第23話 断章 囚われの乙女の独白
文字数 3,129文字
この邸 に囚 われてから、いったいどれくらいの時間が過ぎたのだろう?
二三日のような気もするし、一週間、いやもっと長い時間が経ったような気もする。
考えるのが、ひどく億劫 だ。
眠い。もう眼を閉じて、楽になってしまいたい。それでも、考え続けなければいけない。このまま眠ってしまうと、二度と眼を覚ますことはできない気がするから。
根拠があるわけではないが、本能がそう警鐘を鳴らすのだ。
そうだ、考えよう。
自分はどうしてこの邸の中に入ってしまったのか。
房子、お姉さま。
そう。房子お姉さまにお会いするつもりだったのだ。
おなつかしく、お慕わしきお姉さま。
お手紙を差し上げて、時間と場所を記し、来て下さるまでずっとお待ち致しますと書いた。
もちろん、建物の中に入ろうなんて考えはなかった。
お庭でお待ちしているつもりだったのだ。でも――
声が、した。
最初は風が鳴っているだけだと思っていたのに、突然か細い声が混じって聞こえた。わたしは眼を閉じて、耳を澄ました。
――トウ……コ……
わたしの、名前?
――トウ、コ、サン。
間違いない。
わたしの名前を呼んでいる。
房子お姉さまだ!
お姉さまはわたしより先に来て待っていて下すったのだ。どうしましょう? お姉さまをお待たせするなんて、そんな失礼なこと許されるはずはないわ。
わたしは声のする場所を求めて、庭をめちゃくちゃに歩き回った。お庭には蔓 薔薇 が生い茂っていて、その無数の棘が制服のスカートに喰い込んでわたしの足を止める。無理に外そうとして、指を傷つけてしまった。
血が、薔薇の上に滴 る。
少しも痛いとは思わなかった。スカートが破れたってかまわない。
はやく――
はやくお姉さまのところへ行かなくちゃ。
さもないと、お姉さまがお帰りになってしまう。
そして、わたしはついに見つけたのだ。
硝子戸が、ちょうど人ひとり入れる幅に開いている場所を。
でも、さすがにわたしは躊躇 った。
いくら無人の空き家だからって、勝手に入っていいものなのかしら。
それに中は薄暗く、がらんとしていて恐ろしかった。以前ここには西洋人の夫婦が住んでいたのだが、ある日夫人がいきなり発狂し、自ら命を断った。そんな不吉な噂を思い出す。
でも、でも……
「房子お姉さま、いらっして?」
わたしは思い切って呼んでみた。
――トウコ、サン。
「ねえ、お姉さまはお邸の中ですの?」
――トウコ、サン。
もう迷ってはいられなかった。硝子戸の敷居をまたいだ。中に入った瞬間、なぜかわたしは身震いをした。
幽霊みたいに、邸の中をさまよい歩いた。
やがて、大きな部屋に出た。天井から大飾燈 が下がっているから、客間のような場所だったのだろうか。
かつては豪奢にこの部屋を照らしていたに違いない大飾燈は、すっかり蜘蛛の巣と埃 にまみれて見る影もなかった。
はっとして見ると、壁際に置かれた揺り椅子だった。
それまで座っていた人がいきなり立ち上がったみたいに、僅かな軋み音を立てて、古びた椅子が揺れていた。
でも、どこにも人影はない。
「房子お姉さまでしょう? 隠れんぼは、もうおやめあそばして。そんなに塔子をいじめないで下さいまし。お願いでございますから」
――ソノ椅子ニ、オカケ、ナサイ。
「塔子がここに座れば、出てきて下さいますの」
――オカケ、ナサイ。
「はい、わかりました」
わたしは、そっと揺り椅子に腰を下ろした。
――座ッタ、ナ。
思わずぞっとするほどのしわがれ声が響いた。
途端に、床から藤の蔓のようなものが何本も何本も伸びてきて、揺り椅子に絡みついた。そのままするすると螺 旋 を描くように這い上 り、わたしの足やひじ掛けの上の腕を椅子に縛りつけてゆく。
「…………!」
わたしは、悲鳴を上げたと思う。でも、水の中で叫んだように自分の声がうまく耳に届かない。
突然、緑色の猿みたいなものが目の前に現れた。踊るように手足を動かしながら、椅子の周囲をぐるぐる回り始める。
回るにつれて、蔓がぎりぎりとわたしの身体に喰いこむ。あまりの苦痛と恐怖で、わたしは気が遠くなってしまった……。
ぼんやりと、わたしは眼を開けた。
身体は椅子の上に雁 字 搦 めに縛りつけられていて、身じろぎひとつできない。
緑の猿は、まだそこにいた。
身体中の膚 がくすんだような緑一色で、ぬめぬめと光沢を帯びている。大きな蓮の葉のようなものを被 った顔は、皺だらけで猿そっくりだったが、眼は血の赤さだった。
水掻きのついたその手の上には、引きちぎられた蛙の足、毛虫、蚯蚓 、蜘蛛などが山盛りになっていたのだ。
――喰 、エ。
「いやぁ!」
必死で首を捩 って背 けた鼻先に、またそのおぞましい山が突きつけられる。
――ソレトモ、飢エテ、死ニタイ、カ。
しわがれた声がぶつぶつと、爛 れて歪んだ口から洩れてくる。
――喰、エ。喰、エ……
……あれから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
時間の感覚がなくなったのは、同じことの繰り返しだったからかもしれない。
緑の猿はしつこくわたしに虫を食べさせようとし、わたしがそれを頑 なに拒むということが延々と繰り返されたのだ。
今やわたしの頭は、すっかり白い霧がかかったようになっており、うまくものを考えることができなかった。
わたしは、どうすればいいの?
いっそ、この虫を食べてしまおうか。食べれば、この緑の猿はわたしを許し、お家に帰らせてくれるかもしれない。
もう体力の限界だった。
いつまた気を失ってしまうかわからない。
次に気を失ったら、二度と目覚めない予感があった。
わたしの震える唇が、水掻きのある手に近づく。手の上の虫はなんとまだ生きていて、身をよじったり足を伸び縮みさせたりしながら、折り重なって蠢 いていた。むっとするような悪臭が鼻をつく。
「いやよ! これを食べるくらいなら、このまま死んでやるわ!」
瞬間、猿の眼が赤黒く濁った。虫の山を床に叩きつけると、飛び跳ねながら赤ん坊の泣き声に似た音を発する。
泣いているのでないことは、すぐわかった。
怒っている。猿はわたしが言うことを聞かないので、怒り狂っているのだ。
いつの間にか、猿の手には長い薔薇の蔓が握られていた。この邸の庭の薔薇には無数の棘があったことをぼんやり思い出す。
猿は、棘だらけの薔薇の鞭でわたしを打ち据えようとしているのだ。
恐怖が、わたしの全身を絞り上げる。
はっとした。
思わず猿に向かって哀訴していた。
「顔はぶたないで! 顔に傷がついたら房子お姉さまに嫌われてしまう!」
いいことを聞いたぞ、と言うふうに。
こんな邪悪な笑顔は未だかつて見たことがなかった。
薔薇の鞭が高々と振り上げられる。
わたしは思わず、ぎゅっと固く眼を瞑 った。
ところが――
今にも振り下ろされそうだったにも拘 らず、鞭が空を切る音はいつまで経っても聞こえない。
しかも、閉ざされていた部屋の窓が急に開け放たれ、涼やかな風が吹き込んできたように感じられた。
(何が、起きたの? いったい……)
こわごわ眼を開けたわたしは、あっと声を上げてしまった。
辺りには、光が満ちていたのだ。
白く澄んだ、しかも温かい光が。
びょう、
びょうびょう、
猿が頭を抱えて唸り声を発していた。
わたしには快い光が、猿には逆の効果をもたらしているらしい。
全身の縛 めが、少し緩んだ。
深く息を吸うと、わたしは肺の中の空気を振り絞るように絶叫した。
――「助けて!」
二三日のような気もするし、一週間、いやもっと長い時間が経ったような気もする。
考えるのが、ひどく
眠い。もう眼を閉じて、楽になってしまいたい。それでも、考え続けなければいけない。このまま眠ってしまうと、二度と眼を覚ますことはできない気がするから。
根拠があるわけではないが、本能がそう警鐘を鳴らすのだ。
そうだ、考えよう。
自分はどうしてこの邸の中に入ってしまったのか。
房子、お姉さま。
そう。房子お姉さまにお会いするつもりだったのだ。
おなつかしく、お慕わしきお姉さま。
お手紙を差し上げて、時間と場所を記し、来て下さるまでずっとお待ち致しますと書いた。
もちろん、建物の中に入ろうなんて考えはなかった。
お庭でお待ちしているつもりだったのだ。でも――
声が、した。
最初は風が鳴っているだけだと思っていたのに、突然か細い声が混じって聞こえた。わたしは眼を閉じて、耳を澄ました。
――トウ……コ……
わたしの、名前?
――トウ、コ、サン。
間違いない。
わたしの名前を呼んでいる。
房子お姉さまだ!
お姉さまはわたしより先に来て待っていて下すったのだ。どうしましょう? お姉さまをお待たせするなんて、そんな失礼なこと許されるはずはないわ。
わたしは声のする場所を求めて、庭をめちゃくちゃに歩き回った。お庭には
血が、薔薇の上に
少しも痛いとは思わなかった。スカートが破れたってかまわない。
はやく――
はやくお姉さまのところへ行かなくちゃ。
さもないと、お姉さまがお帰りになってしまう。
そして、わたしはついに見つけたのだ。
硝子戸が、ちょうど人ひとり入れる幅に開いている場所を。
でも、さすがにわたしは
いくら無人の空き家だからって、勝手に入っていいものなのかしら。
それに中は薄暗く、がらんとしていて恐ろしかった。以前ここには西洋人の夫婦が住んでいたのだが、ある日夫人がいきなり発狂し、自ら命を断った。そんな不吉な噂を思い出す。
でも、でも……
「房子お姉さま、いらっして?」
わたしは思い切って呼んでみた。
――トウコ、サン。
「ねえ、お姉さまはお邸の中ですの?」
――トウコ、サン。
もう迷ってはいられなかった。硝子戸の敷居をまたいだ。中に入った瞬間、なぜかわたしは身震いをした。
幽霊みたいに、邸の中をさまよい歩いた。
やがて、大きな部屋に出た。天井から
かつては豪奢にこの部屋を照らしていたに違いない大飾燈は、すっかり蜘蛛の巣と
何か
が、ふと揺れた。はっとして見ると、壁際に置かれた揺り椅子だった。
それまで座っていた人がいきなり立ち上がったみたいに、僅かな軋み音を立てて、古びた椅子が揺れていた。
でも、どこにも人影はない。
「房子お姉さまでしょう? 隠れんぼは、もうおやめあそばして。そんなに塔子をいじめないで下さいまし。お願いでございますから」
――ソノ椅子ニ、オカケ、ナサイ。
「塔子がここに座れば、出てきて下さいますの」
――オカケ、ナサイ。
「はい、わかりました」
わたしは、そっと揺り椅子に腰を下ろした。
――座ッタ、ナ。
思わずぞっとするほどのしわがれ声が響いた。
途端に、床から藤の蔓のようなものが何本も何本も伸びてきて、揺り椅子に絡みついた。そのままするすると
「…………!」
わたしは、悲鳴を上げたと思う。でも、水の中で叫んだように自分の声がうまく耳に届かない。
突然、緑色の猿みたいなものが目の前に現れた。踊るように手足を動かしながら、椅子の周囲をぐるぐる回り始める。
回るにつれて、蔓がぎりぎりとわたしの身体に喰いこむ。あまりの苦痛と恐怖で、わたしは気が遠くなってしまった……。
ぼんやりと、わたしは眼を開けた。
身体は椅子の上に
緑の猿は、まだそこにいた。
身体中の
それ
は、身体に比してひどく大きな手をわたしの鼻先に近づけてくる。わたしの喉が痙攣し、声にならない悲鳴を断続的に上げる。水掻きのついたその手の上には、引きちぎられた蛙の足、毛虫、
――
「いやぁ!」
必死で首を
――ソレトモ、飢エテ、死ニタイ、カ。
しわがれた声がぶつぶつと、
――喰、エ。喰、エ……
……あれから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
時間の感覚がなくなったのは、同じことの繰り返しだったからかもしれない。
緑の猿はしつこくわたしに虫を食べさせようとし、わたしがそれを
今やわたしの頭は、すっかり白い霧がかかったようになっており、うまくものを考えることができなかった。
わたしは、どうすればいいの?
いっそ、この虫を食べてしまおうか。食べれば、この緑の猿はわたしを許し、お家に帰らせてくれるかもしれない。
もう体力の限界だった。
いつまた気を失ってしまうかわからない。
次に気を失ったら、二度と目覚めない予感があった。
わたしの震える唇が、水掻きのある手に近づく。手の上の虫はなんとまだ生きていて、身をよじったり足を伸び縮みさせたりしながら、折り重なって
「いやよ! これを食べるくらいなら、このまま死んでやるわ!」
瞬間、猿の眼が赤黒く濁った。虫の山を床に叩きつけると、飛び跳ねながら赤ん坊の泣き声に似た音を発する。
泣いているのでないことは、すぐわかった。
怒っている。猿はわたしが言うことを聞かないので、怒り狂っているのだ。
いつの間にか、猿の手には長い薔薇の蔓が握られていた。この邸の庭の薔薇には無数の棘があったことをぼんやり思い出す。
猿は、棘だらけの薔薇の鞭でわたしを打ち据えようとしているのだ。
恐怖が、わたしの全身を絞り上げる。
はっとした。
思わず猿に向かって哀訴していた。
「顔はぶたないで! 顔に傷がついたら房子お姉さまに嫌われてしまう!」
にたり
と猿は笑った。いいことを聞いたぞ、と言うふうに。
こんな邪悪な笑顔は未だかつて見たことがなかった。
薔薇の鞭が高々と振り上げられる。
わたしは思わず、ぎゅっと固く眼を
ところが――
今にも振り下ろされそうだったにも
しかも、閉ざされていた部屋の窓が急に開け放たれ、涼やかな風が吹き込んできたように感じられた。
(何が、起きたの? いったい……)
こわごわ眼を開けたわたしは、あっと声を上げてしまった。
辺りには、光が満ちていたのだ。
白く澄んだ、しかも温かい光が。
びょう、
びょうびょう、
猿が頭を抱えて唸り声を発していた。
わたしには快い光が、猿には逆の効果をもたらしているらしい。
全身の
深く息を吸うと、わたしは肺の中の空気を振り絞るように絶叫した。
――「助けて!」