第21話 鏡華姐さんと呼んでもよくって?
文字数 1,781文字
「まるで不思議な生き物でも見るように御覧になるんだもの。もう、ひどい人ね。こず枝さんは」
ちょっと拗ねたように鼻にかかった鏡華さんの声が、かわいかった。
「違うわ。指の動きがあんまりきれいで見惚 れていたの。まるで手品みたい」
ああ、なぜエバがエデンの園を追放されたかよくわかる。訊きたいことが、わっとばかりに頭に押し寄せて交通整理が大変。
「わかった、わかったわ。順を追って話すから、落ち着いてお聞きになって」
わたしの頭の中で好奇心の虫がうようよ蠢 いているのを察したらしく、鏡華さんはちょっと慌てたように言った。
「正確にはね、わたしの父が正一 派の道士なの。わたしはせいぜい見習い道士ってところね。正一派というのは、全真 派と並ぶ道教の二大流派の一つで、台湾の道教は正一派なの」
「道士……でも、鏡華さんのお父さまって、貿易会社を経営していらっしゃるんでしょう?」
「今父がやっている貿易会社は、もともと父の長兄が祖父から引き継いだものなのよ。次男である父は早くから家を出て道士の修行をしていたの。でも、長兄は身体が弱くて、三十になるかならないかの若さで不幸にも亡くなってしまった。そこで父が家に呼び戻され、会社を継ぐことになったってわけ。でも、道士として父の名前はコウコに少しは知られていたから、今でも時々こうした依頼があるの」
「コウコって?」
「うーん、説明が難しいわね。長江の江に、湖って書くのだけれど、こず枝さん、『水滸伝』はご存知?」
「うん、まあ、知ってる……かな」
梁山泊 に集う百八人の豪傑の物語。子供向きの本で読みました。原文で読んでいる鏡華さんの前ではお恥ずかしゅうございますが。
「江湖っていうのは、『水滸伝』の世界を想像すると、わかり易いかもしれないわ。古来中国では、表の世界である官の世界に対し、江 湖 と呼ばれる裏の世界があるの。江湖は、表の世界とは異なる独自の道徳観、価値観に基づいて動いている。例えば、科挙の試験に合格して官途に就くのが表の世界の理想だとすれば、それにあえて背を向け、狭義を重んじるような生き方が江湖では逆に評価され、人望を集めるのよ」
「そうか、だから『天保水滸伝』なんていう講談が日本で作られるわけね」
「てんぽう、すいこでん?」
鏡華さんが首を捻った。ご存知なかったらしい。今度はわたしが説明する番だった。
お父さまが新聞で時代物の連載を始めるにあたって、参考資料のおつもりか、講談本をいろいろ買い揃えていた。その一冊に、『天保水滸伝』があった。
天保年間、下総 で起こった笹川繁蔵 と飯岡助五郎 という二人の侠客の決闘のお話なのだが、講談の世界では笹川繁蔵が義理人情に篤 い善玉で、お上から十手 捕縄 を与 かる助五郎が、逆に卑怯な悪玉ということになっている。確かに、繁蔵は梁山泊の豪傑たちと気が合いそうだ。
「ふうん、そういうお話があるのね。面白そうだわ、今度貸して下さらない?」
「もちろん、いいわよ」
おそらく無意識なのだろう、鏡華さんは指で木剣をくるくると回していた。いつも上品な雰囲気の鏡華さんだけれど、木剣を手にした姿は、『天保水滸伝』の連想からかまるで女侠客 みたいに見えた。
(鉄火 肌 の鏡華さん、それもいいかも……)
ひとふりの木剣を腰に、江湖を渡り歩く鏡華姐さん。本家本元の『水滸伝』と笹川繁蔵の義理人情の世界がごちゃまぜになったような空想に、ついうっとりしてしまうわたしだったが、ふと思いついて、
「その剣は、何の木でできているの?」
と訊いてみた。
「桃の木よ」
「桃?」
木剣は樫の木で作るのが普通と聞いたことがあったので、鏡華さんの答えは意外だった。
「桃の木には辟邪 、つまり、邪悪なものを祓う力があると言われているの。だからこの剣は別名、桃木剣 とも呼ばれるわ」
へえー。
だから、桃から生まれた桃太郎は鬼退治ができたのか。
わたしがそんなことを考えていると――
「着きました」
夏子さんの低い声が響いた。
お車は、いつの間にかあの空き家の前に止まっていた。
昼でも不気味な廃屋。今車のライトに浮かび上がった禍々 しさに充 ち満 ちていた。
夏子さんはハンドルから手を離すと、座席の横に置いてあったものを取り出した。
それは、鏡華さんの手にあるのとよく似た木剣。
(ということは、夏子さんも、道士……?)
ちょっと拗ねたように鼻にかかった鏡華さんの声が、かわいかった。
「違うわ。指の動きがあんまりきれいで見
ああ、なぜエバがエデンの園を追放されたかよくわかる。訊きたいことが、わっとばかりに頭に押し寄せて交通整理が大変。
「わかった、わかったわ。順を追って話すから、落ち着いてお聞きになって」
わたしの頭の中で好奇心の虫がうようよ
「正確にはね、わたしの父が
「道士……でも、鏡華さんのお父さまって、貿易会社を経営していらっしゃるんでしょう?」
「今父がやっている貿易会社は、もともと父の長兄が祖父から引き継いだものなのよ。次男である父は早くから家を出て道士の修行をしていたの。でも、長兄は身体が弱くて、三十になるかならないかの若さで不幸にも亡くなってしまった。そこで父が家に呼び戻され、会社を継ぐことになったってわけ。でも、道士として父の名前はコウコに少しは知られていたから、今でも時々こうした依頼があるの」
「コウコって?」
「うーん、説明が難しいわね。長江の江に、湖って書くのだけれど、こず枝さん、『水滸伝』はご存知?」
「うん、まあ、知ってる……かな」
「江湖っていうのは、『水滸伝』の世界を想像すると、わかり易いかもしれないわ。古来中国では、表の世界である官の世界に対し、
「そうか、だから『天保水滸伝』なんていう講談が日本で作られるわけね」
「てんぽう、すいこでん?」
鏡華さんが首を捻った。ご存知なかったらしい。今度はわたしが説明する番だった。
お父さまが新聞で時代物の連載を始めるにあたって、参考資料のおつもりか、講談本をいろいろ買い揃えていた。その一冊に、『天保水滸伝』があった。
天保年間、
「ふうん、そういうお話があるのね。面白そうだわ、今度貸して下さらない?」
「もちろん、いいわよ」
おそらく無意識なのだろう、鏡華さんは指で木剣をくるくると回していた。いつも上品な雰囲気の鏡華さんだけれど、木剣を手にした姿は、『天保水滸伝』の連想からかまるで女
(
ひとふりの木剣を腰に、江湖を渡り歩く鏡華姐さん。本家本元の『水滸伝』と笹川繁蔵の義理人情の世界がごちゃまぜになったような空想に、ついうっとりしてしまうわたしだったが、ふと思いついて、
「その剣は、何の木でできているの?」
と訊いてみた。
「桃の木よ」
「桃?」
木剣は樫の木で作るのが普通と聞いたことがあったので、鏡華さんの答えは意外だった。
「桃の木には
へえー。
だから、桃から生まれた桃太郎は鬼退治ができたのか。
わたしがそんなことを考えていると――
「着きました」
夏子さんの低い声が響いた。
お車は、いつの間にかあの空き家の前に止まっていた。
昼でも不気味な廃屋。今車のライトに浮かび上がった
それ
は、心臓をぎゅっと鷲掴みにされるような夏子さんはハンドルから手を離すと、座席の横に置いてあったものを取り出した。
それは、鏡華さんの手にあるのとよく似た木剣。
(ということは、夏子さんも、道士……?)