第33話 ごきげんよう
文字数 2,857文字
「鏡華さん、どうなさったの?」
わたしの問いに、鏡華さんは珍しく、ちょっともじもじしたような仕草をみせた。
「ごめんなさい。別に用事があったわけではないの。ただ、なんだか急にこず枝さんの顔を見たくなってしまって」
「でも、どうしてここが?」
「それは……」
鏡華さんはちょっと口籠ってから、こう言った。「ねえ、こず枝さん。少し歩かないこと? 散歩しながらお話ししましょう」
「いいわ」
わたしは頷いて、鏡華さんと肩を並べて駅の近くを歩いた。空はまだ明るく、花園橋の通りは夕日の照り返しで眩しいほどだったが、足元にはいつの間にか水のような夕闇が流れはじめていた。
「鏡華さん、房子さまのお申し出、お受けになるの?」
『そこで提案なのだけれど、あなた、改めてわたしの妹にならないこと?』
あの日、房子さまはそう仰った。それに対し鏡華さんは、少しお時間をいただけるでしょうかと答えたのだ。
「実はね、今日そのことで房子さまのお家へ行ってきたの。二度もお誘いをいただいたわけだし、ちゃんとお返事した方がいいと思ったから」
わたしは自分の心臓が小兎みたいに跳ねた気がした。黙って鏡華さんの話の続きを待つ。
「わたし、お断りしたわ」
「ほんとう?!」
思わず頓狂な声を上げてしまった。
「ほんとうよ」
鏡華さんは淡々と答えた。「確かに房子さまのご提案は魅力的だった。心が動かなかったと言えば、嘘になるわ」
『フートボールの試合が引き分けに終わったのは事実だから、自分は決して無理にあなたと姉妹になるつもりはない。でも、わたしとエスの契りを結んだという噂が広がれば、あなたを今困らせている問題は自ずと解決するはずよ』
あの日、お昼休みの運動場の隅で、房子さまはそう鏡華さんに言ったのだ。
形だけの、謂わば契約の姉妹。それが房子さまのご提案の内容だったのである。
そもそも、今回の騒動は鏡華さんが房子さまのエスの誘いを断ったことに端を発している。勝負が引き分けに終わったのに、結果として鏡華さんと房子さまが姉妹になるというのでは道理に合わない。鏡華さんとエスの契りを結ぼうとしている上級生の方からは、当然反発が出るだろう。でも房子さまは、自分はそれらを抑え込んでみせると言っているのだ。事実、房子さまにはそれだけの力があるはずである。
「鏡華さんにとって願ってもないお話のように聞こえるけれど、なんだか心配だわ。だって――」
最初の頃と比べて、房子さまの印象が変わったのは間違いない。でも、房子さまが香蘭の女王で、しかも卓抜した政治的手腕をお持ちだということもまた、動かしがたい事実なのだ。
困っている鏡華さんに救いの手を差し伸べるふりをして、そのまま鏡華さんを手懐 けてしまうおつもりなのではないか。
いや、違う。わたしは鏡華さんのために心配しているのではない。心配したようなふりをしているだけだ。わたしは、今自分の心を支配している感情の名前を知っている。
『要するに、嫉妬ね。醜い嫉妬』
薬師寺さんのお母さまの言葉は正しい。わたしは、嫉妬しているのだ。自分から鏡華さんを取り上げようとする存在に対して。
日を経て後カイン土より出 る果 を携来 りてヱホバに供物 となせり。アベルもまた其羊の初 生 と其肥 たるものを携 へ来 れり。ヱホバ、アベルと其供物を眷顧 みたまひしかどもカインと其供物をば眷 みたまはざりしかばカイン甚 だ怒り且 其 面 をふせたり。※1
『創世記』第四章。カインをしてヱホバの前で面を上げさせなかったもの。その感情の名が、嫉妬。自分よりアベルの方がヱホバに愛されている。その事実を受け入れられないのは、カインが誰よりもヱホバを愛していたからに他ならない。嫉妬に捉われたカインは、ついにアベルを殺してしまう。
人を愛するという、本来この世で最も美しいはずの感情の中から、嫉妬というこの世で最も醜い感情が生まれてしまう。自分にとって特別な人は、自分のことも特別な人と思ってほしい。そのためには他者を傷つけ、排除することもあえてする。
もし嫉妬のない愛がこの世にないとしたら、生きていくのはなんと苦しいことだろう。
わたしはそっと溜息を吐 くと、鏡華さんに尋ねた。
「房子さまのご提案を、鏡華さんはどうやってお断りになったの?」
「房子さまのご厚意に対して心から感謝致します。でも、これはわたしが自分で解決すべき問題だと思いますって申し上げたの」
「房子さまは何て?」
「あなたはそう答えると思っていたわ、ですって」
鏡華さんは屈託なげに笑った後、「それにね」と言ってわたしから眼を逸らした。ちょっと俯いた鏡華さんの横顔に髪が流れて、表情はよく見えない。紫の小さい胡蝶のようなリボンが、歩みに合わせて僅かに揺れる。
「わたし、房子さまにこうも言ったのよ。わたしには、大事な人がいます。その人と過ごす時間が、今の自分にとってはかけがえのないものなのですって」
わたしは、黙っていた。
「おいとま申し上げる時、房子さまがふと思い出したように教えて下さったの。今日、こず枝さんがここで、薬師寺さんとそのお母さまとお会いになっていることを。それで、もしかしたら間に合うかもしれないと思って、夏子さんに頼んでこちらへ車を回してもらったのよ」
わたしは思わず右手を伸ばして、隣を歩いている鏡華さんの左手に触れた。わたしと鏡華さんの指が同時に動いて、絡んだ。
十本の指が、しっかりと相手の指を握り合う。
周囲を行き交う人の流れが途切れた時、どちらからともなく足を止めた。わたしは、鏡華さんと向かい合って立った。
片方の手を握り合ったまま。
「ねえ、鏡華さん」
「なあに」
鏡華さんが、小首を傾げてわたしを見る。
鏡華さんの澄んだ瞳の中に、わたしが映っていた。
鳳眼 。わたしの大好きなそのお眼。
「ううん」
わたしは首を振った。「なんでもないの」
「へんなこず枝さん」
「鏡華さんこそ、へんだわ。妖怪を七星剣であっさり退治しちゃう女学生なんて、いくら明治以来の歴史を誇る香蘭女学校と雖 も空前絶後だもの」
「そうかしら。空前ではあるかもしれないけれど、絶後とは限らなくてよ」
「いいえ、空前にして絶後。そうに決まってるわ。モチモチよ」
ふたり同時に、ぷっと吹き出した。
わたしたちは、もう一方の手――わたしの左手と鏡華さんの右手も握り合わせると、両腕を鞦韆 みたいに二三回振り、それからぱっと離した。
「ごきげんよう」
わたしは、それだけ言った。
鏡華さん、わたしはあなたが好き。大好き。
その言葉を、口に出して鏡華さんに伝えることはできなかった。でも、これでいいのだとも思った。少なくとも、今は……。
わたしは、昭和十一年五月のこの夕暮れの一刻を、きっと永遠に忘れないだろう。
「ごきげんよう、明日また学校でね」
鏡華さんもそう言って、それから――
莞爾 と笑った。
※1 『文語訳 旧約聖書Ⅰ 律法』、岩波書店、2015年、P14。
(第一部・了)
わたしの問いに、鏡華さんは珍しく、ちょっともじもじしたような仕草をみせた。
「ごめんなさい。別に用事があったわけではないの。ただ、なんだか急にこず枝さんの顔を見たくなってしまって」
「でも、どうしてここが?」
「それは……」
鏡華さんはちょっと口籠ってから、こう言った。「ねえ、こず枝さん。少し歩かないこと? 散歩しながらお話ししましょう」
「いいわ」
わたしは頷いて、鏡華さんと肩を並べて駅の近くを歩いた。空はまだ明るく、花園橋の通りは夕日の照り返しで眩しいほどだったが、足元にはいつの間にか水のような夕闇が流れはじめていた。
「鏡華さん、房子さまのお申し出、お受けになるの?」
『そこで提案なのだけれど、あなた、改めてわたしの妹にならないこと?』
あの日、房子さまはそう仰った。それに対し鏡華さんは、少しお時間をいただけるでしょうかと答えたのだ。
「実はね、今日そのことで房子さまのお家へ行ってきたの。二度もお誘いをいただいたわけだし、ちゃんとお返事した方がいいと思ったから」
わたしは自分の心臓が小兎みたいに跳ねた気がした。黙って鏡華さんの話の続きを待つ。
「わたし、お断りしたわ」
「ほんとう?!」
思わず頓狂な声を上げてしまった。
「ほんとうよ」
鏡華さんは淡々と答えた。「確かに房子さまのご提案は魅力的だった。心が動かなかったと言えば、嘘になるわ」
『フートボールの試合が引き分けに終わったのは事実だから、自分は決して無理にあなたと姉妹になるつもりはない。でも、わたしとエスの契りを結んだという噂が広がれば、あなたを今困らせている問題は自ずと解決するはずよ』
あの日、お昼休みの運動場の隅で、房子さまはそう鏡華さんに言ったのだ。
形だけの、謂わば契約の姉妹。それが房子さまのご提案の内容だったのである。
そもそも、今回の騒動は鏡華さんが房子さまのエスの誘いを断ったことに端を発している。勝負が引き分けに終わったのに、結果として鏡華さんと房子さまが姉妹になるというのでは道理に合わない。鏡華さんとエスの契りを結ぼうとしている上級生の方からは、当然反発が出るだろう。でも房子さまは、自分はそれらを抑え込んでみせると言っているのだ。事実、房子さまにはそれだけの力があるはずである。
「鏡華さんにとって願ってもないお話のように聞こえるけれど、なんだか心配だわ。だって――」
最初の頃と比べて、房子さまの印象が変わったのは間違いない。でも、房子さまが香蘭の女王で、しかも卓抜した政治的手腕をお持ちだということもまた、動かしがたい事実なのだ。
困っている鏡華さんに救いの手を差し伸べるふりをして、そのまま鏡華さんを
いや、違う。わたしは鏡華さんのために心配しているのではない。心配したようなふりをしているだけだ。わたしは、今自分の心を支配している感情の名前を知っている。
『要するに、嫉妬ね。醜い嫉妬』
薬師寺さんのお母さまの言葉は正しい。わたしは、嫉妬しているのだ。自分から鏡華さんを取り上げようとする存在に対して。
日を経て後カイン土より
『創世記』第四章。カインをしてヱホバの前で面を上げさせなかったもの。その感情の名が、嫉妬。自分よりアベルの方がヱホバに愛されている。その事実を受け入れられないのは、カインが誰よりもヱホバを愛していたからに他ならない。嫉妬に捉われたカインは、ついにアベルを殺してしまう。
人を愛するという、本来この世で最も美しいはずの感情の中から、嫉妬というこの世で最も醜い感情が生まれてしまう。自分にとって特別な人は、自分のことも特別な人と思ってほしい。そのためには他者を傷つけ、排除することもあえてする。
もし嫉妬のない愛がこの世にないとしたら、生きていくのはなんと苦しいことだろう。
わたしはそっと溜息を
「房子さまのご提案を、鏡華さんはどうやってお断りになったの?」
「房子さまのご厚意に対して心から感謝致します。でも、これはわたしが自分で解決すべき問題だと思いますって申し上げたの」
「房子さまは何て?」
「あなたはそう答えると思っていたわ、ですって」
鏡華さんは屈託なげに笑った後、「それにね」と言ってわたしから眼を逸らした。ちょっと俯いた鏡華さんの横顔に髪が流れて、表情はよく見えない。紫の小さい胡蝶のようなリボンが、歩みに合わせて僅かに揺れる。
「わたし、房子さまにこうも言ったのよ。わたしには、大事な人がいます。その人と過ごす時間が、今の自分にとってはかけがえのないものなのですって」
わたしは、黙っていた。
「おいとま申し上げる時、房子さまがふと思い出したように教えて下さったの。今日、こず枝さんがここで、薬師寺さんとそのお母さまとお会いになっていることを。それで、もしかしたら間に合うかもしれないと思って、夏子さんに頼んでこちらへ車を回してもらったのよ」
わたしは思わず右手を伸ばして、隣を歩いている鏡華さんの左手に触れた。わたしと鏡華さんの指が同時に動いて、絡んだ。
十本の指が、しっかりと相手の指を握り合う。
周囲を行き交う人の流れが途切れた時、どちらからともなく足を止めた。わたしは、鏡華さんと向かい合って立った。
片方の手を握り合ったまま。
「ねえ、鏡華さん」
「なあに」
鏡華さんが、小首を傾げてわたしを見る。
鏡華さんの澄んだ瞳の中に、わたしが映っていた。
「ううん」
わたしは首を振った。「なんでもないの」
「へんなこず枝さん」
「鏡華さんこそ、へんだわ。妖怪を七星剣であっさり退治しちゃう女学生なんて、いくら明治以来の歴史を誇る香蘭女学校と
「そうかしら。空前ではあるかもしれないけれど、絶後とは限らなくてよ」
「いいえ、空前にして絶後。そうに決まってるわ。モチモチよ」
ふたり同時に、ぷっと吹き出した。
わたしたちは、もう一方の手――わたしの左手と鏡華さんの右手も握り合わせると、両腕を
「ごきげんよう」
わたしは、それだけ言った。
鏡華さん、わたしはあなたが好き。大好き。
その言葉を、口に出して鏡華さんに伝えることはできなかった。でも、これでいいのだとも思った。少なくとも、今は……。
わたしは、昭和十一年五月のこの夕暮れの一刻を、きっと永遠に忘れないだろう。
「ごきげんよう、明日また学校でね」
鏡華さんもそう言って、それから――
※1 『文語訳 旧約聖書Ⅰ 律法』、岩波書店、2015年、P14。
(第一部・了)