第24話 空き家の冒険、始めませう(後) 

文字数 3,720文字

 鏡華さんが七枚目のお札をマントルピースに貼った途端、壁際に浮かび上がったふたつの影。
 ひとつは、揺り椅子にぐったりと身をまかせている少女。香蘭の制服を着ている。柏木塔子さんだ、そうに違いない!
 そして、その傍らにいるものは――
(こ、これって……河、童?)
 その緑色の肢体は、水辺に()むという伝説の河童によく似ているように見えた。

 びょう、びょう、
 びょう……

 妙な唸り声がする。河童みたいなものは頭を抱えて、明らかに苦しんでいる様子だ。きっと鏡華さんのお(ふだ)が効いているのだ。
 すごい、鏡華さん!
 不意に

と視線が合った。皺だらけの猿のような顔の真ん中で、血のように赤いふたつの眼が爛々(らんらん)と光っている。ふらふらとこちらへ歩いてくるので、わたしは思わず悲鳴を上げそうになった。両手で口を押さえ、飛び出しかけた声をなんとか喉の奥に呑み込む。爪先から背筋にかけて貫くような戦慄が走り、膝ががくがくと震えた。今にもしゃがみ込んでしまいそうだ。
 この時、鏡華さんが振り返り、剣を持っていない方の手でわたしの腕を軽く叩くと、莞爾(にこっ)と笑って頷いてみせた。
(大丈夫!)
 声には出していなくても、そう言われた気がした。不思議なことに、わたしの震えは鏡華さんの笑顔を見た瞬間、すっと(しず)まった。

 鏡華さんと夏子さんは素早く目配せを交わすと、静かに移動を始めた。鏡華さんが左、そして夏子さんは右。二人とも違う方向へ動いていくが、どちらも全く足音を立てない。
 一瞬こちらに向かってきたように見えた

だったが、急に右に曲がって二三歩進んだかと思うと、また左に戻ったりする。
(そうか、あいつにはわたしたちが見えていないんだわ)
 さっきのは、たまたま視線が合ったように感じられただけなのだろう。
 こんな場合だったが、わたしは妙なことに気づいてしまった。
(あれ? お皿がない)
 河童というのは頭のてっぺんにお皿があって、そこに水が溜まっているものではなかったっけ。しかし、今目の前にいる

は、大きな蓮の葉のようなものを頭に被っている。
(河童じゃない……の、かしら?)
 葉っぱを頭に被っているなんて、なんだか牧歌的に聞こえるかもしれないが、その赤い眼に宿る邪悪な光は正に魔物と呼ぶにふさわしく、人間の物差しが全く通用しない存在であることを示して余りあった。
 魔物はふらふらと歩き回る。鏡華さんと夏子さんも、それに合わせて微妙に立ち位置を変えてゆく。
(あ!)
 魔物のいる位置と、鏡華さん、夏子さんの位置を結ぶと正三角形になることに、突然わたしは気づいた。
 魔物が動いても、それに連れて鏡華さんと夏子さんの位置も移動するので、正三角形の大きさはそのままだ。
(まるで、(おり)みたい)
 三角形の檻。魔物はおそらく自分でも気づかぬうちに檻の中に(とら)えられている。 

『これで北斗の陣が完成するわ』

 最後のお(ふだ)を貼る時、鏡華さんはそう言った。つまり、あの七枚のお札が北斗の陣を形作っているのだろう。
 と言うことは、鏡華さんと夏子さんは、その陣の

に、この三角形の檻を重ねようとしているのではないか。
 わたしがそこまで考えた時だ。
 鏡華さんと夏子さんの足が、ふと止まった。 
 (さっ)と、ふたり同時に木剣を構える。
 そのお姿は、チャンバラ映画などで見る日本の侍の構えとは全く異なっていた。
 木剣は右手一本で持ち、まるで弓でも引き絞るように右腕を引く。剣を立てずに肩と平行に横向きにする。左手は前に突き出され、人差し指と中指だけぴったり合わせて立てられ、他の三本の指は握った形になっている。
(やる)
 何も知らないわたしでも、直感的にわかった。二人の構えに殺気が(みなぎ)るのが、電気が走るようにわたしにも伝わったのだ。ふたりは今、香蘭の女学生でもなければ、林家の運転手でもない。道士として、魔物を狩ろうとしている。
 その時だ。
 まったく、予想だにしないことが起きたのは。

 後ろから飛んできた

が、魔物の頭の上を放物線を描いて越え、後ろの壁に派手な音を立ててぶつかったのだ。
 ぽん、ぽん、ぽん、と弾んで床を転がる。
 まるでフートボールくらいの大きさの丸いもの……いや、なんとフートボールそのものだった。

「ちょっと! どこのどなたか存じませんけれど、香蘭の生徒をいじめるのは、このわたしが許さなくってよ!」

 振り返ったわたしは、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
 部屋の入口に、両手を腰に当てて仁王立ちしているのは、夜目でも見間違えようがない、香蘭女学校の女王――小野寺房子さまだったのである。
(ど、どうして房子さまがここに……?!) 
 状況が、まったく把握できない。これまでも、どう考えたってまともじゃない、非常識な出来事の連続だったのに、この上更に房子さまの御登場ですって?
 わたし、頭がおかしくなって、幻でも見ているのかしら。 

「お姉さま、房子お姉さまなの? 塔子はここです! 助けて!」
 揺り椅子でぐったりしていた柏木さん(自分で名乗っているのだから、もはや疑う余地はなかった)が、いきなりか細い声を張り上げた。ただ、なぜかその身体は透明な鎖で縛られているかのように椅子から動かない。
 ただ、柏木さんのおかげで、どうやら房子さまの姿が見えているのは、わたしだけではないとわかった。
 ということは、本物の房子さま?

「こ、これは……」
 さすがの夏子さんまで明らかに動揺している。
「まずいわね」
 ちっと鏡華さんが舌打ちした。鏡華さんが舌打ちするのを聞いたのは、初めてだった。
 この二人にとっても、房子さまの出現は完全に想定外のことであったらしい。
 鏡華さんはわたしに、絶対に動くな、声も立てるなと言った。鏡華さんと夏子さんも、移動する時は極力足音を立てないようにしていた。
 と言うことは――
(音を立てたり、声を上げたりすると、魔物に感づかれるってことでは……)
 
 まるでわたしがそう思うのを待っていたかのように、魔物が()えた。 
 その身体を赤黒い陽炎(かげろう)に似たものが覆っていく。
 魔物は部屋の入口を睨みながら、吼え続ける。
「な、何ですの? これ……」
 房子さまもさすがにひるんだような顔をしたが、何を思ったかふらふらと部屋の中へ入ってきた。
「動かれますな!」
 夏子さんの叱咤するような声に、はっと房子さまが足を止めたのと、魔物の手から蔓のようなものが伸び、房子さまを襲ったのとが同時だった。
夏姐(シィア・チィエ)!」
 鏡華さんが叫ぶ。
 夏子さんの身体が、宙を舞った。
 空中でとんぼを切って着地した時、夏子さんの剣には魔物が投げた蔓が(から)め取られていた。
 夏子さんは剣を垂直に立てると、ぐっと両足を踏ん張る。
 魔物が慌てたように蔓を引き戻そうとするが、夏子さんは動かない。二人の間で、蔓がぴんと張り切った。
 鏡華さんはと見ると、再び剣を構えていた。後ろに引かれた右腕の湾曲、ぴたりと静止した剣先。前に突き出された左手の、ぴんと立てられた人差し指と中指の()り具合。
(きれい……)
 こんな場合なのに、いや、こんな場合だからこそ、剣を構えた鏡華さんの姿は一幅(いっぷく)の絵のように美しかった。

 剣を立てたまま、夏子さんはじりじりと後ろに下がる。
 魔物は綱引きのような仕草で、うんうん唸りながら蔓を手繰り寄せようとするのだが、夏子さんの力の方が僅かに勝っているらしく、少しずつ前に引き出されてくる。
 この時、わたしは気づいた。
 七枚のお札が、微かに発光している。
 七つの、(りん)のような光。
 北斗七星!
 そう。部屋の闇の中に浮かんだのは、紛れもない北斗七星の形だった。
「今よ。思いっきり引いて!」
 鏡華さんが鋭い声で夏子さんに言った。
「む、無理です。剣が折れます」
 夏子さんも苦悶の表情を浮かべている。さすがの夏子さんもかなり疲弊(ひへい)しているに違いなかった。
「いいから、わたしの言う通りにして」
「わかりました」
 その時、魔物が水から上がった馬のように胴震いした。その身を覆う赤黒い陽炎が、いくつもの火球と化して蔓の上を走る。蔓が瞬時に焼き切れ、夏子さんの木剣が真っ二つに折れて飛んだ。
「あっ!」
 鏡華さんの言いつけも忘れ、わたしは声を上げてしまった。
 万時休す。そうとしか見えなかった。
 ところが――
 魔物がたたらを踏むように、一歩前に出たのだ。
 夏子さんが剣を思い切り引いたのが、蔓が焼き切れるよりほんの少しだけ早かったらしい。
 魔物が、一歩前に出てしまった場所。
 それは北斗七星が形作る柄杓の、ちょうどお椀の位置だった。
 魔物は、すっぽりとお椀の中に入ってしまったのである。
 すると――
 お札が発する七つの光が、一瞬燃え上がるように明度を増した。
 少なくとも、わたしの眼にはそう見えた。
 まるで光の矢に()(すく)められたみたいに、魔物はすさまじい叫び声を上げる。
「お嬢さま!」
 夏子さんの声と、鏡華さんが空中に身を(おど)らせるのが、ほぼ同時だった。
 鏡華さんの右手がまっすぐに差し伸ばされ、その剣はあやまたず魔物を刺し貫く。
 (せつ)()
 魔物がいた位置を中心点として、ぶわっと風圧のようなものが四方に広がった。わたしは思わず頭を抱えてしゃがみ込み、固く眼を(つぶ)った――
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登場人物紹介

春野こず枝(はるの・こずえ)

本作の主人公兼語り手。香蘭女学校一年生。

母も香蘭女学校の卒業生だったが、去年亡くなった。現在は、あまり売れていない文士の父親と二人暮らし。

鏡華と「少女探偵団」を結成する。

※余談だが、使用させていただいているフリーイラストが美しすぎて、小説作者(南ノ)でさえ、「こず枝さん、あんたこんな美少女じゃないよね」と密かに思っているという噂がある。

林鏡華(リン・キョウカ)

「鳳眼」の美少女で、こず枝とは腹心の友。

台湾出身だが、父親が横浜で貿易会社を経営しているため、日本育ち。

一部の生徒にしか知られていないものの、もう一つの顔を持ち、特殊な事件を解決する。

こず枝とともに「少女探偵団」を結成。

※左の耳の上あたりの髪に、小さい紫色のリボンをイメージしていただくと、より小説のイメージに近くなります。

小野寺房子(おのでら・ふさこ)

香蘭女学校の「女王」と称せられ、下級生から憧れと畏怖の視線を集める五年生。

次期首相候補とも囁かれる大物政治家の御令嬢。

特技はフートボール。


薬師寺光子(やくしじ・みつこ)

こず枝と鏡華の級友(クラスメート)。

母親も香蘭女学校の卒業生で、こず枝の母の親友だった。

父親が小野寺家の執事のため、家族で小野寺邸に住んでいる。


柏木塔子(かしわぎ・とうこ)

香蘭女学校二年生。

一見なよなよした風情の美少女だが、なぜか「剛の者」と称される。

女王房子が唯一苦手とする相手だという噂がある。

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