第27話 〈剛の者〉だったのはどなた?
文字数 3,127文字
「薬 師 寺 光 子 と申します。父が小野寺家で執事をしております」
お下げ髪の少女は、そう自己紹介した。薬師寺さんは、お父さまのお仕事の都合上、ご家族で小野寺邸に住んでいるのだそうだ。光子さんはもちろん使用人ではないけれど、小さい頃から同じお邸 内にいるため、自然に房子さまのお付きのような存在になっているらしかった。
「柏木塔子と申します。はじめまして」
柏木さんが、またなよなよと薬師寺さんにご挨拶するのを見て、
「は、はじめまして。春野……」
釣られてわたしも挨拶しようとすると、鏡華さんに袖を引っ張られた。
「はじめましてじゃないわ。この方、わたしたちと同じ級 の薬師寺さんじゃないの」
「えっ、同じ級!」
思わず頓 狂 な声を上げてしまった。房子さまがあきれたような眼で、柏木さんが小首を傾 げて、わたしの方を見た。
「わたしは影が薄いのですもの、仕方がありませんわ」
薬師寺さんは、口を押さえてくつくつと笑っている。
「ご、ごめんなさい!」
わたしは頭を下げた。本当に知らなかった。もっとも、香蘭に入ってからの二週間というもの、わたしはずっとこの学校に馴染めずにいたし、その後は息つく暇もない事件の連続で、教室でのわたしはいつも上の空だったというのはあると思う。ただ、それらを差し引いても、同じ級にいながら今まで気づかなかったというのは、あまりと言えばあんまりな話で、わたしはすっかり恐縮してしまった。
ご自分でも「影が薄い」と仰っていたが、あるいは忍者みたいに自分の気配を消せる方なのかもしれない、と言い訳がましく思ってみる。
「さて、どこから話を始めればいいのかしら?」
房子さまが全員を見回すようにして言った。
「時間的に順を追って話していくのはどうでしょうか」
鏡華さんが提案する。
「そうね、それがわかり易いわね」
「では、お訊き致します。小野寺さまと柏木さまは、エスの契りを結ばれたのですか」
単刀直入に、鏡華さんは訊いた。
「違うわ」
「そうですわ」
房子さまと柏木さまが同時に、しかも反対の答えをしたので、わたしはびっくりしてお二人の顔を見比べた。
「お姉さま、この期に及んでまだシラを切るなんてひどうございますわ。塔子は、お恨み申し上げましてよ」
柏木さんは上目遣いに、じぃっと房子さまを見上げる。いまにも涙が溢れそうな眼が、妙な媚 を含んでいる。
「ちょっとお待ちなさい。あなた、わたしがシラを切るって何なの? あなたと姉妹になった覚えはないわ。夢でも御覧になっているのではなくって」
房子さまの声の調子 が急に高くなった。いつもの自信満々なご様子とは異なり、少し――いや、かなり調子を崩しているようだ。
それに対し柏木さんは、触れれば消えてしまいそうな儚げな雰囲気でありながら、妙に粘っこく食い下がる。
「わたしたち、何度もお手紙を遣り取りしたではございませんか」
「遣り取り? あなたが一方的にわたしに手紙を送りつけてきただけでしょう。毎日わたしの靴箱に手紙を入れて、やっと学校がお休みになったと思ったら、今度は直接わたしの家のポストに……」
うわあ、とわたしは心の中で呟いた。ようやく事態が呑み込めてきたのである。柏木さんという方は、弱 竹の上に降り積もった淡雪のような印象とは裏腹に、実はとんでもない「剛の者」だったのである。
「便りのないのは憎からず思う証拠と申すではございませんか。わたしはてっきりお姉さまがわたしを妹と……」
「誰がそんなことを申したのよ! それを言うなら、便りのないのは元気な証拠でしょう!」
ついに堪忍袋の緒が切れたらしく、房子さまはばっと柏木さんの方へ振り向くと、右手で柏木さんの顎をつまんで、くいっと持ち上げた。
「ざくばら※1に申し上げるから、よくお聞きなさい。わたしが誰かとエスの契りを結ぶとしたら、必ずわたしの方から誘うの。わたしがあなたみたいな下級生から誘われて姉妹になるなんて、太陽が西から昇るよりあり得ないことなのよ。おわかりになって?」
これはまずい。直観的にわたしは思った。房子さまとしては、このままでは埒 が明かないといらいらを募らせたあげく、ついに直截 的な行動に出たおつもりなのだろう。しかし、柳 眉 を逆立てて柏木さんの顎を持ち上げた動作には、関係のないわたしでさえ、思わず
「お姉さま。初めてこんなふうに、まっすぐ塔子を見つめて下さいましたわね。ちょっと強引なお姉さまも、素敵……」
長い睫毛に縁どられた、潤みを帯びた眸 が絡みつくように房子さまを見つめ返す。房子さまはぎょっとしたように、慌てて顎をつまんでいた手を離すと、鏡華さんの方へ向き直った。
「林鏡華さん! 今度はあなたにお話ししていただく番よ。はい、皆さん、謹 聴 よ、謹聴! 私語はお慎みなさい」
そんな房子さまの横顔を、幸せな表情で吸い寄せられるように見つめる柏木さん。一方の房子さまは、視線を鏡華さんの上に固定したまま、金輪際 柏木さんの方へ眼を向けまいとしているようだった。
(あの房子さまが、お困りになっていらっしゃる)
こみ上げてくる笑いを抑えるために、わたしは自分の膝をつねらなければならなかった。
鏡華さんは淡々と話し始めた。
鏡華さんのお父さまの噂を聞いた柏木さんのお父さまが、娘の謎の失踪事件について御相談されたこと、その依頼を受け、実質的に事件を調査したのは鏡華さんと夏子さんであったこと――さすがに鏡華さんも、その動機がお小遣いを増やしてもらうことであった点には触れなかったが。
「ところで、
房子さまが訊く。
「緑の猿ですわ」
と柏木さん。
「わたしは河童かと……」
これはわたし。
三人の眼が鏡華さんに集まる。
わたしたちは固唾を呑んで、鏡華さんの顔を打ち眺めていたのだが、当の御本人は天気の話でもするように、さらりと言った。
「あれは、魔神仔 と言って、本来は台湾の山地にいる妖怪の一種です。魔神仔は人間を異界に誘い込みます。異界はもちろん人の眼には見えませんから、失踪したように見えるのです」
「台湾の妖怪、ですって……」
さすがの房子さまも絶句する。
四阿に沈黙が落ちた。
荒れ果てた庭は、まるで深い山の中に身を置いているような錯覚に陥る。急に背筋が寒くなったわたしは、隣の鏡華さんに小声で訊く。
「どうして台湾の妖怪が、横浜に現れたの?」
「清国が台湾を日本に割譲したのが、明治二十八年。既に四十年以上も前の話です。今や、台湾のどんな山奥にも、内地人の足跡を見出すことができると言われています。逆に、わたしのように出身は台湾であっても、内地育ちも珍しくはありません。台湾と内地の往来は盛んです。人も、物も……」
だから台湾の妖怪やあやかし、魔物と呼ばれるものが内地に紛れ込んでいてもおかしくはないのです、と鏡華さんは続けた。
「魔神仔には独特の気配があります。最初にこの空き家を訪れた時、すぐわかりました。でも、思ったより魔力が強かったので、準備を整えるために出直すことにしたのです」
「それで、出直した後が、あの大立ち回りになるってわけね」
房子さまはまじまじと鏡華さんを見つめながら言った。「それにしても、あなたが道士って……。あの現場をこの眼で見なければ、到底信じられなかったと思うわ」
逆に言えば、鏡華さんの能力を目の当たりにした以上、信じぬわけにはいかないというふうにも聞こえた。
「林鏡華さん、あなたって本当に得体の知れない方ね」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
鏡華さんは、涼やかな声でそう言った。
※1 「ざっくばらん」の意味の女学生言葉。
お下げ髪の少女は、そう自己紹介した。薬師寺さんは、お父さまのお仕事の都合上、ご家族で小野寺邸に住んでいるのだそうだ。光子さんはもちろん使用人ではないけれど、小さい頃から同じお
「柏木塔子と申します。はじめまして」
柏木さんが、またなよなよと薬師寺さんにご挨拶するのを見て、
「は、はじめまして。春野……」
釣られてわたしも挨拶しようとすると、鏡華さんに袖を引っ張られた。
「はじめましてじゃないわ。この方、わたしたちと同じ
「えっ、同じ級!」
思わず
「わたしは影が薄いのですもの、仕方がありませんわ」
薬師寺さんは、口を押さえてくつくつと笑っている。
「ご、ごめんなさい!」
わたしは頭を下げた。本当に知らなかった。もっとも、香蘭に入ってからの二週間というもの、わたしはずっとこの学校に馴染めずにいたし、その後は息つく暇もない事件の連続で、教室でのわたしはいつも上の空だったというのはあると思う。ただ、それらを差し引いても、同じ級にいながら今まで気づかなかったというのは、あまりと言えばあんまりな話で、わたしはすっかり恐縮してしまった。
ご自分でも「影が薄い」と仰っていたが、あるいは忍者みたいに自分の気配を消せる方なのかもしれない、と言い訳がましく思ってみる。
「さて、どこから話を始めればいいのかしら?」
房子さまが全員を見回すようにして言った。
「時間的に順を追って話していくのはどうでしょうか」
鏡華さんが提案する。
「そうね、それがわかり易いわね」
「では、お訊き致します。小野寺さまと柏木さまは、エスの契りを結ばれたのですか」
単刀直入に、鏡華さんは訊いた。
「違うわ」
「そうですわ」
房子さまと柏木さまが同時に、しかも反対の答えをしたので、わたしはびっくりしてお二人の顔を見比べた。
「お姉さま、この期に及んでまだシラを切るなんてひどうございますわ。塔子は、お恨み申し上げましてよ」
柏木さんは上目遣いに、じぃっと房子さまを見上げる。いまにも涙が溢れそうな眼が、妙な
「ちょっとお待ちなさい。あなた、わたしがシラを切るって何なの? あなたと姉妹になった覚えはないわ。夢でも御覧になっているのではなくって」
房子さまの声の
それに対し柏木さんは、触れれば消えてしまいそうな儚げな雰囲気でありながら、妙に粘っこく食い下がる。
「わたしたち、何度もお手紙を遣り取りしたではございませんか」
「遣り取り? あなたが一方的にわたしに手紙を送りつけてきただけでしょう。毎日わたしの靴箱に手紙を入れて、やっと学校がお休みになったと思ったら、今度は直接わたしの家のポストに……」
うわあ、とわたしは心の中で呟いた。ようやく事態が呑み込めてきたのである。柏木さんという方は、
「便りのないのは憎からず思う証拠と申すではございませんか。わたしはてっきりお姉さまがわたしを妹と……」
「誰がそんなことを申したのよ! それを言うなら、便りのないのは元気な証拠でしょう!」
ついに堪忍袋の緒が切れたらしく、房子さまはばっと柏木さんの方へ振り向くと、右手で柏木さんの顎をつまんで、くいっと持ち上げた。
「ざくばら※1に申し上げるから、よくお聞きなさい。わたしが誰かとエスの契りを結ぶとしたら、必ずわたしの方から誘うの。わたしがあなたみたいな下級生から誘われて姉妹になるなんて、太陽が西から昇るよりあり得ないことなのよ。おわかりになって?」
これはまずい。直観的にわたしは思った。房子さまとしては、このままでは
ぞくり
とさせられるものがあった。「お姉さま。初めてこんなふうに、まっすぐ塔子を見つめて下さいましたわね。ちょっと強引なお姉さまも、素敵……」
長い睫毛に縁どられた、潤みを帯びた
「林鏡華さん! 今度はあなたにお話ししていただく番よ。はい、皆さん、
そんな房子さまの横顔を、幸せな表情で吸い寄せられるように見つめる柏木さん。一方の房子さまは、視線を鏡華さんの上に固定したまま、
(あの房子さまが、お困りになっていらっしゃる)
こみ上げてくる笑いを抑えるために、わたしは自分の膝をつねらなければならなかった。
鏡華さんは淡々と話し始めた。
鏡華さんのお父さまの噂を聞いた柏木さんのお父さまが、娘の謎の失踪事件について御相談されたこと、その依頼を受け、実質的に事件を調査したのは鏡華さんと夏子さんであったこと――さすがに鏡華さんも、その動機がお小遣いを増やしてもらうことであった点には触れなかったが。
「ところで、
あれ
はいったい何者だったの? あの緑色の、小柄なお爺さんみたいなのは」房子さまが訊く。
「緑の猿ですわ」
と柏木さん。
「わたしは河童かと……」
これはわたし。
三人の眼が鏡華さんに集まる。
わたしたちは固唾を呑んで、鏡華さんの顔を打ち眺めていたのだが、当の御本人は天気の話でもするように、さらりと言った。
「あれは、
「台湾の妖怪、ですって……」
さすがの房子さまも絶句する。
四阿に沈黙が落ちた。
荒れ果てた庭は、まるで深い山の中に身を置いているような錯覚に陥る。急に背筋が寒くなったわたしは、隣の鏡華さんに小声で訊く。
「どうして台湾の妖怪が、横浜に現れたの?」
「清国が台湾を日本に割譲したのが、明治二十八年。既に四十年以上も前の話です。今や、台湾のどんな山奥にも、内地人の足跡を見出すことができると言われています。逆に、わたしのように出身は台湾であっても、内地育ちも珍しくはありません。台湾と内地の往来は盛んです。人も、物も……」
だから台湾の妖怪やあやかし、魔物と呼ばれるものが内地に紛れ込んでいてもおかしくはないのです、と鏡華さんは続けた。
「魔神仔には独特の気配があります。最初にこの空き家を訪れた時、すぐわかりました。でも、思ったより魔力が強かったので、準備を整えるために出直すことにしたのです」
「それで、出直した後が、あの大立ち回りになるってわけね」
房子さまはまじまじと鏡華さんを見つめながら言った。「それにしても、あなたが道士って……。あの現場をこの眼で見なければ、到底信じられなかったと思うわ」
逆に言えば、鏡華さんの能力を目の当たりにした以上、信じぬわけにはいかないというふうにも聞こえた。
「林鏡華さん、あなたって本当に得体の知れない方ね」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
鏡華さんは、涼やかな声でそう言った。
※1 「ざっくばらん」の意味の女学生言葉。