その光の中に蝋 のように蒼ざめた西洋婦人が浮かび上がりそうで、足元に落とした視線を上げることができない。
がらんとした大きな部屋があった。
カーテンが外れたり、破れたりしているところから、月光が縞をなして差し込んでいる。揺れ動く灯りに、一瞬天井からぶら下がった蜘蛛のお化けみたいなものが映ってぎょっとしたけれど、よく見れば大飾燈 だった。映画では見たことがあるが、実物を眼にするのは初めて。きっと客間のようなお部屋だったのだろう。
鏡華さんの左手が動いて、再び手訣 を形作る。口の中で低く呟く声が漏れている。方位を観ると教えてもらったばかりだけれど、この闇の中で聴くと、まるで
鏡華さんが準備してきたのは七星剣だけではなかった。時々ぴたりと立ち止まると、制服のポケットからお札 のようなものを取り出して貼りつける。こんなものが入れられるなんて、香蘭の制服が作られて以来、初めてのことに違いない。制服もさぞや驚いていることだろう。
鏡華さんが貼り易いように、夏子さんがカンテラで照らす。そこは柱だったり、壁だったり、寝椅子 や家具の上だったりする。お札は黄色っぽい紙で、複雑な漢字が毛筆で書いてあった。もちろん、何が書いてあるのかはわからない。
「鏡華さん、このお札みたいなものは何なの?」
そっと小声で訊いてみた。
話しかけるなんて邪魔になるだけだとわかってはいたけれど、わたしの不安は身体の芯にじんじんと痛みを覚えるほど強まっており、鏡華さんがちゃんと鏡華さんのままでいてくれるかどうか確かめないと、もう気が変になりそうだったのだ。
「これはね、九 天 聖帝 驅 邪 斬 鬼 符 って言うの」
実はわたしがこの記録を残すにあたって、後で鏡華さんに字や内容を確かめたところが多々ある。
あの時の現場では、
『これは、キュウテンセイテイクジャザンキフって言うの』
『はい???』
みたいな感じだったのだが、とにかくいつもの落ち着いた鏡華さんのお声だったので、わたしは心の底からほっとしたのだった。
「最後の一枚」
鏡華さんは、囁くように言った。「これで北斗の陣が完成するわ」
わたしは、自分が無意識にお札の数をかぞえていたことに気づく。次が七枚目、のはず。
夏子さんのカンテラに照らされて浮かび上がったのは、暖炉だった。
鏡華さんの唇が、わたしの耳に触れそうに近づく。
「こず枝さん、これから何が起こっても、何を見ても、絶対にこの場所を動かないで。声を立てるのもだめよ。よくって?」
こくこくと、わたしは無言で大きく頷いてみせた。
鏡華さんは、最後のお札をそっとマントルピースに貼った。
(…………!)
周囲の闇の密度が、急に高くなった気がした。空気が固形物と化したようで、思い切り力を入れないと呼吸ができない。
そして、わたしは見たのだ。
さっきまで何もなかったはずの部屋の奥の壁際がぼうっと白くなり、そこに二つの影が浮かび上がるのを。
「助けて!」
少女の喉から発せられたとおぼしき声が、闇を裂いて響き渡るのと同時に。
白い月の光に照らされた庭は、まるで荒れ果てた海の底だった。
右手にカンテラ、左手に木剣を持った夏子さんが先頭、次がやはり木剣を持った鏡華さん、
「こず枝さん、わたしの後ろから離れないでね」
「う、うん。わかった」
やがて、例の硝子戸の開いている場所に着いた。
カンテラの光はぼんやりしていて、照らせる範囲もごく狭い。しかも、光の届かない場所はかえって闇が深くなるような気がする。
夏子さんが足音も立てずに中に入る。鏡華さんも今は
建物の中は、外と比べて温度が二三度低いようで、思わず身震いが出た。
しかも、夏子さんのカンテラの動く度に、その光の中に
がらんとした大きな部屋があった。
カーテンが外れたり、破れたりしているところから、月光が縞をなして差し込んでいる。揺れ動く灯りに、一瞬天井からぶら下がった蜘蛛のお化けみたいなものが映ってぎょっとしたけれど、よく見れば
鏡華さんの左手が動いて、再び
何か
が鏡華さんにのり移ってしまったようで、正直怖い。鏡華さんが準備してきたのは七星剣だけではなかった。時々ぴたりと立ち止まると、制服のポケットからお
鏡華さんが貼り易いように、夏子さんがカンテラで照らす。そこは柱だったり、壁だったり、
「鏡華さん、このお札みたいなものは何なの?」
そっと小声で訊いてみた。
話しかけるなんて邪魔になるだけだとわかってはいたけれど、わたしの不安は身体の芯にじんじんと痛みを覚えるほど強まっており、鏡華さんがちゃんと鏡華さんのままでいてくれるかどうか確かめないと、もう気が変になりそうだったのだ。
「これはね、
実はわたしがこの記録を残すにあたって、後で鏡華さんに字や内容を確かめたところが多々ある。
あの時の現場では、
『これは、キュウテンセイテイクジャザンキフって言うの』
『はい???』
みたいな感じだったのだが、とにかくいつもの落ち着いた鏡華さんのお声だったので、わたしは心の底からほっとしたのだった。
「最後の一枚」
鏡華さんは、囁くように言った。「これで北斗の陣が完成するわ」
わたしは、自分が無意識にお札の数をかぞえていたことに気づく。次が七枚目、のはず。
夏子さんのカンテラに照らされて浮かび上がったのは、暖炉だった。
鏡華さんの唇が、わたしの耳に触れそうに近づく。
「こず枝さん、これから何が起こっても、何を見ても、絶対にこの場所を動かないで。声を立てるのもだめよ。よくって?」
こくこくと、わたしは無言で大きく頷いてみせた。
鏡華さんは、最後のお札をそっとマントルピースに貼った。
(…………!)
周囲の闇の密度が、急に高くなった気がした。空気が固形物と化したようで、思い切り力を入れないと呼吸ができない。
そして、わたしは見たのだ。
さっきまで何もなかったはずの部屋の奥の壁際がぼうっと白くなり、そこに二つの影が浮かび上がるのを。
「助けて!」
少女の喉から発せられたとおぼしき声が、闇を裂いて響き渡るのと同時に。