第26話 もうひとりの関係者はどなた?
文字数 3,533文字
「すぐ病院に運ぶ必要があるわね。父の友人が院長をしている病院があるから、そこにしましょう。後はわたしが何とかするわ」
房子さまが言った。鏡華さんは、一瞬房子さまの眼を正面から見つめた後、
「わかりました。では、房子さまにお任せします」
と頷いた。
鏡華さんが七星剣で刺し貫いた瞬間、魔物は消滅した。後に残ったのは、揺り椅子の上でぐったりしている柏木さんだった。
『お姉さま、房子お姉さまなの? 塔子はここです! 助けて!』
そう叫んだのを最後に、柏木さんは意識を失ってしまったのだ。
驚いたのは、房子さまが素早く柏木さんのところに駆け寄ると、慣れた動作で脈をはかったり、てきぱきと指示を出して、御自分の家の運転手に手伝わせ、柏木さんをお車の中に運んだりしたことだ。
「えっ?」
小野寺家のお車のところに、なぜかもうひとり香蘭の制服を来た少女がいたのだが、わたしはつい、不作法なほどまじまじと彼女を見つめてしまった。
お下げの髪。眼鏡。女学校時代のお母さまと一緒に体操着姿で写っていた級友らしい方が、写真の中から抜け出してきたようだった。
その方は房子さまの指示に従って、柏木さんをお車の中に運び入れる手伝いをしている。
「不思議な話ね」
房子さまは、ふと鏡華さんを振り返って言った。「柏木さんが失踪したのは、もう二週間も前の話よ。栄養や水の補給がなければ生きていられるはずがないのに、衰弱はさほどひどくないように見えるわ」
「柏木さまが囚われていたのは、一種の異界です。そこでの時間の流れは、人界とは異なります。ただ、早急な手当が必要なことに変わりはありません」
房子さまは、しばらく黙って鏡華さんを見つめていた。真剣な眼だったが、敵意は感じられなかった。やがて小さく息を吐くと、こう言った。
「一度じっくりあなたの話を聞く必要がありそうね。柏木さんの恢復 を待ってから、そういう場を設けることにしましょう。よくって?」
「かまいません。わたしからも、房子さまにお尋ねしたいことがありますし」
房子さまは頷いた。それから、房子さまは夏子さんの方へ歩み寄った。
「危ないところを、あなたに助けていただきましたわ。お礼を申します」
そして丁寧に、深々と頭を下げた。
いつも女王然としている房子さまの、少し意外な一面を見た気がした。
それから、一週間が過ぎた日の放課後。
わたしと鏡華さんは、またあの空き家の前にいた。柏木さんがようやく女学校に通えるまでに恢復したので、房子さまと交わした約束を果たすことになったのだ。
(それにしても……)
よりによってこの場所を会合の場所に選んでしまう人たちの神経が、わたしには理解できない。
房子さまから提案があり、鏡華さんがあっさり同意したのだが、わたしはてっきり柏木さんは断るだろうと思っていた。だって自分が得体の知れない魔物に囚われていたところではないか。わたしなら、二度と近づくのは御免だ。
あの夜以来、わたしは闇を恐れるようになってしまった。
お風呂に入って髪を洗う時、瞼を閉じるのさえ怖い。どこかから、あの血みたいに赤い眼がじっと自分を見ているような気がするのだ。悪夢には、何度も襲われた。夢の中では、わたしが揺り椅子に座らされている。あの魔物が、椅子の周りを踊りながら回っている。逃げようと思っても、金縛りにあったように身体が動かない。
だから正直、この空き家にくるにはかなりの勇気が必要だった。それでも最後は好奇心に負けた。今日ほど、エバの裔 である自分を恨んだことはない。
「それにしても、ちょっとびっくりさせられたわ。あの房子さまには」
わたしは鏡華さんに囁いた。
「あの晩、いきなりここに現れた時は、わたしも肝を潰したことよ。だから、今日は御本人からいろいろ教えていただくつもり」
鏡華さんも小さい声で答えた。
「そのことはもちろんだけれど、柏木さんを病院に運ぶ時、けっこうてきぱきとなさっていたでしょう」
「ああ」と鏡華さんは頷いた。「こず枝さん、房子さまのお母さまって元々房子さまのお父さまの看護婦だったって話、ご存知?」
「えっ、そうだったの」
初耳だった。てっきり華族の御出身の方かと思っていた。鏡華さんは、しっと人差し指を唇の前で立てた。わたしの声が大きすぎたらしい。
「正妻と御子息は東京の御本宅にいて、ふだん房子さまのお父さまはそちらにいらっしゃるんですって。それで、週に何日かだけ横浜の別宅に来られるそうよ」
なるほど。
房子さまのお父さまは有名な政治家だが、房子さまとはお爺さまと孫のように年が離れていること、なぜお宅が東京ではなく、横浜にあるのかということ。今まで漠然と疑問に感じていたことが、ようやく腑に落ちた気がした。房子さまがあの時、すばやく柏木さんの脈をはかったりできたのは、お母さまの御薫陶 の賜物 なのだろう。
「でも、どうして鏡華さん、そんなに房子さまのことにお詳しいの?」
口に出した瞬間、気づいた。「あ、そうか!」
夏子さんだ。それにしても、柏木家の運転手と言い、小野寺家の運転手と言い、ちょっとおしゃべりがすぎるのではないかしら。
わたしが既に答えを知ったのを察したらしく、鏡華さんはちょっと悪戯 っぽく笑うと、軽くわたしの背を押した。
「さ、はやく行きましょう。遅れると、房子さまのお叱りを受けてよ」
「遅いわよ」
庭の四阿 の中にいた房子さまは、わたしたちの姿を認めると、すぐに立ち上がってよく通る声をお上げになった。両手を腰に当てて、早くも御立腹の様子だ。
わたしは思わず首を縮 めたけれど、鏡華さんは落ち着いた様子で、
「申し訳ありません。今日は掃除当番だったものですから」
と微笑みながら四阿の方へ歩み寄った。
掃除当番というのは嘘だ。事実は、わたしが好奇心と恐怖感のせめぎ合いで、なかなか空き家に近づけなかったせいだ。俗に嘘も方便と言うが、わたしをかばって、当意即妙にさらりと言ってのける鏡華さんは、本当に大したものだと思う。
四阿の中には円卓があり、車座になるように石の台が置かれていた。柏木さんは房子さまの隣に座っていたが、鏡華さんが四阿に足を踏み入れるや、すぐに立ち上がり、静々と頭を下げた。
「林鏡華さまですね。あなたはわたくしの命の恩人です。入院していたために、ご挨拶が遅れてしまいました。後日、改めてお宅に御礼に伺わせていただきます。本当に、感謝の言葉もございません」
髪が長く、それを一本の三つ編みにしていて、先には赤い大きなリボンが結んである。真っ赤なリボンなんて、普通の人だったら派手すぎておかしいけれど、それが不思議と似合っている。確かに噂にたがわぬ美しい人だった。
「いいえ、先日、柏木さまのお父さまから父の方に、ご丁寧な御挨拶をいただいております。改めて御礼をしていただくには及びません」
鏡華さんも丁寧におじぎを返した。
「でも、信じられませんわ。こんな可愛らしい方が、あの恐ろしい魔物を退治なさったなんて」
柏木さんは鏡華さんに歩み寄ってその手を取ると、睫毛の長い眼を瞬 きながら、上目遣いに鏡華さんを見つめた。まるで竹下夢二の絵から抜け出てきたような、なよなよした風情。鏡華さんも、少し戸惑ったようだった。
「挨拶はそのくらいにして、先ずおかけになりませんこと?」
房子さまが言った。
「はい、お姉さま」
すると柏木さんはあっさり鏡華さんの手を離し、言われた通り、さっと台の上に腰を下ろした。
「これで関係者が全員揃ったわね。早速始めることに致しましょう」
房子さまが会合の始まりを宣言した時、
「お待ち下さい」
鏡華さんが意外なことを言った。「関係者は、もうひとりいらっしゃるのではないでしょうか」
「もうひとり?」
房子さまがけげんそうに、美しい眉を顰める。
「わたしとこず枝さんが、初めてここに来た日の午後、この空き家を見張っていた方がおられました。小野寺さまの御身内の方ではないかと思うのですが」
あ、とわたしは思った。すっかり忘れていた。あの午後、夏子さんは確かに、香蘭の生徒がひとり空き家の様子を窺っていると言っていた。
「まったく、あなたには敵 わないわね」
房子さまは、ちょっと芝居がかった仕草で溜息を吐 くと、後ろを振り向いて言った。
「もう隠れているには及ばないわ。出てきて、あなたもお加わりなさい」
声に応じて、四阿の後ろの物陰から香蘭の制服が現れた。
刹那。
わたしは眼を瞠って立ち上がっていた。
お下げの髪。眼鏡。
間違いない。一週間前のあの晩、わたしは小野寺家のお車のところにいたこの方に会っている。
お母さまと一緒の写真の中にいた少女が、生身の姿となって現れ出たようなこの方に。
房子さまが言った。鏡華さんは、一瞬房子さまの眼を正面から見つめた後、
「わかりました。では、房子さまにお任せします」
と頷いた。
鏡華さんが七星剣で刺し貫いた瞬間、魔物は消滅した。後に残ったのは、揺り椅子の上でぐったりしている柏木さんだった。
『お姉さま、房子お姉さまなの? 塔子はここです! 助けて!』
そう叫んだのを最後に、柏木さんは意識を失ってしまったのだ。
驚いたのは、房子さまが素早く柏木さんのところに駆け寄ると、慣れた動作で脈をはかったり、てきぱきと指示を出して、御自分の家の運転手に手伝わせ、柏木さんをお車の中に運んだりしたことだ。
「えっ?」
小野寺家のお車のところに、なぜかもうひとり香蘭の制服を来た少女がいたのだが、わたしはつい、不作法なほどまじまじと彼女を見つめてしまった。
お下げの髪。眼鏡。女学校時代のお母さまと一緒に体操着姿で写っていた級友らしい方が、写真の中から抜け出してきたようだった。
その方は房子さまの指示に従って、柏木さんをお車の中に運び入れる手伝いをしている。
「不思議な話ね」
房子さまは、ふと鏡華さんを振り返って言った。「柏木さんが失踪したのは、もう二週間も前の話よ。栄養や水の補給がなければ生きていられるはずがないのに、衰弱はさほどひどくないように見えるわ」
「柏木さまが囚われていたのは、一種の異界です。そこでの時間の流れは、人界とは異なります。ただ、早急な手当が必要なことに変わりはありません」
房子さまは、しばらく黙って鏡華さんを見つめていた。真剣な眼だったが、敵意は感じられなかった。やがて小さく息を吐くと、こう言った。
「一度じっくりあなたの話を聞く必要がありそうね。柏木さんの
「かまいません。わたしからも、房子さまにお尋ねしたいことがありますし」
房子さまは頷いた。それから、房子さまは夏子さんの方へ歩み寄った。
「危ないところを、あなたに助けていただきましたわ。お礼を申します」
そして丁寧に、深々と頭を下げた。
いつも女王然としている房子さまの、少し意外な一面を見た気がした。
それから、一週間が過ぎた日の放課後。
わたしと鏡華さんは、またあの空き家の前にいた。柏木さんがようやく女学校に通えるまでに恢復したので、房子さまと交わした約束を果たすことになったのだ。
(それにしても……)
よりによってこの場所を会合の場所に選んでしまう人たちの神経が、わたしには理解できない。
房子さまから提案があり、鏡華さんがあっさり同意したのだが、わたしはてっきり柏木さんは断るだろうと思っていた。だって自分が得体の知れない魔物に囚われていたところではないか。わたしなら、二度と近づくのは御免だ。
あの夜以来、わたしは闇を恐れるようになってしまった。
お風呂に入って髪を洗う時、瞼を閉じるのさえ怖い。どこかから、あの血みたいに赤い眼がじっと自分を見ているような気がするのだ。悪夢には、何度も襲われた。夢の中では、わたしが揺り椅子に座らされている。あの魔物が、椅子の周りを踊りながら回っている。逃げようと思っても、金縛りにあったように身体が動かない。
だから正直、この空き家にくるにはかなりの勇気が必要だった。それでも最後は好奇心に負けた。今日ほど、エバの
「それにしても、ちょっとびっくりさせられたわ。あの房子さまには」
わたしは鏡華さんに囁いた。
「あの晩、いきなりここに現れた時は、わたしも肝を潰したことよ。だから、今日は御本人からいろいろ教えていただくつもり」
鏡華さんも小さい声で答えた。
「そのことはもちろんだけれど、柏木さんを病院に運ぶ時、けっこうてきぱきとなさっていたでしょう」
「ああ」と鏡華さんは頷いた。「こず枝さん、房子さまのお母さまって元々房子さまのお父さまの看護婦だったって話、ご存知?」
「えっ、そうだったの」
初耳だった。てっきり華族の御出身の方かと思っていた。鏡華さんは、しっと人差し指を唇の前で立てた。わたしの声が大きすぎたらしい。
「正妻と御子息は東京の御本宅にいて、ふだん房子さまのお父さまはそちらにいらっしゃるんですって。それで、週に何日かだけ横浜の別宅に来られるそうよ」
なるほど。
房子さまのお父さまは有名な政治家だが、房子さまとはお爺さまと孫のように年が離れていること、なぜお宅が東京ではなく、横浜にあるのかということ。今まで漠然と疑問に感じていたことが、ようやく腑に落ちた気がした。房子さまがあの時、すばやく柏木さんの脈をはかったりできたのは、お母さまの御
「でも、どうして鏡華さん、そんなに房子さまのことにお詳しいの?」
口に出した瞬間、気づいた。「あ、そうか!」
夏子さんだ。それにしても、柏木家の運転手と言い、小野寺家の運転手と言い、ちょっとおしゃべりがすぎるのではないかしら。
わたしが既に答えを知ったのを察したらしく、鏡華さんはちょっと
「さ、はやく行きましょう。遅れると、房子さまのお叱りを受けてよ」
「遅いわよ」
庭の
わたしは思わず首を
「申し訳ありません。今日は掃除当番だったものですから」
と微笑みながら四阿の方へ歩み寄った。
掃除当番というのは嘘だ。事実は、わたしが好奇心と恐怖感のせめぎ合いで、なかなか空き家に近づけなかったせいだ。俗に嘘も方便と言うが、わたしをかばって、当意即妙にさらりと言ってのける鏡華さんは、本当に大したものだと思う。
四阿の中には円卓があり、車座になるように石の台が置かれていた。柏木さんは房子さまの隣に座っていたが、鏡華さんが四阿に足を踏み入れるや、すぐに立ち上がり、静々と頭を下げた。
「林鏡華さまですね。あなたはわたくしの命の恩人です。入院していたために、ご挨拶が遅れてしまいました。後日、改めてお宅に御礼に伺わせていただきます。本当に、感謝の言葉もございません」
髪が長く、それを一本の三つ編みにしていて、先には赤い大きなリボンが結んである。真っ赤なリボンなんて、普通の人だったら派手すぎておかしいけれど、それが不思議と似合っている。確かに噂にたがわぬ美しい人だった。
「いいえ、先日、柏木さまのお父さまから父の方に、ご丁寧な御挨拶をいただいております。改めて御礼をしていただくには及びません」
鏡華さんも丁寧におじぎを返した。
「でも、信じられませんわ。こんな可愛らしい方が、あの恐ろしい魔物を退治なさったなんて」
柏木さんは鏡華さんに歩み寄ってその手を取ると、睫毛の長い眼を
「挨拶はそのくらいにして、先ずおかけになりませんこと?」
房子さまが言った。
「はい、お姉さま」
すると柏木さんはあっさり鏡華さんの手を離し、言われた通り、さっと台の上に腰を下ろした。
「これで関係者が全員揃ったわね。早速始めることに致しましょう」
房子さまが会合の始まりを宣言した時、
「お待ち下さい」
鏡華さんが意外なことを言った。「関係者は、もうひとりいらっしゃるのではないでしょうか」
「もうひとり?」
房子さまがけげんそうに、美しい眉を顰める。
「わたしとこず枝さんが、初めてここに来た日の午後、この空き家を見張っていた方がおられました。小野寺さまの御身内の方ではないかと思うのですが」
あ、とわたしは思った。すっかり忘れていた。あの午後、夏子さんは確かに、香蘭の生徒がひとり空き家の様子を窺っていると言っていた。
「まったく、あなたには
房子さまは、ちょっと芝居がかった仕草で溜息を
「もう隠れているには及ばないわ。出てきて、あなたもお加わりなさい」
声に応じて、四阿の後ろの物陰から香蘭の制服が現れた。
刹那。
わたしは眼を瞠って立ち上がっていた。
お下げの髪。眼鏡。
間違いない。一週間前のあの晩、わたしは小野寺家のお車のところにいたこの方に会っている。
お母さまと一緒の写真の中にいた少女が、生身の姿となって現れ出たようなこの方に。