第30話 フートボールで決着をつけませう(後)

文字数 4,272文字

 あっと言う間に二十分が過ぎ、前半が終了した。
 得点は、一対(ぜろ)で、五年生チームの一点リード。

 すぐに後半が始まったが、引き続き一進一退の攻防が続く。
 薬師寺さんの大活躍により、五年生チームはなかなかシュートまでもっていけなかったし、柏木さんも多少は反省したのか、時々自分の前に転がってくる

を文句を言わずに拾って、おとなしく薬師寺さんの方へ投げ返していた。

 ただ、わたしたちも攻めあぐんでいた。シュートまではなんとかこぎつけるのだが、身体を張った明子さんの鉄壁の守りを、どうしても崩すことができないのだ。
 時は、(こく)一刻(いっこく)と過ぎてゆく。
 つい焦りが出たのだろう。鏡華さんへ渡そうとした薬師寺さんのパスが少し乱れた。それを見逃す房子さまではない。横からさっと足を伸ばしてボールを取ってしまった。一度、自分の前で跳ねたボールが落ちてくるところを直接蹴った。鏡華さんが飛び込んだが、すんでのところで間に合わない。
 試合を見物している五年生のお姉さま方から、わっと歓声が上がった。
 ボールは見事な弧を描いて飛び、わたしたちのゴールを襲う。
 薬師寺さんはまだゴール前に戻っていない。
 柏木さんは、ぼんやりと立ち尽くして動かない。
 
(主よ、奇蹟を!)

 心の中でわたしは絶叫する。
 ボールは――
 ゴールの枠の僅か上を通り過ぎた。

「惜しいわね。これが入っていれば、試合はもう決まりでしたのに」
 房子さまが両手を腰に当てて、さも悔しそうに右足で、とんと地面を突いた。

(あ、あぶなかった……)

 思わず額の汗を拭う。主のおかげか(そうだとしたら、主はけっこう判官(ほうがん)(びい)()?!)最悪の事態は免れたが、わたしたちにとって圧倒的に不利な状況であることに変わりはない。
 鏡華さんが、わたしたち全員を呼び集めた。
 再び円陣を組む。
「次がおそらく最後の攻撃になるわ。だから、

をやりましょう」
 鏡華さんは、五年生チームに聞かれないようわざと低い声を出した。
「いよいよ、やるのね? 

を」
 わたしも囁くように言って、じっと鏡華さんの眼を見つめる。
 鏡華さんはわたしの眼をまっすぐ見つめ返しながら、こくっと頷いた。
「チャンスはたぶん一度しかないわ。そしてこず枝さん、あなたが奥の手よ」
「うん、わかってる」
「薬師寺さん――」
 鏡華さんが薬師寺さんに眼を向けると、
合点(がってん)(しょう)()(すけ)
 薬師寺さんが眼鏡の奥の片目を悪戯(いたずら)っぽく(つむ)ってみせた。
「ゴールは、わたしにお任せになればよろしいことよ」
 柏木さんがすまして言う。
「はい、頼りにしています」
 鏡華さんに真面目に言われて、柏木さんはちょっと照れたように笑った。「まったく、あとで手のお手入れが大変だわ」

「勝負は時の運。終わってみなければ、結果はわからないわ。わたしたちは、最後の最後まで全力を尽くして戦うのみよ!」
 作戦ではないから、声を潜める必要はない。鏡華さんは大きな声ではっきりと言った。互いに肩を組んで円く輪になっている面々――薬師寺さん、柏木さん、そしてわたしが一斉に頷く。
 そんなチームメイトたちをぐるりと見回して――
 鏡華さんは、莞爾(にこっ)と笑った。
 
 ミセス・ハーパーのホイッスルで試合が再開された。
 薬師寺さんがボールを操りながら、前に出てくる。
「あら、もう時間がないと思って、乾坤(けんこん)一擲(いってき)の勝負に出たってわけ? 後ろががら空きになっているけれど、よろしいのかしら。ここで追加点が出たら、それこそオジャン※1ですわよ」
 房子さまは揶揄(からか)うように言ったが、それでも今まで後ろにいた薬師寺さんがするすると前に出てくるのは、やはり一種の脅威らしく、わたしに張りついているAさんに何やら手振りをした。Aさんは頷き、わたしの傍らを離れ、薬師寺さんの方へ走っていった。

(本当だわ。鏡華さんの言った通り)

 見張りがいなくなって自由になったわたしは、鏡華さんの指示通りの地点まで移動する。
 スポーツの試合というのは、なんでもいいから身体を動かしていた方が楽だ。待っているだけというのは、かえって緊張する。鏡華さんの言う「奥の手」を使うことがないように、主に祈りを捧げたい気持ちだった。
 
 Aさんが、薬師寺さんからボールを取ろうとして足を伸ばす。薬師寺さんはくるりと右回りに身体を回してAさんに背を向けた。Aさんからすると、薬師寺さんの身体が邪魔になってボールが見えない。左右どちらに動くか決めかねているうちに、薬師寺さんは電光石火、逆の左回りに身体を(ひね)るや、するりとAさんを抜き去っていた。
「うまい!」
 わたしは思わず声に出して言っていた。決して派手さはないけれど、薬師寺さんは本当に上手。そんな薬師寺さんに白羽の矢を立てた鏡花さんも大したものだ。

『どうして薬師寺さんがフートボールをおできになるって知っていたの?』
 空き家の四阿(あずまや)での会合の後、鏡華さんとふたりきりになるのを待って、わたしはそう訊いてみたのだ。
『知らなかったわ』
 鏡華さんが涼しい顔で答えたので、わたしはびっくりした。
『え? じゃあ、でたらめに誘ってみたわけ?』
 鏡華さんは、ううんと首を振る。
『あの方、運動神経がすごくいいのよ。体操の時間、気づかなかった?』
 今度はわたしが首を振る番だった。同じ級ということすら知らなかったわたしに、気づけというほうが無理だろう。
『薬師寺さんは、きっと目立つのがお好きじゃないのよ。でも、実はすごく能力の高い方よ』
 剣の達人が相手の構えだけでその力量を知るように、鏡華さんは体操の時間だけを見て、薬師寺さんの類い稀な実力を見抜いていたらしい。

 
 世に伯楽(はくらく)有って、(しか)(のち)(せん)()の馬有り。千里の馬は常に有れども、(しか)も伯楽は常には有らず。

 漢文の授業で習った(かん)()の『雑説(ざっせつ)』が、ふと頭に浮かんだ。鏡華さんはきっと伯楽で、薬師寺さんは千里の馬なのだ。わたしは……駄馬だけれど。

 薬師寺さんは斜め前を走る鏡花さんに、長く速いパスを出した。
 そのボールを受け止め、そのまま敵陣に攻め込もうとする鏡華さんの前に、房子さまが行く手を阻むように立ち塞がった。
 房子さまの動きには、まだ余裕が見られる。
「無駄なあがきはやめて、さっさとわたしに許しを乞いなさい。そうすれば、わたしの妹にしてさしあげてよ!」
 その刹那。
 鏡華さんの足元からボールが消えた。

 鏡華さんが何をしたか知っているわたしの眼にさえそう見えたのだ。房子さまにしてみれば、魔法か何かのように感じられたのではないだろうか。
 呆然と立ち尽くす房子さま。
 完全に動きが止まってしまった房子さまの傍らを、鏡華さんは駆け抜けた。その眼の前に、すとんとボールが落ちてくる。

 観客が大きくどよめいた。
 皆、ようやく何が起こったかわかったのだ。
 鏡華さんは両足でボールの前後を挟むと、そのまま跳び上がり、両足の膝を、(かかと)(もも)に付くほど曲げてボールを空中に放った。ボールは鏡華さんの背後から舞い上がり、弧を描いて房子さまの頭上を越えたのである。
 皆、地面ばかりを見ていた。だから、ボールが消えたように錯覚したのだ。

 鏡華さんだって、最初からこの技ができたわけではない。わたしにフートボールの基礎を教えてくれながら、ご自分も一所懸命、黙々と練習していたのだ。わたしは知っている。鏡華さんは天才のように見えるけれど、実は人一倍努力する人だということを。

「鏡華さん、頑張って!」
「頑張って! わたしたちがついてるわ!」

 はっと見ると、わたしたちと同じ級の一年生たちだった。
 五年生のお姉さま方に遠慮して、ずっと声を出さないでいた級友たちが、声を振り絞って応援していた。
 その声は他の級の人たち、また野次馬のように試合見物をしていた人たちにも(またた)く間に伝わった。

「頑張れ! 一年生、頑張れ!」
「五年生に負けるな!」

 大きな声援を背に受けて、鏡華さんは風のように走った。Bさんをもあっさり抜き去り、たちまちゴールが近づく。
 でも、そこには――
 香蘭の(ともえ)()(ぜん)明子さんが、五年生チーム最後の砦としてゴールを死守している。 

「わたしの眼の黒いうちは、あなたの好きなようにはさせないことよ!」

 巴御前を通り越して(おお)()(やま)酒呑(しゅてん)(どう)()みたいな顔が、鏡華さんをはったと睨みつける。
 けれど鏡華さんは(ひる)まない。左足に体重をかけて前傾姿勢になった。長い右足が後ろに伸びたかと思うと、振り子のように前に振られる。
 火を噴くようなシュートが放たれた。
 ボールはまっすぐゴールの隅に吸い込まれた――と見えた。

「まだまだぁあああ!」

 明子さんが横っ飛びに飛んだ。それが純粋に反射神経によるものなのか、それともひたすら房子さんに対する忠誠心のなせる火事場の馬鹿力なのかは知る由もないが、もうすさまじいとしか言いようがない動きだった。
 熊手みたいな大きな手が、ボールをゴールの外へ弾き飛ばす。
 歓声が、一瞬で溜息に変わった。
 弾かれたボールは転々ところがり―― 
 まるではかったようにわたしの足元へ。

「こず枝さん、頼んだわ!」
 鏡華さんが叫ぶ。そう、これが鏡華さんが考えた「奥の手」。
 一瞬、世界から音が消えた。わたしの眼には、全てがスロー・モーションのように見えた。
 地面に倒れている(あき)()さんの小さな眼と大きな口が、ゆっくりと開かれてゆく。

『上から押さえつけるんじゃなくて、ボールの勢いを殺すように足の側面で軽く受けるの』

 特訓の時の鏡華さんの声が、わたしの耳に蘇る。その言葉通り、わたしは足の側面で、転がってきたボールを軽く受けた。

『ボールが完全に静止してから蹴り返すってことをお忘れにならないで』
 
 忘れるものですか。音のない世界に、今やわたしとボールだけがあった。そして、

は完全に静止した。

「こず枝さん、蹴って!」

 わたしは、蹴った。
 渾身の力を込めて。

 眼の隅に、走ってきたミセス・ハーパーが映ったので、わたしは振り返る。ミセス・ハーパーの右手が高々と上がる。

「とくてーん!」

 続いて試合終了を告げるホイッスルが、静まり返った運動場に鳴り響いた。

 鏡華さんが飛んできて、わたしに抱きつく。一瞬遅れて、割れるような大歓声がわたしたちを包み込んだ。

※1 「オジャン」の語源は複数存在するが、女学生言葉としての「オジャン」は、女子学習院の生徒が鐘が鳴ると「オジャンで御座ります」と言っていたのが始まりで、大正十二年の関東大震災以降、他の女学校にも伝わり一般化したとされている。この場面で房子は、「駄目になる」「不成功に終わる」の意味で「オジャン」を使っている。
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登場人物紹介

春野こず枝(はるの・こずえ)

本作の主人公兼語り手。香蘭女学校一年生。

母も香蘭女学校の卒業生だったが、去年亡くなった。現在は、あまり売れていない文士の父親と二人暮らし。

鏡華と「少女探偵団」を結成する。

※余談だが、使用させていただいているフリーイラストが美しすぎて、小説作者(南ノ)でさえ、「こず枝さん、あんたこんな美少女じゃないよね」と密かに思っているという噂がある。

林鏡華(リン・キョウカ)

「鳳眼」の美少女で、こず枝とは腹心の友。

台湾出身だが、父親が横浜で貿易会社を経営しているため、日本育ち。

一部の生徒にしか知られていないものの、もう一つの顔を持ち、特殊な事件を解決する。

こず枝とともに「少女探偵団」を結成。

※左の耳の上あたりの髪に、小さい紫色のリボンをイメージしていただくと、より小説のイメージに近くなります。

小野寺房子(おのでら・ふさこ)

香蘭女学校の「女王」と称せられ、下級生から憧れと畏怖の視線を集める五年生。

次期首相候補とも囁かれる大物政治家の御令嬢。

特技はフートボール。


薬師寺光子(やくしじ・みつこ)

こず枝と鏡華の級友(クラスメート)。

母親も香蘭女学校の卒業生で、こず枝の母の親友だった。

父親が小野寺家の執事のため、家族で小野寺邸に住んでいる。


柏木塔子(かしわぎ・とうこ)

香蘭女学校二年生。

一見なよなよした風情の美少女だが、なぜか「剛の者」と称される。

女王房子が唯一苦手とする相手だという噂がある。

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