第19話 義を見てせざるは勇無きなり
文字数 2,459文字
「こず枝さん、手を離して。苦しいわ」
気がつくと、思いっきり鏡華さんの身体にしがみついていた。
「だって見て! カーテン、カーテンが動いて……」
「あれは風よ」
「か、ぜ……?」
確かに、揺れるカーテンの向こうには何も見えない。
「ご、ごめんなさい」
わたしが鏡華さんから離れるのと、夏子さんが飛ぶようにして現れたのがほとんど同時だった。
「お嬢さま、いかがなさいました」
夏子さんの声には、緊張の糸がぴんと張っていた。
「大丈夫よ。まだ何もしてないわ」
すみません。まだ何もしていないのに、風で揺れたカーテンに悲鳴を上げたのはわたしです。
「お嬢さまが何かなさる前に、春野さまに大きな声を出していただいてよかったです」
夏子さんの声に皮肉な調子はなかった。それに、わたしの名前を知っていて下さったことに、ちょっと感動した。
「あら、わたしがとんだ無鉄砲のお転婆娘みたいじゃない」
鏡華さんがちょっと口を尖らす。
「それはそれとして――」
夏子さんは開いた硝子戸の方へ向き直った。すごい、夏子さん。今鏡華さんを軽くいなした?
「まさか、これほどとは……」
わたしもようやく気づいた。夏子さんの緊張は解かれていない。それどころか、まるで野生動物が敵の存在を感知して全身の毛を逆立てるような気配が、その全身に漲っている。
一方の鏡華さんは、無言で一歩前に出た。左の足が硝子戸の敷居の上にかかろうとする、まさにその時――
「お嬢さま!」
夏子さんが押し殺した、鋭い声を発した。
鏡華さんは載せかけた足を、すっと戻した。
「残念ながら、準備が足りないわね」
厳しかった夏子さんの表情が少し緩んだ。
「ここは、一旦退いて出直すべきかと」
「そうするわ。でも、もう二週間以上経っている。これ以上引き延ばせば、柏木さんを安全に連れ戻せるかどうかわからない。いや、今だってもう――」
わたしが口を挟まなかったのは、遠慮していたからではない。事態が完全にわたしの理解を超えていて、池の鯉よろしく口をぱくぱくさせているしかなかったからだ。
「旦那さまにご相談した方がよろしいのではありませんか」
「いやよ」
鏡華さんは、つんとそっぽを向いた。「『お前はまだまだだなあ』なんて笑われるのがオチだわ。それにこの件がうまくいけば、お小遣い上げてもらえるって約束なんだもの」
あれ、話が急に現実的になってきた気が……。
「しかし――」夏子さんが、ちらりとわたしの方へ視線を走らせた。
鏡華さんは、わかっているというふうに頷くと、わたしに言った。
「こず枝さん、今晩わたしはもう一度この場所に来るつもり。でも、こず枝さんは来ない方がいいかもしれない。思ったより手 古 摺 りそうなの」
「ねえ、話がさっぱりわからないわ。先ずそれを説明して下さる? 柏木さんは、この家の中に監禁されているってこと?」
「おそらく、ね」
「それなら考える必要はないのではなくって? すぐ警察に知らせましょう」
「いえ、警察は駄目よ」
「ど、どうして?」
「警察がこの家をいくら捜索したって、何も見つけられないわ」
「秘密の隠し部屋とかがあるわけ?」
「隠し部屋――ある意味、そうね。でも、それはわたしたちが今見ている世界とは違う次元に存在している部屋なの」
もしわたしがロボットだったら、頭の螺子 が弾け飛んで、そこからシューシューと蒸気みたいなものが漏れていたに違いない。
鏡華さんは冷静な声で続けた。
「柏木さんを監禁しているのは、
「人ではない、って……」
「あやかしとか、魔物とか呼ばれるもの」
生まれてきてから13年間付き合ってきた耳だけれど、わたしは自分が聞いた言葉が信じられなかった。鏡華さんは、いったい何を言っているのだろう。わたしは、何を聞いているのだろう。
江戸時代じゃあるまいし、この昭和の御代 に、帝都であやかし騒ぎですって? そんなのちゃんちゃらおかし――
でも。
わたしの頭の中に、鏡華さんのお部屋の様子が浮かんだ。
書棚の一廓を占めていた中国の古い怪奇譚の数々。女学生の座右の書としては、あまりに不似合いな『易経』。
あれらは単に鏡華さんの趣味ではなく、
それから、袋に入っていた細長い物。あれだって、もしかしたら同じ目的に使用される何らかの道具だったのでは……。
もちろん、常識ではあり得ない話だけれど、常識なんていうのは結局、「わたしが知っていること」という札の下がった小さな家にすぎないのではないだろうか。
家の中に閉じこもって眼と耳を塞ぎ、金輪際 外に出ない方が安全に決まっている。そしてたぶん、賢いやり方。少なくとも、怖い思いをしなくてすむのだから。
だけど、実は知っている。部屋の外は「無」ではないのだ。そこには大きな世界がある。「常識」という名の家には、窓がない。だから自ら外に出てみなければ、そこにどんな風景が広がっているのか知ることはできない。
ドアが今、ノックされている。
ノックというのは、怖い。開けるのは、自分。自分で選んだこと。その結果何が起こっても、誰も責められない。
開ける?
開けない?
「変なことに首を突っ込ませてしまって、本当にごめんなさい。わたしが甘かったわ。正直、これほど力の強いものとは思わなかったの。ここから先は、わたしと夏子さんでやるから、こず枝さんは……」
「ちょっとお待ちになって」
わたしは右の掌をびしっと鏡華さんの鼻先に立てた。鏡華さんが眼を丸くする。
わたしはひとつ深呼吸をした。それから、まっすぐ鏡華さんを見つめて言った。
「わたしたち、少女探偵団を結成したのではなくって」
「そ、それはそうだけれど、危険すぎるわ。それに――」
「鏡華さんは、柏木さんをフートボールチームの一員として迎えたいと仰ったわよね。チームメイトの危難を救うのは、仲間として当然だわ。違っていて?」
ちょっと胸を張って、房子さまみたいに両手を腰に当てると、わたしはこう言い放ったのだ。
「義を見てせざるは勇無きなり、よ!」
気がつくと、思いっきり鏡華さんの身体にしがみついていた。
「だって見て! カーテン、カーテンが動いて……」
「あれは風よ」
「か、ぜ……?」
確かに、揺れるカーテンの向こうには何も見えない。
「ご、ごめんなさい」
わたしが鏡華さんから離れるのと、夏子さんが飛ぶようにして現れたのがほとんど同時だった。
「お嬢さま、いかがなさいました」
夏子さんの声には、緊張の糸がぴんと張っていた。
「大丈夫よ。まだ何もしてないわ」
すみません。まだ何もしていないのに、風で揺れたカーテンに悲鳴を上げたのはわたしです。
「お嬢さまが何かなさる前に、春野さまに大きな声を出していただいてよかったです」
夏子さんの声に皮肉な調子はなかった。それに、わたしの名前を知っていて下さったことに、ちょっと感動した。
「あら、わたしがとんだ無鉄砲のお転婆娘みたいじゃない」
鏡華さんがちょっと口を尖らす。
「それはそれとして――」
夏子さんは開いた硝子戸の方へ向き直った。すごい、夏子さん。今鏡華さんを軽くいなした?
「まさか、これほどとは……」
わたしもようやく気づいた。夏子さんの緊張は解かれていない。それどころか、まるで野生動物が敵の存在を感知して全身の毛を逆立てるような気配が、その全身に漲っている。
一方の鏡華さんは、無言で一歩前に出た。左の足が硝子戸の敷居の上にかかろうとする、まさにその時――
「お嬢さま!」
夏子さんが押し殺した、鋭い声を発した。
鏡華さんは載せかけた足を、すっと戻した。
「残念ながら、準備が足りないわね」
厳しかった夏子さんの表情が少し緩んだ。
「ここは、一旦退いて出直すべきかと」
「そうするわ。でも、もう二週間以上経っている。これ以上引き延ばせば、柏木さんを安全に連れ戻せるかどうかわからない。いや、今だってもう――」
わたしが口を挟まなかったのは、遠慮していたからではない。事態が完全にわたしの理解を超えていて、池の鯉よろしく口をぱくぱくさせているしかなかったからだ。
「旦那さまにご相談した方がよろしいのではありませんか」
「いやよ」
鏡華さんは、つんとそっぽを向いた。「『お前はまだまだだなあ』なんて笑われるのがオチだわ。それにこの件がうまくいけば、お小遣い上げてもらえるって約束なんだもの」
あれ、話が急に現実的になってきた気が……。
「しかし――」夏子さんが、ちらりとわたしの方へ視線を走らせた。
鏡華さんは、わかっているというふうに頷くと、わたしに言った。
「こず枝さん、今晩わたしはもう一度この場所に来るつもり。でも、こず枝さんは来ない方がいいかもしれない。思ったより
「ねえ、話がさっぱりわからないわ。先ずそれを説明して下さる? 柏木さんは、この家の中に監禁されているってこと?」
「おそらく、ね」
「それなら考える必要はないのではなくって? すぐ警察に知らせましょう」
「いえ、警察は駄目よ」
「ど、どうして?」
「警察がこの家をいくら捜索したって、何も見つけられないわ」
「秘密の隠し部屋とかがあるわけ?」
「隠し部屋――ある意味、そうね。でも、それはわたしたちが今見ている世界とは違う次元に存在している部屋なの」
もしわたしがロボットだったら、頭の
鏡華さんは冷静な声で続けた。
「柏木さんを監禁しているのは、
人ではない
ものよ」「人ではない、って……」
「あやかしとか、魔物とか呼ばれるもの」
生まれてきてから13年間付き合ってきた耳だけれど、わたしは自分が聞いた言葉が信じられなかった。鏡華さんは、いったい何を言っているのだろう。わたしは、何を聞いているのだろう。
江戸時代じゃあるまいし、この昭和の
でも。
わたしの頭の中に、鏡華さんのお部屋の様子が浮かんだ。
書棚の一廓を占めていた中国の古い怪奇譚の数々。女学生の座右の書としては、あまりに不似合いな『易経』。
あれらは単に鏡華さんの趣味ではなく、
ある研究のため
に集められた本だったとしたら?それから、袋に入っていた細長い物。あれだって、もしかしたら同じ目的に使用される何らかの道具だったのでは……。
もちろん、常識ではあり得ない話だけれど、常識なんていうのは結局、「わたしが知っていること」という札の下がった小さな家にすぎないのではないだろうか。
家の中に閉じこもって眼と耳を塞ぎ、
だけど、実は知っている。部屋の外は「無」ではないのだ。そこには大きな世界がある。「常識」という名の家には、窓がない。だから自ら外に出てみなければ、そこにどんな風景が広がっているのか知ることはできない。
ドアが今、ノックされている。
ノックというのは、怖い。開けるのは、自分。自分で選んだこと。その結果何が起こっても、誰も責められない。
開ける?
開けない?
「変なことに首を突っ込ませてしまって、本当にごめんなさい。わたしが甘かったわ。正直、これほど力の強いものとは思わなかったの。ここから先は、わたしと夏子さんでやるから、こず枝さんは……」
「ちょっとお待ちになって」
わたしは右の掌をびしっと鏡華さんの鼻先に立てた。鏡華さんが眼を丸くする。
わたしはひとつ深呼吸をした。それから、まっすぐ鏡華さんを見つめて言った。
「わたしたち、少女探偵団を結成したのではなくって」
「そ、それはそうだけれど、危険すぎるわ。それに――」
「鏡華さんは、柏木さんをフートボールチームの一員として迎えたいと仰ったわよね。チームメイトの危難を救うのは、仲間として当然だわ。違っていて?」
ちょっと胸を張って、房子さまみたいに両手を腰に当てると、わたしはこう言い放ったのだ。
「義を見てせざるは勇無きなり、よ!」