第31話 こんな提案はいかが?
文字数 3,367文字
「鏡華さん、ごきげんよう!」
朝の学 び舎 。靴箱のところに鏡華さんを見つけたわたしは、いそいそと駆け寄る。本当はばたばた走ったりするのは淑女のたしなみに反することなのだけれど。
「こず枝さん、ごきげんよう!」
鏡華さんの笑顔を見ただけで、今日も佳 い日だと思ってしまうわたし。
わたしと話しながら、鏡華さんが靴箱の蓋を開けた――瞬間。
ばさばさっと鏡華さんの足元に落ちたのは、色とりどり、繊細な意 匠 の凝らされた便箋の束。
鏡華さんの笑顔がひきつった。わたしも鏡華さんと一緒に屈んで便箋を拾うのを手伝う。
「ねえ、どうしましょう。こず枝さん」
鏡華さんが溜息を吐 くように言った。
「わたしとしては、ちょっと耽美的すぎる華 宵 ※1より、かつぢ※2のかわいいのが好みね」
「もう」
鏡華さんがわたしを睨む。「そんなこと訊いてやしないわ。わざとそんなこと言って、友達甲斐のない人ね! こず枝さんのいじわる」
「ごめんなさい」
わたしはちょっと舌を出しておどけてみせる。「そんなにとんがらからないで※3、香蘭のピカ一※4さん」
鏡華さんがわたしを打つ真似をする。わたしは、大げさに悲鳴を上げて廊下を逃げる。
フートボールの試合の日以来、鏡華さんは学校の人気者になってしまった。
結果から見れば、試合は勝負なしの引き分けだったのだけれど、相手は五年生のお姉さま方、こちらは柏木さんを除いて全員一年生、しかも試合終了直前にわたしたちが追いついたこともあって、級友たちの盛り上がりぶりは、まるでこっちが勝ったかのようなお祭り騒ぎだったのだ。
鏡華さんに対する誹謗中傷がなくなったことに、わたしは心の底からほっとしたのだけれど、まさか鏡華さんとエスの契りを結びたいというお姉さま方が雨後の筍のごとく現れてくるとは思ってもみなかったのだ。
正に一難去ってまた一難。いや、前は房子さまおひとりだったのに、今度は多数のお姉さま方が虎視眈々(?)と鏡華さんを狙っているわけで、見方によっては事態は前より面倒なことになっているのではないかしら。
フートボールの試合の日。わたしがまぐれで得点した時、鏡華さんはわたしに抱きついて喜んでくれた。鏡華さんの頬とわたしの頬がぴったり触れ合った瞬間を思い出すと、なんだか少し心臓の鼓動がはやくなるみたい。
あの時の恍惚 した感覚はまだわたしの中に残っているのに、最近の鏡華さんはわたしから離れて、どんどん遠くへいってしまうような気がする。
(こんなにきれいで、溢れんばかりの才能もあって……)
鏡華さんが香蘭のピカ一になるのは、あたり前だと思う。わたしのような、人よりちょっと本を読むのが好きなだけの平凡な女の子が、鏡華さんの一番のお友だちになろうだなんて、身の程知らずも甚 だしいのかもしれない。
わたしが足を止めたので、鏡華さんが追いついて軽くわたしの肩を打った。
「いじわるこず枝さんを捕まえた!」
わたしが俯いたまま黙っているので、鏡華さんが後ろからわたしの顔を覗き込んできた。
「あら、もしかして痛かったの?」
「知らない」
わたしはそのままずんずん廊下を歩いていった。
「こず枝さん、待って。どうなさったの?」
「なんでもないわ。ついてこないで」
ついてくるなも何も、これはわたしたちの教室の方向だ。むちゃくちゃなことを言っているのは自分でもわかっている。
「もうおかしな人ね、こず枝さんったら――」
鏡華さんの莫迦 、ひとの気も知らないで。鼻の奥がつんと痛むのを堪 えながら、心の中で悪態をつく。そして、ふと思った。
(わたしの鏡華さんに対する気持ちって、いったい何なんだろう?)
さて、その日のお昼休み。
わたしたちは、運動場の隅の桜の樹の下でお弁当を開いていた。
わたしたち――というのは、鏡華さん、薬師寺さん、わたし、それと柏木さん。つまり、フートボールチームの面々だ。
薬師寺さんとお友だちになれたのは、本当に嬉しかった。一見おとなしげな印象とは裏腹に、薬師寺さんは実に剽軽 な方で、今もミセス・ハーパーが生徒を叱る時の名台詞「顔を、洗って、きなさーい」の真似していたのだが、それがもう瓜二つと言うか、むしろ御本人より御本人らしく、わたしたちはお腹を捩 って笑っていた。
朝の廊下での出来事のせいで、わたしは鏡華さんとなんとなく眼を合わせ難 い感じだったのだが、薬師寺さんのおかげでぎこちない気分も次第に解 けていくようだった。
フートボールの試合以来、柏木さんは毎日お昼休みの時間になると、二年の教室からわざわざわたしたちを訪ねてくるようになっていた。
柏木さんは例の魔神仔 の事件のせいで、新学期開始早々二週間以上行方不明だった上に、鏡華さんや夏子さんによって救出された後も入院や自宅休養などで更に一週間ほど学校を休んだ。そのせいでうまく級 に馴染むことができなくなってしまったのか、級友 から好奇の視線を向けられるのが嫌なのか、とにかくわたしたちと一緒にいる方が落ち着くらしかった。
ところが今日はなんともう一人賓客が――
「相変わらず、こんなところでお昼ごはんを召し上がっているのね。お弁当の中に砂が入らないこと?」
茂った桜の葉越しの青みがかった光の中に、房子さまが両手を腰に当てて立っていた。
「お姉さま!」
さっと立ち上がり、溢れんばかりの笑顔で房子さまを見つめるのは、もちろん柏木さんだ。
「あら、塔子さん。あなたもいらしたの?」
今気づいたような視線を柏木さんに向ける房子さま。でも、その表情はどこか硬い。学園の女王であられる房子さまだが、実は柏木さんのことはひそかに苦手としていらっしゃるのだ。
「塔子は、いつでもお姉さまのお側におりましてよ」
なよなよとした風情ながら、微妙に意味の通らない受け答えを、悪びれずにする柏木さん。さすが「剛の者」だけのことはある。
「今日は、鏡華さんに大事なお話があるの。いい子の塔子さんは、ひとのお話の邪魔なんてなさらないわよね」
「もちろんですわ。お姉さまと鏡華さんのお話が終わるまで、塔子はおとなしく待っております」
柏木さんは本当に房子さまのことが大好きで、房子さまの言うことなら何でも聞く。待てと言われたら、たぶん一日中でも待っているに違いない。しかも、すこぶるつきの美少女だ。でも房子さまは、そんな柏木さんの一途な気持ちに応 えてやることができない。
人と人の関係というのは、つくづく難しいものだと思う。
でも、かく言うわたしこそ、どうなのだろう。
鏡華さんと一緒にいると、まるで雲の上にいるみたいにふわふわした、幸せな気分になれる。
反対に日曜日だとか、鏡華さんに会えない日は、ひどくせつなく、苦しい。
(わたしはいったい、どうしてしまったのかしら)
今朝のことにしたって、大事な玩具を取り上げられた子供のように拗ねてみたかと思えば、次の瞬間には泣きそうになったり……。また、そんな自分を見て鏡華さんがさぞ呆 れているだろうと思うと、居たたまらなさに耳を覆ってわあっと叫び出したくなったりする。
「ねえ、鏡華さん。あなた、あっちこっちからエスの契りを求められてお困りなんですってね」
つい自分の中 を覗き込んでしまっていたわたしは、房子さまの声にはっと我に返った。房子さまは鏡華さんにどんなお話があって、昼休みにわざわざいらっしゃったのだろう。
鏡華さんも立ち上がったが、房子さまの意図がわからないらしく、黙って見つめ返すばかりだ。
房子さまは鏡華さんの視線を静かに受け止めると、まるで天気の挨拶でもするようにさらりと言った。
「そこで提案なのだけれど、あなた、改めてわたしの妹にならないこと?」
※1 高畠華宵(1888年~1966年)抒情画家。独特の耽美的な画風で一世を風靡した。また、華宵がデザインしたレターセットは、こうした靴箱に忍ばせる秘密の手紙の定番だった。
※2 松本かつぢ(1904年~1986年)抒情画家。洗練された、明るい雰囲気の美少女を描き、昭和初期の少女雑誌で中原淳一と人気を二分した。かつぢがデザインしたレターセットも、女学生の間で大いに人気を博した。
※3 「とんがらかる」は、「ぷんぷん怒っている」の意味の女学生言葉。
※4 「ピカ一」とは、「学校で最も人気がある人」を表す女学生言葉。
朝の
「こず枝さん、ごきげんよう!」
鏡華さんの笑顔を見ただけで、今日も
わたしと話しながら、鏡華さんが靴箱の蓋を開けた――瞬間。
ばさばさっと鏡華さんの足元に落ちたのは、色とりどり、繊細な
鏡華さんの笑顔がひきつった。わたしも鏡華さんと一緒に屈んで便箋を拾うのを手伝う。
「ねえ、どうしましょう。こず枝さん」
鏡華さんが溜息を
「わたしとしては、ちょっと耽美的すぎる
「もう」
鏡華さんがわたしを睨む。「そんなこと訊いてやしないわ。わざとそんなこと言って、友達甲斐のない人ね! こず枝さんのいじわる」
「ごめんなさい」
わたしはちょっと舌を出しておどけてみせる。「そんなにとんがらからないで※3、香蘭のピカ一※4さん」
鏡華さんがわたしを打つ真似をする。わたしは、大げさに悲鳴を上げて廊下を逃げる。
フートボールの試合の日以来、鏡華さんは学校の人気者になってしまった。
結果から見れば、試合は勝負なしの引き分けだったのだけれど、相手は五年生のお姉さま方、こちらは柏木さんを除いて全員一年生、しかも試合終了直前にわたしたちが追いついたこともあって、級友たちの盛り上がりぶりは、まるでこっちが勝ったかのようなお祭り騒ぎだったのだ。
鏡華さんに対する誹謗中傷がなくなったことに、わたしは心の底からほっとしたのだけれど、まさか鏡華さんとエスの契りを結びたいというお姉さま方が雨後の筍のごとく現れてくるとは思ってもみなかったのだ。
正に一難去ってまた一難。いや、前は房子さまおひとりだったのに、今度は多数のお姉さま方が虎視眈々(?)と鏡華さんを狙っているわけで、見方によっては事態は前より面倒なことになっているのではないかしら。
フートボールの試合の日。わたしがまぐれで得点した時、鏡華さんはわたしに抱きついて喜んでくれた。鏡華さんの頬とわたしの頬がぴったり触れ合った瞬間を思い出すと、なんだか少し心臓の鼓動がはやくなるみたい。
あの時の
(こんなにきれいで、溢れんばかりの才能もあって……)
鏡華さんが香蘭のピカ一になるのは、あたり前だと思う。わたしのような、人よりちょっと本を読むのが好きなだけの平凡な女の子が、鏡華さんの一番のお友だちになろうだなんて、身の程知らずも
わたしが足を止めたので、鏡華さんが追いついて軽くわたしの肩を打った。
「いじわるこず枝さんを捕まえた!」
わたしが俯いたまま黙っているので、鏡華さんが後ろからわたしの顔を覗き込んできた。
「あら、もしかして痛かったの?」
「知らない」
わたしはそのままずんずん廊下を歩いていった。
「こず枝さん、待って。どうなさったの?」
「なんでもないわ。ついてこないで」
ついてくるなも何も、これはわたしたちの教室の方向だ。むちゃくちゃなことを言っているのは自分でもわかっている。
「もうおかしな人ね、こず枝さんったら――」
鏡華さんの
(わたしの鏡華さんに対する気持ちって、いったい何なんだろう?)
さて、その日のお昼休み。
わたしたちは、運動場の隅の桜の樹の下でお弁当を開いていた。
わたしたち――というのは、鏡華さん、薬師寺さん、わたし、それと柏木さん。つまり、フートボールチームの面々だ。
薬師寺さんとお友だちになれたのは、本当に嬉しかった。一見おとなしげな印象とは裏腹に、薬師寺さんは実に
朝の廊下での出来事のせいで、わたしは鏡華さんとなんとなく眼を合わせ
フートボールの試合以来、柏木さんは毎日お昼休みの時間になると、二年の教室からわざわざわたしたちを訪ねてくるようになっていた。
柏木さんは例の
ところが今日はなんともう一人賓客が――
「相変わらず、こんなところでお昼ごはんを召し上がっているのね。お弁当の中に砂が入らないこと?」
茂った桜の葉越しの青みがかった光の中に、房子さまが両手を腰に当てて立っていた。
「お姉さま!」
さっと立ち上がり、溢れんばかりの笑顔で房子さまを見つめるのは、もちろん柏木さんだ。
「あら、塔子さん。あなたもいらしたの?」
今気づいたような視線を柏木さんに向ける房子さま。でも、その表情はどこか硬い。学園の女王であられる房子さまだが、実は柏木さんのことはひそかに苦手としていらっしゃるのだ。
「塔子は、いつでもお姉さまのお側におりましてよ」
なよなよとした風情ながら、微妙に意味の通らない受け答えを、悪びれずにする柏木さん。さすが「剛の者」だけのことはある。
「今日は、鏡華さんに大事なお話があるの。いい子の塔子さんは、ひとのお話の邪魔なんてなさらないわよね」
「もちろんですわ。お姉さまと鏡華さんのお話が終わるまで、塔子はおとなしく待っております」
柏木さんは本当に房子さまのことが大好きで、房子さまの言うことなら何でも聞く。待てと言われたら、たぶん一日中でも待っているに違いない。しかも、すこぶるつきの美少女だ。でも房子さまは、そんな柏木さんの一途な気持ちに
人と人の関係というのは、つくづく難しいものだと思う。
でも、かく言うわたしこそ、どうなのだろう。
鏡華さんと一緒にいると、まるで雲の上にいるみたいにふわふわした、幸せな気分になれる。
反対に日曜日だとか、鏡華さんに会えない日は、ひどくせつなく、苦しい。
(わたしはいったい、どうしてしまったのかしら)
今朝のことにしたって、大事な玩具を取り上げられた子供のように拗ねてみたかと思えば、次の瞬間には泣きそうになったり……。また、そんな自分を見て鏡華さんがさぞ
「ねえ、鏡華さん。あなた、あっちこっちからエスの契りを求められてお困りなんですってね」
つい自分の
鏡華さんも立ち上がったが、房子さまの意図がわからないらしく、黙って見つめ返すばかりだ。
房子さまは鏡華さんの視線を静かに受け止めると、まるで天気の挨拶でもするようにさらりと言った。
「そこで提案なのだけれど、あなた、改めてわたしの妹にならないこと?」
※1 高畠華宵(1888年~1966年)抒情画家。独特の耽美的な画風で一世を風靡した。また、華宵がデザインしたレターセットは、こうした靴箱に忍ばせる秘密の手紙の定番だった。
※2 松本かつぢ(1904年~1986年)抒情画家。洗練された、明るい雰囲気の美少女を描き、昭和初期の少女雑誌で中原淳一と人気を二分した。かつぢがデザインしたレターセットも、女学生の間で大いに人気を博した。
※3 「とんがらかる」は、「ぷんぷん怒っている」の意味の女学生言葉。
※4 「ピカ一」とは、「学校で最も人気がある人」を表す女学生言葉。