第8話 提灯ブルマーもモダンに着ませう

文字数 3,033文字

 午後の英語の授業は、最悪だった。
 昼休みに起こったできごとが強烈すぎて、先生のミセス・ハーパーが出席を取る時、名前を呼ばれたら、「Present(プレゼント)」と答えなければいけないのに、「あ、はい、います」と答えて級友(クラス・メート)の失笑を買い、「Reader(リーダー)」の教科書を読む時も、ちゃんと下読みをしてきたはずなのに、アルファベットが手に手を取って勝手にワルツでも踊り出したようで一行も読めなかった。
 しまいには、ミセス・ハーパーに妙に間延びした日本語で、
「顔を、洗って、きなさーい」
 と怒られる始末。

 ようやく放課後になったが、落ち込んでいる暇もなく、鏡華さんが近づいてきて、
「この後、お時間はあって?」
 とお聞きになる。
「予定は特にないけれど」
 とわたしが答えると、
「よかった」
 鏡華さんはぱっと頬を輝かせて、軽く手を打った。その表情と動作のなんという可愛らしさ。思わず見()れてしまったわたしは、その後で鏡華さんが囁いた「じゃあ、――へ行きましょう」という言葉の「――」の部分がよく聞こえなかった。
「どこへ?」
「運動場よ」
「運動場? いったい何をするの?」
「もちろん、フートボールの練習よ」
「きょ……今日から?」
「だってこず枝さんは、フートボールのご経験がないのでしょう? 基本練習から始めなければいけないわ。試合の日まで二週間しかないんですもの、のんびりしている時間はなくってよ」
 言い終わるや、わたしの手を取って、そのまま連れて行こうとする。ちょ、ちょっと待って。わたしは慌てて鞄を掴む。鏡華さんって、少し強引。でも、そういうところが、けっこう嫌いじゃなかったりする。

 運動場に着いたわたしたちは、思わず顔を見合わせた。
 既に先客がいたのである。
 房子さま率いる五年A組のお姉さま方。
 五年生の教室の方が、一年生の教室がある棟よりずっと運動場に近い。お姉さま方はその地の利を活かし、さっさと運動場を占拠してしまったのだ。
 香蘭の生徒たちは学校の授業の他に、ピアノやフランス語、日本舞踊といった習い事、お稽古事をなさっている方が多いので、もちろん(クラス)の全員がお揃いになっているわけではないのだろうけれど、正式なフートボール・チームが組めそうな人数は確かにいた。

 この時、どなたかが蹴ったボールが大きく()れて、こちらへ飛んできた。わたしの前の地面で大きく()ねて、そのままわたしの顔にぶつかりそうになる。
「きゃっ」
 思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
 (せつ)()――
 (さつ)と鏡華さんの腕が伸びると、くるりと巻きとるようにボールを捉えていた。
 敏捷で鮮やかな鏡華さんのお姿に、呆然と眼を(みは)るわたし。

「大丈夫?」
 まるで(ともえ)()(ぜん)もかくやと思われるようなご立派な体格をした方が、どすどすという感じで走っていらした。
「お怪我はないでしょうね? すごい悲鳴を上げられたけど」
「だ、大丈夫です」
 わたしは自分の周章(しゅうしょう)狼狽(ろうばい)ぶりが恥ずかしく、スカートの裾を直しながら慌てて立ち上がった。
 鏡華さんが黙って、ボールを巴御前に差し出す。
「ありがとう。あら?」
 巴御前は今気づいたように、まじまじと鏡華さんを見つめて言った。「あなた方、

林鏡華さんとそのご親友ね」
 嘘。最初から知っていたに決まっている。肉厚のお顔の中の小さな眼が、意地悪そうに光っていた。ボールだって、偶然こっちに飛んできたのかどうかあやしいところだ。
 巴御前は、わざとらしく気遣わしげな表情をわたしに向けた。
「でも、ボールが怖いようでは心配ね。あなた、フートボールをしたことはおあり?」
「あ、ありません」
 ぷっと巴御前は噴き出した。
「これじゃあ、やる前から勝負は決まったようなものだわ。真面目に練習するだけ馬鹿らしいかしら」
「やる前から決まっている勝負なんてありませんわ」
 凛然とした鏡華さんのお声だった。
「た、大した自信だこと」
 さすがの巴御前も鏡華さんの堂々たる態度に(はな)(じろ)んだようだった。「でも、練習はどうなさるの? ボールはわたしたちが全部借りてしまいましたわよ」
(あき)()さん、一年生の方をいじめるのも大概になさいまし。勝負はフェアでなければいけませんわ。林さん、春野さん、もしよろしかったらご一緒に練習なさいませんこと?」
 よく通る声が響き渡った。
 言わずと知れた房子さまが、腰に両手を当てて立っておられた。
 他の五年生たちが自然にすっと左右に分かれるので、房子さまと鏡華さんの間に直線の道のようなものができている。

 モーセ手を海の上に(のべ)ければヱホバ終夜(よもすがら)強き東風をもて海を退(しりぞ)かしめ海を陸地(くが)となしたまひて水(つい)(わか)れたり。※

 なぜか『旧約聖書』の「出エジプト記」の一節を思い出してしまった。
 一般に〈提灯(ちょうちん)ブルマー〉と称される体操服は、動き易い代わりに見た目は野暮ったいシロモノだが、房子さまも鏡華さん同様おみ足がすらりとしているせいか、かえってモダンに見える。
 美人は何を着ても似合う――というのは、単純にして深淵なる真理だ。
 それにしても、鏡華さんが相手にしようとしているのは香蘭女学校のモーセとは……。

「小野寺さま、ありがとうございます。でも、今日はこれにて失礼致します」
 鏡華さんは房子さまに丁寧におじぎをすると、わたしに眼で合図して、運動場を離れた。
「あら、もしかして敵前逃亡?」
 巴御前の声が上がり、それに迎合して笑う声を聞こえた。わたしは悔しかったけど、振り返る勇気はなかった。鏡華さんは別としても、もしわたしがあの場に残っていたら、お姉さま方のいい(なぐさ)み物になっていたに決まっているから。

「こず枝さん、ごめんなさいね。わたしのせいで、嫌な思いをさせてしまって」
 鏡華さんが優しい声でそう言ってくれた時、わたしはつい泣きそうになった。
 わたしたちは校門のあたりに来ていた。もちろん、ここから運動場は見えない。
「ひどいわ、あの方たち。御自分たちは最上級生なのに、あんな子供っぽい意地悪をなさるなんて」
「いくら上級生だって、くだらないことをする方は、やっぱりくだらない方でしかないのよ。なんとでも言わせておけばよろしいわ。それより――」
 鏡華さんは、思わずぞくりとするような不敵な笑顔を浮かべた。「確かに小野寺さまはお上手ね。でも、他の方々は正直大したことないわ」
「まあ!」
 あの状況で、この方は冷静に敵情を視察していたって言うの?
「こず枝さん、今日これからわたしの家にいらっしゃらない? 練習は家でもできるわ」
「鏡華さんのお家? すてき。本当にお邪魔してもかまわなくて?」
「もちろんよ。でも――」
 鏡華さんは、こほんとひとつ咳をしてから、お侍さまのように重々しい口調で言った。
「御覚悟召されよ、こず枝どの。秘密の特訓をさせていただくほどに」

 秘・密・の・特・訓?!

 わたし、これから鏡華さんに何をされてしまうのかしら? なんだか興奮しちゃう。きゃー!
 さっき上級生の方に意地悪された、みじめで悔しい気持ちはどこかに吹き飛んでいた。
「ねえ、こず枝さん。さっきからあなたのお顔の表情、くるくる変わっていてよ」
 鏡華さんはふわりと花の(ほころ)ぶように笑うと、人差し指をつと伸ばして、軽くわたしの鼻の頭に触れた。
「こず枝さんって、本当に可愛らしいわ。わたし、あなたのこと、だあい好き」
 
 ああ、もうわたし、鏡華さんに何されてもいい。

※ 『旧約聖書』「出エジプト記」の引用部は、『文語訳 旧約聖書Ⅰ 律法』(岩波書店、2015年、P146)を参照した。
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登場人物紹介

春野こず枝(はるの・こずえ)

本作の主人公兼語り手。香蘭女学校一年生。

母も香蘭女学校の卒業生だったが、去年亡くなった。現在は、あまり売れていない文士の父親と二人暮らし。

鏡華と「少女探偵団」を結成する。

※余談だが、使用させていただいているフリーイラストが美しすぎて、小説作者(南ノ)でさえ、「こず枝さん、あんたこんな美少女じゃないよね」と密かに思っているという噂がある。

林鏡華(リン・キョウカ)

「鳳眼」の美少女で、こず枝とは腹心の友。

台湾出身だが、父親が横浜で貿易会社を経営しているため、日本育ち。

一部の生徒にしか知られていないものの、もう一つの顔を持ち、特殊な事件を解決する。

こず枝とともに「少女探偵団」を結成。

※左の耳の上あたりの髪に、小さい紫色のリボンをイメージしていただくと、より小説のイメージに近くなります。

小野寺房子(おのでら・ふさこ)

香蘭女学校の「女王」と称せられ、下級生から憧れと畏怖の視線を集める五年生。

次期首相候補とも囁かれる大物政治家の御令嬢。

特技はフートボール。


薬師寺光子(やくしじ・みつこ)

こず枝と鏡華の級友(クラスメート)。

母親も香蘭女学校の卒業生で、こず枝の母の親友だった。

父親が小野寺家の執事のため、家族で小野寺邸に住んでいる。


柏木塔子(かしわぎ・とうこ)

香蘭女学校二年生。

一見なよなよした風情の美少女だが、なぜか「剛の者」と称される。

女王房子が唯一苦手とする相手だという噂がある。

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