第20話 お父さま、今晩は何も訊かずに……
文字数 1,972文字
「ねえ、こず枝さんのお父さまにご挨拶しなくて、本当によかったの?」
「いいのよ。鏡華さんみたいな人にいきなり会ったら、うちの父なんか緊張して、おろおろしちゃうに決まっているもの」
わたしはまた鏡華さんのお車の中にいた。運転しているのは、もちろん夏子さん。
わたしは、ちょっと迷ったが制服を着ていた。やっぱりこれを着ると身が引き締まるような気がするから。
お父さまが新聞に連載している時代物で、お侍が決闘に赴く時、刀の下 緒 できりきりと襷 掛 けをする場面があったが、ちょっとそんな気分だったのだ。
ただ、わたしだけ制服だとおかしいかしら、とちょっと心配だったのだが、鏡華さんも当たり前のように制服姿なのを見て安心した。※
『お父さま、今晩は何も訊かずに行かせて下さい。ちゃんと信用できるお友だちと一緒なの。決していかがわしい所へ出入りしたりするわけではないですから!』
お父さまは暫くじっとわたしの眼を見つめて考えていらしたが、やがて静かな声でこう言ってくれた。
『わかりました。でも、どんなに遅くても9時までには帰るように。それだけは、約束して下さい』
いろいろ変なところもあるお父さまだけれど、今日は心から感謝した。
鏡華さんはわたしの家まで迎えに来ると言って下さったのだけれど、やっぱり花園橋駅近くで待ち合わせということにしてもらった。
自分の家を見られたくないという他に、もうひとつ理由があった。鏡華さんはうちのお父さまに挨拶しなかったことを気にしているみたいだが、鏡華さんは嘘が吐 けない方だ。お父さまに何か訊かれれば、正直に答えてしまうに決まっている。そうなれば、話がややこしくなるのは眼に見えているからだ。
「ところで、鏡華さん。それはいったい何?」
お部屋で見かけた、あの袋に入った細長いものが、今鏡華さんの傍らに置かれている。エバの裔 として、これを訊かずにいられようか。袋の口から垂れた朱房が、お車の振動に合わせて揺れている。
「見てみる?」
意外にあっさり鏡華さんは言うと、袋の中身を抜き出した。
「…………!」
わたしは思わず眼を瞠 る。
なんとそれは、ひとふりの木剣だったのだ。
しかも、刀身にあたる部分には、蛍の光に似た円い文様がいくつも刻まれている。まっすぐ一列に並んでいるのではなく、不揃いな並び方で、円と円の間は線でつながっている。
「この文様はね、北斗七星を象 っているのよ」
「あっ、本当だ!」
数えてみると、円は確かに七つあって、北斗七星の配置だった。
刀身に刻まれた七つの星。
鏡華さんは続ける。
「だからこの剣は、七 星 剣 と呼ばれるの。北斗七星には、古来斬妖 除 魔 の法力があると信じられているから」
「北斗七星って、そんなにすごい星だったの?」
うわあ、これから北斗七星を見る眼が変わりそう。
それにしても――
わたしは改めてまじまじと鏡華さんを見つめずにはいられなかった。
「またそんな眼で見る」
「だって」
「わかったわ。白状するから、そんなふうにわたしを見ないで」
「教えてくれるの?」
「わたしは、ドウシなの」
ドウシ?
「女の子同士」とか言う時の、「同士」みたいに聞こえた。よくわからない。
「道に武士の士で、道士」
「道、士?」
「どう説明すればいいかしら。日本で言うと、陰陽師みたいな感じかしら」
「あっ! つまり、鏡華さんは安倍晴明みたいな人なわけ? 葉っぱを投げて蛙を潰しちゃったりできるの? でも、あれは蛙がかわいそう……」
「わたしは、蛙をいじめたりしないわ。それに日本の陰 陽 道 は陰陽 五行 の影響を受けつつも独自の発達を遂げているから、厳密に言えば違うんだけれど、わかり易く言えばそんな感じ」
そうか。だから『易経』がお部屋にあったんだ!
並んだ部屋に、順番に電燈が灯るように謎が明らかになっていく。ぞくぞくするような快感だった。
「じゃあ、今日の午後、あの空き家のお庭で、鏡華さんがやっていたのは何だったの? ほら、左手をこうやって――」
わたしは自分の左手の甲を下にして、阿弥陀如来像のような指の形をつくった。
「ああ、手訣 のことね。方位を観ていたの。あれも五行よ」
鏡華さんは、自分の左の掌をわたしに見せながら、説明してくれた。
「人差し指の先――つまり、この第一関節から上が『水 』、中指の先が『火 』、薬指の先が『土 』、そして、人差し指の付け根が『金 』、薬指の付け根が『木 』。これで五行。この五つの組み合わせで方位を観て、柏木さんがどこをどう歩いたか測っていたの」
鏡華さんの親指が、五行の位置を押さえてゆく。流れるように美しい指の動きだった。喰い入るように見つめていると、ふと眼を上げた鏡華さんが、「あら、やだ」と言った。
※女学生にとって制服は正装であり、当時は学校へ行く時でなくても、外出時に制服を着ることは特に珍しいことではなかった。
「いいのよ。鏡華さんみたいな人にいきなり会ったら、うちの父なんか緊張して、おろおろしちゃうに決まっているもの」
わたしはまた鏡華さんのお車の中にいた。運転しているのは、もちろん夏子さん。
わたしは、ちょっと迷ったが制服を着ていた。やっぱりこれを着ると身が引き締まるような気がするから。
お父さまが新聞に連載している時代物で、お侍が決闘に赴く時、刀の
ただ、わたしだけ制服だとおかしいかしら、とちょっと心配だったのだが、鏡華さんも当たり前のように制服姿なのを見て安心した。※
『お父さま、今晩は何も訊かずに行かせて下さい。ちゃんと信用できるお友だちと一緒なの。決していかがわしい所へ出入りしたりするわけではないですから!』
お父さまは暫くじっとわたしの眼を見つめて考えていらしたが、やがて静かな声でこう言ってくれた。
『わかりました。でも、どんなに遅くても9時までには帰るように。それだけは、約束して下さい』
いろいろ変なところもあるお父さまだけれど、今日は心から感謝した。
鏡華さんはわたしの家まで迎えに来ると言って下さったのだけれど、やっぱり花園橋駅近くで待ち合わせということにしてもらった。
自分の家を見られたくないという他に、もうひとつ理由があった。鏡華さんはうちのお父さまに挨拶しなかったことを気にしているみたいだが、鏡華さんは嘘が
「ところで、鏡華さん。それはいったい何?」
お部屋で見かけた、あの袋に入った細長いものが、今鏡華さんの傍らに置かれている。エバの
「見てみる?」
意外にあっさり鏡華さんは言うと、袋の中身を抜き出した。
「…………!」
わたしは思わず眼を
なんとそれは、ひとふりの木剣だったのだ。
しかも、刀身にあたる部分には、蛍の光に似た円い文様がいくつも刻まれている。まっすぐ一列に並んでいるのではなく、不揃いな並び方で、円と円の間は線でつながっている。
「この文様はね、北斗七星を
「あっ、本当だ!」
数えてみると、円は確かに七つあって、北斗七星の配置だった。
刀身に刻まれた七つの星。
鏡華さんは続ける。
「だからこの剣は、
「北斗七星って、そんなにすごい星だったの?」
うわあ、これから北斗七星を見る眼が変わりそう。
それにしても――
わたしは改めてまじまじと鏡華さんを見つめずにはいられなかった。
「またそんな眼で見る」
「だって」
「わかったわ。白状するから、そんなふうにわたしを見ないで」
「教えてくれるの?」
「わたしは、ドウシなの」
ドウシ?
「女の子同士」とか言う時の、「同士」みたいに聞こえた。よくわからない。
「道に武士の士で、道士」
「道、士?」
「どう説明すればいいかしら。日本で言うと、陰陽師みたいな感じかしら」
「あっ! つまり、鏡華さんは安倍晴明みたいな人なわけ? 葉っぱを投げて蛙を潰しちゃったりできるの? でも、あれは蛙がかわいそう……」
「わたしは、蛙をいじめたりしないわ。それに日本の
そうか。だから『易経』がお部屋にあったんだ!
並んだ部屋に、順番に電燈が灯るように謎が明らかになっていく。ぞくぞくするような快感だった。
「じゃあ、今日の午後、あの空き家のお庭で、鏡華さんがやっていたのは何だったの? ほら、左手をこうやって――」
わたしは自分の左手の甲を下にして、阿弥陀如来像のような指の形をつくった。
「ああ、
鏡華さんは、自分の左の掌をわたしに見せながら、説明してくれた。
「人差し指の先――つまり、この第一関節から上が『
鏡華さんの親指が、五行の位置を押さえてゆく。流れるように美しい指の動きだった。喰い入るように見つめていると、ふと眼を上げた鏡華さんが、「あら、やだ」と言った。
※女学生にとって制服は正装であり、当時は学校へ行く時でなくても、外出時に制服を着ることは特に珍しいことではなかった。