第9話 鏡華さんのお部屋は秘密の匂ひ(前)
文字数 2,325文字
鏡華さんのお家の、ピカピカ光る大きなお車に乗せていただいた。
なんでも亜米利加 製のナントカいう車で、鏡華さんはちゃんと教えてくれたのだけれど、こういうものと無縁の生活を送っている者の悲しさ、お車の名前は左の耳から右の耳へと通り抜けてしまった。
鏡華さんのお家は、山手の旧外国人居留地の一廓 にある、閑静な洋館だった。
お車から降りた時、初めて運転手の方の顔を正面から見たわたしは、ちょっと驚いた。
制服と帽子から男の人とばかり思っていたのに、帽子をお取りになったのを見て、初めて女性だと知った。お年は二十ぐらいだろうか、一目で日本人でないのがわかる。膚 は浅黒いけれど、彫りの深い、まるで西洋人のような風貌だった。
鏡華さんが、わたしにはわからない言葉で、二言三言、その方に何かを告げた。その人は「シィ、シィ」と短く答えていた。日本語の「はい」のような感じに聞こえた。
「さあ、こず枝さん、わたしのお部屋に行きましょう。散らかっていて汚いの。どうか幻滅の悲哀※1をお感じにならないでね」
鏡華さんはわたしに腕を絡めて、玄関の方へ歩き出した。その背の高い女性の傍 らを通り過ぎる時、ちらりと視線がわたしに向けられた。美しいが、〈精悍 〉という表現がぴったりするお顔に一瞬鋭い表情――まるでわたしに対する敵意のようなものが閃いたような気がした。
まるで剃刀 が頬を掠 めたみたいにひやりとし、わたしは思わず振り返った。その方はもうこちらを見ることなく、運転席のドアを開けていた。今のは何だったのだろう。単にわたしの思い過ごしだろうか。
お邸 が広いわりに、鏡華さんのお部屋はこじんまりしていたが、風通しが良くて気持ちよかった。わたしの部屋と同じように、『少女の友』や『少女畫 報 』がずらりと並んでいたのは嬉しかったし、なんとなく安心もした。
自分が本好きなせいか、わたしは本棚を見ると、その持ち主がどういう方なのかわかるような気がするのだ。
「あ、『花 物語 』!」
洛陽堂から美しい函 入 りで出た吉 屋 信 子 の『花物語』。その第一集から第三集の揃いがあるのを見つけると、わたしはつい鏡華さんの許可も待たず、書棚に手を伸ばしてしまった。
「こず枝さんも、『花物語』がお好き?」
「もちろん!」
「そう言えば、『花物語』にもフートボールの出てくるお話があったわよね」
わたしはちょっと考えた。
「あ、『紅梅 白梅 』ね! 第一集にあるはずよ」
わたしが手にしていたのが、ちょうど第一集だった。わたしは指で頁 を繰 った。
「ほら、ここよ!」
女學校の庭でフートボールが下級の生徒たちによつて空に飛ばされてゐた時――今しも誰 かの勢いよく投げたボールが、空から一直線に下に落ちる刹 那 を美 事 に受けとめやうと、凡 その見當 をつけて誰でもが競つて走り集まつた所は、校庭の隅の藤棚の近くでした。※2
わたしたちは額を寄せ合って、同じ頁を読んだ。
「でもこの場面、少し不思議なのは、手を使っているところなのよね。フートボールは足だけで、手は使っちゃいけないはずなのだけれど」
「そう言えばそうよね。気づかなかったわ」
初めて読んだ時、紅梅白梅に擬 えられる美しい姉妹の、その哀しい運命に涙を零 した小学生のわたしは、女学校のお姉さま方はフートボールというのをなさったりするのね、と思っただけだった。
「この場面は、休み時間でしょ。だから、本当のフートボールというより、ただお遊びとして興じているのではなくって?」
「それはそうだけど、空に投げたボールをただ受け止めるだけなんて、楽しいのかしら」
鏡華さんがちょっと首を傾げた拍子に、髪が流れてわたしの耳に触れ、ちょっと擽 ったかった。
鏡華さんって生 真面目な性格なのだなあ、とつくづく思う。そう言えば、房子さまに決闘を申し込まれた時も先ずルールの確認をしていたっけ。
いくら遊びでも、フートボールはフートボールのルールでやらなければいけない。きっとそういうお考えなのだ。
それにしても、仲のよいお友達と好きな本の話ができるとは、なんと楽しいことだろう。
「こず枝さん、ちょっとお待ちになって。今、着替えの体操服持ってくるから」
「体操服に着替えるの?」
「だって、その恰好 でフートボールは無理でしょう」
そうだ、ここに来た目的はフートボールの練習をすることだった。視線を下げて自分の姿を眺めれば、「確かに」と頷かざるを得ない。明治以来の伝統を誇る香蘭女学校のワンピース型セーラー服で、勇ましくボールを蹴るのはいくらなんでも無理がある。
「それから、靴も布靴は駄目ね。わたしの編 上 げ靴をお貸しするわ」
「あ、ありがとう」
部屋を出て行こうとする鏡華さんを、わたしは慌てて呼び止めた。「ねえ、御本を見せていただいてもよくって?」
「ええ、もちろんかまわないわ。好きに御覧になって」
お言葉に甘えて、じっくり書棚の本を見ていった。
びっくりしたのは、中国語原文の『紅楼夢』や、『西遊記』、『水滸伝』があったことだ。鏡華さんのような美少女がこのお部屋でひとり、『水滸伝』を原文で読んでいる姿を想像すると、どこか凄美 とでも言いたいような趣 きがある気がした。
「えっ、こんな本が?」
更にその隣に並んでいる本の背表紙の字を見て、わたしはびっくりしてしまった。基督教女学校 に通う生徒の書棚にある本としては、かなり異彩を放つものだったからだ。
※1 「幻滅の悲哀」というのは、昭和初期の女学生が好んで使った言葉の一つだった。
※2 引用部は、吉屋信子『花物語』上(河出書房新社、2009年、P117)を参照しつつ、時代の匂いを出すため、河出書房版の現代漢字・現代仮名遣いを、筆者が適宜旧漢字・旧仮名遣いに改めた。
なんでも
鏡華さんのお家は、山手の旧外国人居留地の
お車から降りた時、初めて運転手の方の顔を正面から見たわたしは、ちょっと驚いた。
制服と帽子から男の人とばかり思っていたのに、帽子をお取りになったのを見て、初めて女性だと知った。お年は二十ぐらいだろうか、一目で日本人でないのがわかる。
鏡華さんが、わたしにはわからない言葉で、二言三言、その方に何かを告げた。その人は「シィ、シィ」と短く答えていた。日本語の「はい」のような感じに聞こえた。
「さあ、こず枝さん、わたしのお部屋に行きましょう。散らかっていて汚いの。どうか幻滅の悲哀※1をお感じにならないでね」
鏡華さんはわたしに腕を絡めて、玄関の方へ歩き出した。その背の高い女性の
まるで
お
自分が本好きなせいか、わたしは本棚を見ると、その持ち主がどういう方なのかわかるような気がするのだ。
「あ、『
洛陽堂から美しい
「こず枝さんも、『花物語』がお好き?」
「もちろん!」
「そう言えば、『花物語』にもフートボールの出てくるお話があったわよね」
わたしはちょっと考えた。
「あ、『
わたしが手にしていたのが、ちょうど第一集だった。わたしは指で
「ほら、ここよ!」
女學校の庭でフートボールが下級の生徒たちによつて空に飛ばされてゐた時――今しも
わたしたちは額を寄せ合って、同じ頁を読んだ。
「でもこの場面、少し不思議なのは、手を使っているところなのよね。フートボールは足だけで、手は使っちゃいけないはずなのだけれど」
「そう言えばそうよね。気づかなかったわ」
初めて読んだ時、紅梅白梅に
「この場面は、休み時間でしょ。だから、本当のフートボールというより、ただお遊びとして興じているのではなくって?」
「それはそうだけど、空に投げたボールをただ受け止めるだけなんて、楽しいのかしら」
鏡華さんがちょっと首を傾げた拍子に、髪が流れてわたしの耳に触れ、ちょっと
鏡華さんって
いくら遊びでも、フートボールはフートボールのルールでやらなければいけない。きっとそういうお考えなのだ。
それにしても、仲のよいお友達と好きな本の話ができるとは、なんと楽しいことだろう。
「こず枝さん、ちょっとお待ちになって。今、着替えの体操服持ってくるから」
「体操服に着替えるの?」
「だって、その
そうだ、ここに来た目的はフートボールの練習をすることだった。視線を下げて自分の姿を眺めれば、「確かに」と頷かざるを得ない。明治以来の伝統を誇る香蘭女学校のワンピース型セーラー服で、勇ましくボールを蹴るのはいくらなんでも無理がある。
「それから、靴も布靴は駄目ね。わたしの
「あ、ありがとう」
部屋を出て行こうとする鏡華さんを、わたしは慌てて呼び止めた。「ねえ、御本を見せていただいてもよくって?」
「ええ、もちろんかまわないわ。好きに御覧になって」
お言葉に甘えて、じっくり書棚の本を見ていった。
びっくりしたのは、中国語原文の『紅楼夢』や、『西遊記』、『水滸伝』があったことだ。鏡華さんのような美少女がこのお部屋でひとり、『水滸伝』を原文で読んでいる姿を想像すると、どこか
「えっ、こんな本が?」
更にその隣に並んでいる本の背表紙の字を見て、わたしはびっくりしてしまった。
※1 「幻滅の悲哀」というのは、昭和初期の女学生が好んで使った言葉の一つだった。
※2 引用部は、吉屋信子『花物語』上(河出書房新社、2009年、P117)を参照しつつ、時代の匂いを出すため、河出書房版の現代漢字・現代仮名遣いを、筆者が適宜旧漢字・旧仮名遣いに改めた。