第18話 鏡華さん、どうなさったの?!
文字数 2,117文字
「こず枝さん、大丈夫? なんだか眠そうだけど」
「そ、そんなことなくってよ」
「それならいいのだけれど」
鏡華さんは気遣わしげにわたしを見た。やだ、わたしの顔そんなに眠そうなの? 鏡華さんが前に向き直った時に、見つからないように自分の頬を両手でばしばし叩いて気合いを入れる。
わたしたちは、あの坂下の空き家の前にいた。放課後、また鏡華さんのお車に乗せていただいて、ここまで来たのだ。
駐車し終えた夏子さんが、すっと鏡華さんに近づいて、わたしにはわからない言葉で何か言いかけた時、
「夏姐 さん、日本語で言って。こず枝さんは、わたしの相棒よ。だから、何を聞かれてもいいの」
そうか、鏡華さんはふだん「夏姐さん」と呼んでいるのか。夏子さんは鏡華さんの家の使用人のはずだが、相手の方が年上だからそう呼んでいるのであろう。なんとなく、微笑ましい。
「失礼しました」
夏子さんは、きれいな日本語で答えた。「この家に近づいてきた者がいます。お嬢さまと同じ制服を着ています。こちらの車を見て、驚いたように物陰に隠れましたが、まだ立ち去ってはいないようです。いかが致しますか」
「じゃあ、夏姐さんは車のところに戻っていて。この家には誰も入れないように。でも、くれぐれも手荒なことはしないでね。相手が香蘭の生徒なら猶 更 だわ」
「わかりました。でも、お嬢さま、くれぐれも危ないことはなさいませぬように。おかしいと思ったら、すぐわたくしをお呼び下さい」
「ありがとう。そうするわ」
夏子さんは、またすっと離れた。身体が大きいのに、動きは俊敏にして軽やか。ほとんど音がしない。この方は武術の心得があるのではないかと思って、はっとした。
今、鏡華さんは「くれぐれも手荒なことはしないでね」と言った。ということは、御本人がその気なら、「手荒なことができる」という意味ではないのだろうか。
夏子さん、少し怖い。
「じゃあ、行きましょうか」
錠が差しておらず、既に少し開いている鉄の門に、鏡華さんが手をかけた。
「ちょっと待って。今の夏子さんのお話、どういう意味? 誰かがわたしたちをつけているってこと?」
「どうかしら。ここは学校から近いし、人目につかないし、待ち合わせにはいい場所じゃなくって? 現に柏木さんだって待ち合わせの場所として、この空き家を使おうとしたわけでしょう」
それは、確かに。でも、やっぱり気になる。思わず周りを見回そうとしたわたしに、鏡華さんは素早く目配せをした。きょろきょろするな、ということらしい。
「何も知らないふりをしていて」
「わ、わかった」
鏡華さんが掛けていた手に力を込めると、ぎいぃと耳障りな音がして門が開いた。
庭はすっかり荒れ果てていた。以前は花壇であったらしいところも、今や草が生い茂って見る影もない。
「こず枝さん、棘に気をつけて。これ、蔓薔薇よ」
今がまだ薔薇の季節でなくてよかった。無人の廃屋の庭に咲き乱れる薔薇なんて、考えただけでもぞっとする。
庭の一廓には四阿 が建っていた。この家の夫人が発狂して自殺したという噂をつい思い出してしまう。大 時 代 の白いドレスに身を包んだ西洋婦人が四阿の中に座っている幻が眼に浮かぶような気がして、わたしは急に心細くなった。
「鏡華、さん……」
手でも握っていてほしくて、そっと呼びかけたわたしは、あっと声を上げそうになった。
鏡華さんの様子が、明らかに変わっているのだ。
あの鳳眼が、すっと細められている。そして、左手の甲を下にして、親指と他の指を緩く内側に湾曲させている。しかもよく見ると、親指の腹が、すごい速さで別の三本の指――人差し指、中指、薬指の先に、順番に押し当てられてゆくのだ。
「…………」
口の中で、何かぶつぶつと呟く声が聞こえる。
きょ、鏡華さーん。何をなさっているのぉ? いえ、どうなさっておしまいになったのぉおお?
わたし、もう泣きそうになるほど不安なんですけれど。
鏡華さんは、何かに導かれるように庭の中を歩いていく。とても話しかけられる雰囲気ではないので、仕方なく黙って後からついて行ったが、心臓が今にも口から飛び出すんじゃないかとひやひやした。とっさに回れ右をして逃げ出さなかった自分を褒めてやりたいと思う。
――勇敢な少女春野こず枝は、最後まで逃げませんでした。
墓碑銘にはそう刻んで、子孫に伝えてほしい。
いやいや、なんで死ぬの前提になっているのよ。そもそもここで死んだら、子孫なんて残せるわけないじゃない!
「ここだわ」
いきなり鏡華さんが低い声で言ったので、わたしはそれこそ死ぬほど驚いた。
「で、出たの?!」
「出た? 何が」
鏡華さんが小首を傾げる。
「白いドレスの西洋婦人が出たのではなくって?」
「白いドレスの西洋婦人? そういうのはいないと思うけれど」
「じゃ、じゃあ、何がここなの」
「ここから、柏木さんは家の中に入ったのよ」
「そ、そんなことあるはずないわ。だって鍵がかかって……」
わたしは絶句した。
庭に面した硝 子 戸 が、そこだけ開いている。ちょうど人ひとり入れるくらいの幅に。
家の中は暗い。開いた硝子戸から、レースのカーテンが見えている。それが急に
「そ、そんなことなくってよ」
「それならいいのだけれど」
鏡華さんは気遣わしげにわたしを見た。やだ、わたしの顔そんなに眠そうなの? 鏡華さんが前に向き直った時に、見つからないように自分の頬を両手でばしばし叩いて気合いを入れる。
わたしたちは、あの坂下の空き家の前にいた。放課後、また鏡華さんのお車に乗せていただいて、ここまで来たのだ。
駐車し終えた夏子さんが、すっと鏡華さんに近づいて、わたしにはわからない言葉で何か言いかけた時、
「
そうか、鏡華さんはふだん「夏姐さん」と呼んでいるのか。夏子さんは鏡華さんの家の使用人のはずだが、相手の方が年上だからそう呼んでいるのであろう。なんとなく、微笑ましい。
「失礼しました」
夏子さんは、きれいな日本語で答えた。「この家に近づいてきた者がいます。お嬢さまと同じ制服を着ています。こちらの車を見て、驚いたように物陰に隠れましたが、まだ立ち去ってはいないようです。いかが致しますか」
「じゃあ、夏姐さんは車のところに戻っていて。この家には誰も入れないように。でも、くれぐれも手荒なことはしないでね。相手が香蘭の生徒なら
「わかりました。でも、お嬢さま、くれぐれも危ないことはなさいませぬように。おかしいと思ったら、すぐわたくしをお呼び下さい」
「ありがとう。そうするわ」
夏子さんは、またすっと離れた。身体が大きいのに、動きは俊敏にして軽やか。ほとんど音がしない。この方は武術の心得があるのではないかと思って、はっとした。
今、鏡華さんは「くれぐれも手荒なことはしないでね」と言った。ということは、御本人がその気なら、「手荒なことができる」という意味ではないのだろうか。
夏子さん、少し怖い。
「じゃあ、行きましょうか」
錠が差しておらず、既に少し開いている鉄の門に、鏡華さんが手をかけた。
「ちょっと待って。今の夏子さんのお話、どういう意味? 誰かがわたしたちをつけているってこと?」
「どうかしら。ここは学校から近いし、人目につかないし、待ち合わせにはいい場所じゃなくって? 現に柏木さんだって待ち合わせの場所として、この空き家を使おうとしたわけでしょう」
それは、確かに。でも、やっぱり気になる。思わず周りを見回そうとしたわたしに、鏡華さんは素早く目配せをした。きょろきょろするな、ということらしい。
「何も知らないふりをしていて」
「わ、わかった」
鏡華さんが掛けていた手に力を込めると、ぎいぃと耳障りな音がして門が開いた。
庭はすっかり荒れ果てていた。以前は花壇であったらしいところも、今や草が生い茂って見る影もない。
「こず枝さん、棘に気をつけて。これ、蔓薔薇よ」
今がまだ薔薇の季節でなくてよかった。無人の廃屋の庭に咲き乱れる薔薇なんて、考えただけでもぞっとする。
庭の一廓には
「鏡華、さん……」
手でも握っていてほしくて、そっと呼びかけたわたしは、あっと声を上げそうになった。
鏡華さんの様子が、明らかに変わっているのだ。
あの鳳眼が、すっと細められている。そして、左手の甲を下にして、親指と他の指を緩く内側に湾曲させている。しかもよく見ると、親指の腹が、すごい速さで別の三本の指――人差し指、中指、薬指の先に、順番に押し当てられてゆくのだ。
「…………」
口の中で、何かぶつぶつと呟く声が聞こえる。
きょ、鏡華さーん。何をなさっているのぉ? いえ、どうなさっておしまいになったのぉおお?
わたし、もう泣きそうになるほど不安なんですけれど。
鏡華さんは、何かに導かれるように庭の中を歩いていく。とても話しかけられる雰囲気ではないので、仕方なく黙って後からついて行ったが、心臓が今にも口から飛び出すんじゃないかとひやひやした。とっさに回れ右をして逃げ出さなかった自分を褒めてやりたいと思う。
――勇敢な少女春野こず枝は、最後まで逃げませんでした。
墓碑銘にはそう刻んで、子孫に伝えてほしい。
いやいや、なんで死ぬの前提になっているのよ。そもそもここで死んだら、子孫なんて残せるわけないじゃない!
「ここだわ」
いきなり鏡華さんが低い声で言ったので、わたしはそれこそ死ぬほど驚いた。
「で、出たの?!」
「出た? 何が」
鏡華さんが小首を傾げる。
「白いドレスの西洋婦人が出たのではなくって?」
「白いドレスの西洋婦人? そういうのはいないと思うけれど」
「じゃ、じゃあ、何がここなの」
「ここから、柏木さんは家の中に入ったのよ」
「そ、そんなことあるはずないわ。だって鍵がかかって……」
わたしは絶句した。
庭に面した
家の中は暗い。開いた硝子戸から、レースのカーテンが見えている。それが急に
ふわり
と膨らんで――