第5話 わたしたち、お友達になりませう
文字数 1,865文字
え??
ええええええええーー?!
鏡華さん、今、お断りになったの?
他ならぬ房子さまのお申し出を。
失礼ですけれど、あなた、お気は確か?
部外者のわたしでさえ、これだけ驚いたのだ。当事者の房子さまはどれほど驚かれたかと思いきや――
最前と寸分変わらぬ微笑を、ふっくらした頬に浮かべていらした。ただ、優しげに細められた房子さまの眼が、わたしにはとてつもなく恐ろしく見えた。
「あなた、御自分が何を仰っているのかわかっていて?」
房子さんは僅かに首を傾 げられた。「それとも、緊張のあまりお頭 が混乱をきたしていらっしゃるのかしら。もしそうなら、驚かせてごめんなさいね。返事は今すぐでなくても――」
「いいえ、返事は変わりません。せっかくの御言葉ですが、わたしは小野寺さまの〈妹〉になるつもりはございません」
「その理由を伺ってもよろしいかしら」
房子さまは静かに言われた。「わたしにも、そのくらいの資格はあるのではなくって」
「失礼ですが、その前に、わたしの方からひとつお伺いしてもかまわないでしょうか」
「いいわ。何をお聞きになりたいの?」
「柏 木 さまが、小野寺さまのご機嫌を損ねたために学校にこられなくなったという噂は本当でしょうか」
「それは……」
房子さまのお顔に初めて困惑の色が浮かんだ。房子さまの唇が動きかけたように見えたが、結局、言葉は出てこなかった。
「わかりました。ありがとうございます」
鏡華さんは折り目正しくおじぎをすると、くるりと身体ごと向きを変えて、すたすたとこちらへ歩いてきた。不遜なようでありながら、実は挙措 動作の一つひとつが、きちんと礼にかなっていて美しい。
いや、見惚 れている場合ではない。
わたしは慌てて首を引っ込めると、ひと足はやく教室の方へ向かおうとしたが――
いきなり後ろから腕を取られ、わたしは思わず跳び上がった。
「春野さん、急がなくちゃ。もうすぐ始業の鐘が鳴ってよ」
鏡華さんは、わたしの耳元で素 早 く囁いた。「今見たことは、誰にも仰 らないでね」
この方は、わたしが覗き見していたことを知っているのだ。わたしは、恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になるのを感じた。でも、鏡華さんはそんなことには頓着 しない様子で、
「走りましょう」
悪戯っぽく笑った。
「え、でも……」
確か淑女の辞書に、〈走る〉という言葉はなかったはずでは?
「遅刻するかしないかの瀬戸際なんだもの、仕方がないわ。非常時には、ふだんと違う行動も許されてよ」
鏡華さんはわたしの腕を掴んでもう走り始めていた。わたしも慌てて追い縋 る。
「廊下は足音が響かないように静かに走るのよ。靴の裏で床を擦 るみたいに動くのがコツ。よくって?」
靴箱のところまでくると、鏡華さんはそう言って、本当に猫みたいに音もなく廊下を
鏡華さんの手は、いつか直接わたしの手を握っている。
廊下の曲がり角のところで、ふと鏡華さんが振り返った。
「春野さん、あなた、笑ってらっしゃるの」
「だって」わたしは必死に笑いを堪 えながら言った。「林さん、こうやって教室にお入りになるの、初めてじゃないのではなくって? すごく慣れた感じに見えるわ」
「ばれちゃった」鏡華さんはちょっと舌を出した。わたしは思わずどきりとした。なんて可愛らしい表情をなさる方だろう。
なんだか、わたしたち共犯者みたい。
『今見たことは、誰にも仰らないでね』
この方と秘密を共有していると思うと、胸が震える。
一緒に並んで、廊下を滑るように走りながら、わたしたちはくすくすと笑った。わたしはこの学び舎で、初めて笑ったような気がしていた。もし先生に見つかって叱られても、鏡華さんと一緒ならちっとも怖くないと思った。
「ねえ、春野さん」
「なあに」
走ったせいか少し上気した鏡華さんの顔が間近にあった。鏡華さんのいい匂いに包まれて、わたしは頭がぼうっとしてしまった。心臓はさっきから早鐘 を打ち続けている。
「わたしたち、お友達になりましょう」
こんな美しい方とお友達になる。わたしは、夢でも見ているのではないかしら。
夢なら、醒めないで。お願い。
「嬉しいわ。わたしたち、よいお友達になりましょうね」
自分の声がひどく遠く聞こえた。わたしはちゃんとお答えできたのかしら。もう一度、ちゃんと言った方がいい? でも、それもなんだか――
足は雲でも踏んでいるようにふわふわして、頼りないったらありゃしない。
もし誰かが、戯 れにわたしのおでこをつんと突いたりしたら、わたしはそのまま、ばたーんと仏 倒 しに倒れてしまったかもしれない。
ええええええええーー?!
鏡華さん、今、お断りになったの?
他ならぬ房子さまのお申し出を。
失礼ですけれど、あなた、お気は確か?
部外者のわたしでさえ、これだけ驚いたのだ。当事者の房子さまはどれほど驚かれたかと思いきや――
最前と寸分変わらぬ微笑を、ふっくらした頬に浮かべていらした。ただ、優しげに細められた房子さまの眼が、わたしにはとてつもなく恐ろしく見えた。
「あなた、御自分が何を仰っているのかわかっていて?」
房子さんは僅かに首を
「いいえ、返事は変わりません。せっかくの御言葉ですが、わたしは小野寺さまの〈妹〉になるつもりはございません」
「その理由を伺ってもよろしいかしら」
房子さまは静かに言われた。「わたしにも、そのくらいの資格はあるのではなくって」
「失礼ですが、その前に、わたしの方からひとつお伺いしてもかまわないでしょうか」
「いいわ。何をお聞きになりたいの?」
「
「それは……」
房子さまのお顔に初めて困惑の色が浮かんだ。房子さまの唇が動きかけたように見えたが、結局、言葉は出てこなかった。
「わかりました。ありがとうございます」
鏡華さんは折り目正しくおじぎをすると、くるりと身体ごと向きを変えて、すたすたとこちらへ歩いてきた。不遜なようでありながら、実は
いや、
わたしは慌てて首を引っ込めると、ひと足はやく教室の方へ向かおうとしたが――
いきなり後ろから腕を取られ、わたしは思わず跳び上がった。
「春野さん、急がなくちゃ。もうすぐ始業の鐘が鳴ってよ」
鏡華さんは、わたしの耳元で
この方は、わたしが覗き見していたことを知っているのだ。わたしは、恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になるのを感じた。でも、鏡華さんはそんなことには
「走りましょう」
悪戯っぽく笑った。
「え、でも……」
確か淑女の辞書に、〈走る〉という言葉はなかったはずでは?
「遅刻するかしないかの瀬戸際なんだもの、仕方がないわ。非常時には、ふだんと違う行動も許されてよ」
鏡華さんはわたしの腕を掴んでもう走り始めていた。わたしも慌てて追い
「廊下は足音が響かないように静かに走るのよ。靴の裏で床を
靴箱のところまでくると、鏡華さんはそう言って、本当に猫みたいに音もなく廊下を
滑り
出した。鏡華さんの手は、いつか直接わたしの手を握っている。
廊下の曲がり角のところで、ふと鏡華さんが振り返った。
「春野さん、あなた、笑ってらっしゃるの」
「だって」わたしは必死に笑いを
「ばれちゃった」鏡華さんはちょっと舌を出した。わたしは思わずどきりとした。なんて可愛らしい表情をなさる方だろう。
なんだか、わたしたち共犯者みたい。
『今見たことは、誰にも仰らないでね』
この方と秘密を共有していると思うと、胸が震える。
一緒に並んで、廊下を滑るように走りながら、わたしたちはくすくすと笑った。わたしはこの学び舎で、初めて笑ったような気がしていた。もし先生に見つかって叱られても、鏡華さんと一緒ならちっとも怖くないと思った。
「ねえ、春野さん」
「なあに」
走ったせいか少し上気した鏡華さんの顔が間近にあった。鏡華さんのいい匂いに包まれて、わたしは頭がぼうっとしてしまった。心臓はさっきから
「わたしたち、お友達になりましょう」
こんな美しい方とお友達になる。わたしは、夢でも見ているのではないかしら。
夢なら、醒めないで。お願い。
「嬉しいわ。わたしたち、よいお友達になりましょうね」
自分の声がひどく遠く聞こえた。わたしはちゃんとお答えできたのかしら。もう一度、ちゃんと言った方がいい? でも、それもなんだか――
足は雲でも踏んでいるようにふわふわして、頼りないったらありゃしない。
もし誰かが、