第32話 写真の秘密、教えませう

文字数 3,975文字

「こず枝さん、こっちこっち」

 薬師寺さんが手を振っていた。
 日曜日の午後。市電の花園橋駅の近くのカフェー。
 わたしは今日、薬師寺さんと、それからもう一人の御方と会う約束をしているのだ。
 その方は薬師寺さんの隣に、銘仙らしい品のいい和装に身を包んで立っていらした。休日だが、わたしと薬師寺さんは制服。最近は、香蘭の制服を着ている時が、なんだか一番自分らしく落ち着いていられる気がする。

 わたしは小走りにそちらへ近づいていって頭を下げた。時間には充分余裕をもって出てきたつもりだったのに、お待たせしてしまったのが申し訳なかった。
「お気になさらないで。お嬢さまがお車を使わせてくださって、わたしたち、はやく着きすぎてしまったの」
 そう言って、その方――薬師寺さんのお母さまは柔らかく微笑んだ。
 わたしが母から女学校時代の話をほとんど聞いていないことを知った薬師寺さんが、今日の席を設けて下さったのである。

「こず枝さん、あなた、面差しや身体つきが雪枝さんによく似ているわ。さっき遠目に見た制服姿のあなたが、あの頃の雪枝さんにそっくりで、なんだか胸がいっぱいになってしまって……」
 女給(じょきゅう)さんが三つのココアを運んできた後、薬師寺さんのお母さまはしみじみした声音(こわね)で仰って、わたしの顔をうち守るのだった。
 雪枝さん。お父さま以外の口から、お母さまの名が呼ばれるのを初めて聞いた気がした。

 わたしの記憶の中のお母さまは限りなくやさしかったが、御身体が弱く、床に()せりがちで、たとえお顔は笑っていらしても、そこには常に憂いのかげがあった。
 しかし、薬師寺さんのお母さまのお話に拠れば、香蘭時代の母はお転婆なくらい活発で、よく大きな声で笑う(クラス)の人気者だったのだそうだ。

「わたしね、今でも眼を閉じると、雪江さん――今日はお名前で呼ばせてね――の笑い声が耳に甦るの。爽やかな五月の空に、まっすぐ上がっていくようなあの笑い声をね」
 薬師寺さんのお母さまは、時折遠くを見るような眼をしながら、当時の母とのさまざまな思い出を語って下さった。

「雪枝さんは活発な生徒であると同時に、すごい文学少女でね、わたしたち仲の良いお友達とにぎやかにおしゃべりしていたかと思うと、いつの間にか自分の席で静かに本を読んでいたりするような方だった。ある時、一冊の薄い同人誌を見せてくれて、『ここに無名の天才がいるわ』って熱っぽく語っていたの。その作家こそ――」
「もしかして、父だったのでしょうか」
 わたしの言葉に、薬師寺さんのお母さまは大きく頷いた。
「そう。女学校を卒業して間もなく、雪枝さんがご両親の反対を押し切って、その作家の方と結婚されたと聞いた時、わたしはなんだか裏切られたような気がしてしまったの」
「裏切られた、ですか」
「女学校時代、わたしにとって雪枝さんは一番大事な人だった。だから、自分の知らぬ間に、雪枝さんが男の人とそんな関係になっていたのが許せなかったんだと思うわ。要するに、嫉妬ね。醜い嫉妬」
「それで母は自暴自棄(やけ)になって、お見合い結婚しちゃったの。その結果生まれたのがわたしというわけ」
 薬師寺さんが悪戯(いたずら)っぽく笑いながら口を(はさ)んだ。
「あら、自暴自棄だなんて」
 薬師寺さんのお母さまは一旦打ち消したが、真面目な顔で少し考え込むと、やがて静かな声でこう言った。
「そうだったのかもしれないわね。多くの女学生にとって、学業の終わりは婚姻生活の始まり。卒業前から許嫁(いいなずけ)がいる人だって珍しくはなかったんですもの。女学校での自由で楽しい日々は終わりを告げて、あとは妻として夫に、嫁として舅姑に仕える生活が待っている。子どもが生まれれば、今度は母としての務めを果たさなければいけない。結婚したが最後、女の人生は義務と忍耐ばかり。
 だから、当時のわたしは、勧められるお見合いの話をかたっぱしから断って、とにかく結婚を先延しにしようとしていたのだけれど、雪枝さんの結婚の噂を聞いて、急に全てが莫迦莫迦(ばかばか)しくなってしまったの。それで、ちょうどその時勧められた方と、写真の顔すらろくに見もせずに結婚を決めてしまって……両親もわたしの豹変ぶりに驚いていたわ」
「お父さまこそお気の毒よ。母ったらね、結婚式の当日初めて、わたしの良人(おっと)になる人は、こんなにおでこの大きい人なのかと思ったんですって。ひどいわよねえ」
 薬師寺さんは軽くお父さまの肩を持つ。
「だって、その時はそれが雪枝さんに対する復讐のような気がしたんだもの。あなたに裏切られて、わたしはこんな不幸な女になってしまいましたって恨み言のひとつも言ってやりたかったのね」
「そんなのとんちんかんだわ。逆恨みもいいところじゃない。こず枝さん、あなたのお母さまのためにも、ここは断固抗議すべきよ。遠慮は要らないから、存分に言っておやりなさいよ」
 薬師寺さんは今度はわたしを(そそのか)す。
「そうね、逆恨みよね。こず枝さん、雪枝さんに謝れなかった代わりにあなたに謝らせて。本当にごめんなさい」
「いえ、そんな……」
 薬師寺さんのお母さまが丁寧に頭をお下げになるので、わたしはすっかり恐縮してしまった。

 確かに、薬師寺さんのお母さまの仰る「復讐」は理の通らないものだろう。でも、わたしにはその気持ちがなんとなく理解できるような気がしたのだ。わたしにとって、鏡華さんのことを考えるのは時に胸を引き絞られるほど苦しいが、その感じとどこか相通ずるものがあると思えたから。

「幸い、良人(おっと)はやさしい人でした。良人に穏やかな愛情を感じていくに従い、わたしも少しづつ、雪枝さんのことを許せるようになった――ごめんなさい、許すだなんて偉そうなこと言って、あなたからすれば噴飯(ふんぱん)ものよね。でも、それが当時の正直な気持ちだったのだから、どうか我慢して聞いてちょうだい。わたしは一度雪枝さんにお会いして、ゆっくり語り明かしたいと思うようになったの。でも、そのうちこの子が生まれて、日々の忙しさにかまけているうちに、とうとうあんなことになってしまって――」
 薬師寺さんのお母さまは袂から手巾(ハンカチ)をお出しになると、しきりに眼尻を拭った。

 やがて少し落ち着かれた薬師寺さんのお母さまは、大事そうに一葉の写真を取り出して(テーブル)に置いた。わたしにとってはすっかりお馴染みの、お母さまと薬師寺さんのお母さま――お二人の体操着姿の写真。
「これ、これ! こず枝さん、なんとこの写真にはすごい秘密が隠されていたのよ! わたしも、ついこの間初めて知ったの」
 薬師寺さんがいきなり興奮ぎみの声で言った。
「秘密ですって? どんな?」
「こず枝さんのお母さまが上級生のお姉さまに睨まれたのがきっかけで、わたしの母をはじめ数人の友人が助太刀してチームを組み、上級生のチームとフートボールの試合をしたと言うのよ。そしてこれは、その試合の後で撮った写真なのよ」
「えっ」
 手に持っていたココアのカップを取り落としそうになるほどの驚きだった。「そ、それって……」
「そうなのよ。わたしたち、母たちと同じようなことをしていたってわけなの。正に歴史は繰り返す、ね。しかも聞いて驚き召さるな、こず枝さん。あなたのお母さまが上級生に睨まれた理由も、エスの誘いを断ったことにあったのよ。断られた上級生にしてみれば、可愛さ余って憎さ百倍、そこから話がこじれて……要するに、事件の経緯もなぞったようにそっくりなのよ。まあ、妖怪退治はなかったようだけれど」
「妖怪退治? 何それ? わたし、そんな話は聞いてないわよ」
 薬師寺さんのお母さまが無心にそう訊いた時、しまったという表情が薬師寺さんの顔に閃いた。
「違うの。ただの言葉の綾よ」
 明らかに狼狽の(てい)で誤魔化そうとする薬師寺さん。
 柏木さんをこの世ならざる場所に連れ去っていた台湾の魔物を、女学生道士の鏡華さんが退治したなんて、たとえ話しても信じてはもらえないだろうし、いや、万が一信じられたら信じられたで、主家のお嬢さまである房子さまが危険に晒されたことがばれてしまう。その一件に娘が関わっていたとなれば、薬師寺さんのご両親は立場上まずいことになるだろう。
 だから、薬師寺さんはあの空き家の冒険について、お母さまにもお話しになっていないのだ。わたしだって、あの晩の出来事を父に教えてはいない。もっともわたしの場合は、新聞連載小説の材料(ネタ)にされかねないという危険があるからなのだが。

「そう、なの?」
「そうよ。ね、こず枝さん」
「は、はい。あの……上級生に、酒呑童子のような方がいらっしゃいまして」
「そうそう、酒呑童子。最初は巴御前に化けていたんだけれど、最後に酒呑童子の本性を現して――」
「あなたたちの話は、なんだかよくわからないわ」
「わからなくていいのよ。あっ、そうだ。こず枝さん、実は母たちの武勇伝はわたしたちよりすごいのよ。ね、お母さま」
 薬師寺さんのお母さまは、その言葉を聞くと笑顔になった。
「そう言えるかもしれないわね。あなたたちは残念ながら引き分けだったそうだけれど、わたしたちのチームは、上級生チームを見事打ち負かしたのよ」
 薬師寺さんのお母さまは、まるでその日の誇らかな気持ちを思い出すようにすっと胸を張った。
  
 薬師寺さん母娘(おやこ)は、再び小野寺家のお車に乗って帰っていかれた。
 わたしはそれを見送った後、物思いがちに家へ帰る道を歩き始めた。すると後ろから、大きな車が緩やかに走ってきて、わたしの横で止まった。
 一瞬、小野寺家のお車が戻ってきたのかと思ったが、すぐにそれが、見覚えのある別なお車だと気づいたわたしは、その場に立ちつくした。
 車のドアが開き、洋装の少女が降り立つ。

「どうして、ここに……?」

 わたしはぽかんと口を開けて、眼の前の人を見つめた。
 いかにも初夏らしい紺のピケのツウピース姿の鏡華さんの姿を。
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登場人物紹介

春野こず枝(はるの・こずえ)

本作の主人公兼語り手。香蘭女学校一年生。

母も香蘭女学校の卒業生だったが、去年亡くなった。現在は、あまり売れていない文士の父親と二人暮らし。

鏡華と「少女探偵団」を結成する。

※余談だが、使用させていただいているフリーイラストが美しすぎて、小説作者(南ノ)でさえ、「こず枝さん、あんたこんな美少女じゃないよね」と密かに思っているという噂がある。

林鏡華(リン・キョウカ)

「鳳眼」の美少女で、こず枝とは腹心の友。

台湾出身だが、父親が横浜で貿易会社を経営しているため、日本育ち。

一部の生徒にしか知られていないものの、もう一つの顔を持ち、特殊な事件を解決する。

こず枝とともに「少女探偵団」を結成。

※左の耳の上あたりの髪に、小さい紫色のリボンをイメージしていただくと、より小説のイメージに近くなります。

小野寺房子(おのでら・ふさこ)

香蘭女学校の「女王」と称せられ、下級生から憧れと畏怖の視線を集める五年生。

次期首相候補とも囁かれる大物政治家の御令嬢。

特技はフートボール。


薬師寺光子(やくしじ・みつこ)

こず枝と鏡華の級友(クラスメート)。

母親も香蘭女学校の卒業生で、こず枝の母の親友だった。

父親が小野寺家の執事のため、家族で小野寺邸に住んでいる。


柏木塔子(かしわぎ・とうこ)

香蘭女学校二年生。

一見なよなよした風情の美少女だが、なぜか「剛の者」と称される。

女王房子が唯一苦手とする相手だという噂がある。

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