第14話 乙女はエバの裔(すえ)なれば……
文字数 2,037文字
「ある場所ってどこ? 柏木さんは、どうして朝早くからそんなところへいらっしゃったの?」
わたしたちは、車中にいた。
一人で帰れるとお断りしたのだけれど、時間が少し遅くなったからとお車で送っていただいているのだ。
「山手公園の近くにある無人のお邸 よ」
「あ、そこ知ってるわ」
登下校の時、坂の途中で眼にする洋館だ。以前はアメリカ人のご夫婦が住んでいたということだが、いつの頃からか空き家になった。嘘か本当か知らないが、夫人が発狂して自殺したという話まであった。
道から垣根越しに庭を覗くと、植木は伸び放題に荒れ、確かに怪談のひとつやふたつ転がっていてもおかしくはない雰囲気だった。
「でも、なんだってあんな恐ろしげなところに柏木さんはおひとりで? どなたかと待ち合わせでもしていらしたのかしら?」
「そうみたいね。運転手の方に、『大事な方とのお約束がある、その方と一緒に学校へ行くからもう帰っていい』と言い置いて、庭の中に入って行かれたんですって」
「大事な方って……もしかして?」
「わたしもそう思うの。おそらく、房子さまのことだわ」
「それで、運転手の方はどうされたの?」
「いくら帰れと言われても、こんな場所にお嬢さまひとりを置いて行くことはできないでしょう。それで、そのお邸の門の外にお車を止めてお待ちしていたらしいの」
「房子さまは、いらっしゃったのかしら」
「運転手の方は見なかったそうよ」
「ねえ、どうして鏡華さんはそんなことをご存知なの?」
鏡華さんは、ちょっと笑って、運転席の方を指差した。
「お迎えにきた運転手の方たちは、待っている間におしゃべりするものなのよ。それでけっこういろんなことがわかってしまうの」
なるほど。そう言えば下校時、校門の外でお車の埃 をモップで取りながら、運転手の方同士でお話をしているのをよく見かける。
(そうか、この方は日本語がおできになるんだ)
女性の運転手は珍しい。しかも、こんな美しい人に話しかけられたりしたら、男の人はついつい、本来他言を憚るようなことまで話してしまうのかもしれない。
「でも、どうして房子さまは、そんな場所に柏木さんを呼び出したりしたのかしら」
「そう言い切ってしまっていいこと? 柏木さんが房子さまを呼び出したという可能性はないの?」
「えっ、だって、それは……」
だって柏木さんは下級生で、房子さまは最上級生――しかも、香蘭女学校の女王のような存在。下級生である柏木さんが房子さまを呼び出すなんて、常識では考えられない。
「もし房子さまが柏木さんを呼び出したのなら、房子さまがあの場所に現れなかったのが変だわ。わたしを講堂裏に呼び出した時、房子さまは約束の時間より早く着いて待っていらしてよ」
そうか、房子さまって、そういうところは意外に律儀なんだ。それなら確かに、自分から柏木さんを呼び出しておいて、その場に現れないというのはおかしい。
でも、二年生の生徒が五年生のお姉さまを呼び出すなんて、やっぱり常識では考えにくい。考えにくいけれど――
(もし、柏木さんが常識では測れない人だったら?)
房子さまにはお会いしたことがある。名前を訊かれてお答えしただけだが、一応言葉を交わしたこともあると言っていいだろう。しかし、柏木さんについては、去年の一年生の中で目立つ美少女だったという以外、正直なところ、ほとんど何も知らないのだ。
「ねえ、お差し支えなければ教えて下さる?」
わたしは前から気になっていたことを、思い切って鏡華さんに尋ねてみた。「房子さまは、どうやって鏡華さんをあの講堂裏に呼び出したの?」
婦 樹 を見 ば食 に善 く目に美麗 しく且 智慧 からんが為 に慕 はしき樹なるによりて遂 に其 果実 を取 て食 ひ亦 之 を己 と偕 なる夫 に与 へければ彼 食 へり。
『旧約聖書』の「創世記」にあるように、エバ※は好奇心に負けて禁断の果実を口にしてしまった。その裔 であるところのわたしも、やはり好奇心というものを抑えがたい。
「靴箱にお手紙が入っていたの」
「やっぱり」
上級生といえども、直接下級生にお手紙を渡すのはさすがに憚 られるので、たいていは靴箱の中にそっと忍ばせておくものらしい。でも、房子さまのことだから、あるいは堂々とお手紙を鏡華さんに手渡したのかもしれないとも思ったのだが、さすがにそこまでの勇気はなかったようだ。
房子さまが、こっそり鏡華さんの靴箱にお手紙を忍ばせるところを想像すると、なんだか少し微笑ましい。そして、その秘密めかした匂いに、わたしの胸にも小さな漣 が揺らぐのだった。
※ 『旧約聖書』の「創世記」に拠れば、神は最初の人間の男女としてアダムとエバを創造した。エバが蛇に唆 され、好奇心に負けてエデンの園の〈善悪を知 の樹〉の実――所謂 〈禁断の果実〉を食べてしまったことにより、初めて自分たちが裸体であることに気づき、羞じ入って無花果樹 の葉で局部を隠したと言う。引用部は『文語訳 旧約聖書Ⅰ 律法』(岩波書店、2015年、P12~P13)を参照した。
わたしたちは、車中にいた。
一人で帰れるとお断りしたのだけれど、時間が少し遅くなったからとお車で送っていただいているのだ。
「山手公園の近くにある無人のお
「あ、そこ知ってるわ」
登下校の時、坂の途中で眼にする洋館だ。以前はアメリカ人のご夫婦が住んでいたということだが、いつの頃からか空き家になった。嘘か本当か知らないが、夫人が発狂して自殺したという話まであった。
道から垣根越しに庭を覗くと、植木は伸び放題に荒れ、確かに怪談のひとつやふたつ転がっていてもおかしくはない雰囲気だった。
「でも、なんだってあんな恐ろしげなところに柏木さんはおひとりで? どなたかと待ち合わせでもしていらしたのかしら?」
「そうみたいね。運転手の方に、『大事な方とのお約束がある、その方と一緒に学校へ行くからもう帰っていい』と言い置いて、庭の中に入って行かれたんですって」
「大事な方って……もしかして?」
「わたしもそう思うの。おそらく、房子さまのことだわ」
「それで、運転手の方はどうされたの?」
「いくら帰れと言われても、こんな場所にお嬢さまひとりを置いて行くことはできないでしょう。それで、そのお邸の門の外にお車を止めてお待ちしていたらしいの」
「房子さまは、いらっしゃったのかしら」
「運転手の方は見なかったそうよ」
「ねえ、どうして鏡華さんはそんなことをご存知なの?」
鏡華さんは、ちょっと笑って、運転席の方を指差した。
「お迎えにきた運転手の方たちは、待っている間におしゃべりするものなのよ。それでけっこういろんなことがわかってしまうの」
なるほど。そう言えば下校時、校門の外でお車の
(そうか、この方は日本語がおできになるんだ)
女性の運転手は珍しい。しかも、こんな美しい人に話しかけられたりしたら、男の人はついつい、本来他言を憚るようなことまで話してしまうのかもしれない。
「でも、どうして房子さまは、そんな場所に柏木さんを呼び出したりしたのかしら」
「そう言い切ってしまっていいこと? 柏木さんが房子さまを呼び出したという可能性はないの?」
「えっ、だって、それは……」
だって柏木さんは下級生で、房子さまは最上級生――しかも、香蘭女学校の女王のような存在。下級生である柏木さんが房子さまを呼び出すなんて、常識では考えられない。
「もし房子さまが柏木さんを呼び出したのなら、房子さまがあの場所に現れなかったのが変だわ。わたしを講堂裏に呼び出した時、房子さまは約束の時間より早く着いて待っていらしてよ」
そうか、房子さまって、そういうところは意外に律儀なんだ。それなら確かに、自分から柏木さんを呼び出しておいて、その場に現れないというのはおかしい。
でも、二年生の生徒が五年生のお姉さまを呼び出すなんて、やっぱり常識では考えにくい。考えにくいけれど――
(もし、柏木さんが常識では測れない人だったら?)
房子さまにはお会いしたことがある。名前を訊かれてお答えしただけだが、一応言葉を交わしたこともあると言っていいだろう。しかし、柏木さんについては、去年の一年生の中で目立つ美少女だったという以外、正直なところ、ほとんど何も知らないのだ。
「ねえ、お差し支えなければ教えて下さる?」
わたしは前から気になっていたことを、思い切って鏡華さんに尋ねてみた。「房子さまは、どうやって鏡華さんをあの講堂裏に呼び出したの?」
『旧約聖書』の「創世記」にあるように、エバ※は好奇心に負けて禁断の果実を口にしてしまった。その
「靴箱にお手紙が入っていたの」
「やっぱり」
上級生といえども、直接下級生にお手紙を渡すのはさすがに
房子さまが、こっそり鏡華さんの靴箱にお手紙を忍ばせるところを想像すると、なんだか少し微笑ましい。そして、その秘密めかした匂いに、わたしの胸にも小さな
※ 『旧約聖書』の「創世記」に拠れば、神は最初の人間の男女としてアダムとエバを創造した。エバが蛇に