第11話 秘密の特訓、始めませう

文字数 2,774文字

 鏡華さんは、さっさと制服を脱いで着替え始めた。
 女の子同士なのだから別に問題はないはずなのに、少し

してしまう。
 しかも、洗濯してあるとは言え、ふだん鏡華さんが身につけている体操服に腕を通すのだから猶更(なおさら)だ。やだ、わたし、顔が赤くなっていないかしら? 変に思われたらどうしよう……。
 もし鏡華さんに、あの虚心(きょしん)な表情で、
「こず枝さん、お顔が真っ赤だけれど、どうなさったの?」
 なあんて言われたら、わーとか叫んで部屋を飛び出さねばならないだろう。幸いなことに、鏡華さんは男の子みたいにさばさばと着替えていたので、わたしはほっと(あん)()の溜息を()いた。

 すらりと足の長い鏡華さんは、野暮(やぼ)ったい提灯(ちょうちん)ブルマーの体操服も、瀟洒(しょうしゃ)に着こなしていた。

(房子さまもお似合いだったけど、鏡華さんの方がやっぱり素敵(すてき)!)
 
 そう思うと、ちょっと誇らしい気分になった。
 ところが、困ったのは(あみ)()げ靴だった。背はわたしより高いのに、鏡華さんの足は、なんとわたしより小さかったのだ。
 仕方がないので、靴紐を思いっきり(ゆる)めてなんとか足を入れたが、見た目ができそこないの麵麭(パン)みたい。1000年の歴史を受け継ぐ伝統的日本女性であるところのわたしの足は、どう贔屓(ひいき)()に見ても長くはない。それがあの提灯とは言い()(みょう)の、ぶかぶかしたブルマーを穿()くと余計短く見える。だからわたしは体操服が嫌い。その上、大足(おおあし)(おんな)なんて、もう最悪。なんだか、フートボールをやる気が急に()せちゃった。
「さあ、お庭に行きましょう。秘密の特訓の始まりよ!」
 一方の鏡華さんは爽やかに、やる気満々。

 手入れの行き届いた芝生のお庭だった。日本のお(やしき)のように池とか築山(つきやま)とか石とかが置かれていないので、広々としている。
「いいこと? こず枝さん。フートボールは、足しか使ってはいけないの。でもね、逆に言えば、足ならどこを使ってもいいのよ。爪先(つまさき)、足の甲、足の裏……足にはいろいろな部分があるわ。だから、先ず足をボールに馴染(なじ)ませるのが大事なの」

 鏡華さんは、抱えていたフートボールをぽんと下に(ほう)る。芝の上で、小さく跳ねたボールを、上から踏んづけるようにすると、ぴたりとボールが静止する。そのまま、二三度軽く前後に揺らしたかと思うと、すっと足の甲をボールと芝生の間に(すべ)り込ませた。
 その瞬間。
 まるでボールに透明な糸がついていて、誰かが上から引っ張ったみたいに、ふわりとボールが宙に浮いた。鏡華さんがそれを(もも)で受けると、ボールはまた空中に浮かぶ。今度は足の甲で受けた。そうやって、ぽんぽんと何度も鏡華さんと(たわむ)れるように跳ねた後、最後にひと(きわ)高く蹴り上げられたボールが、まっすぐ空から落ちてきて、ぱしっと鏡華さんの両手に捉えらえた。
「こんな感じよ」
 いやいや、こんな感じと(おっしゃ)られましても。
 今のは手品か何か?

 打ち()ぐる ボールは高く雲に入りて 又落ち来たる 人の手の(うち)

 正岡(まさおか)子規(しき)がベースボールを詠んだ歌だ。これを読んだ時は、心がボールと一緒に空の中をどこまでも伸びてゆく気がして、いいなあと思ったものだけれど、鏡華さんの()う〈秘密の特訓〉を受けている今のわたしは、とてもそんな牧歌的な気分に浸ってはいられなかった。そう言えば、子規先生もフートボールの歌は詠んでおられぬようだ。

「こず枝さん、わたしがあなたの方へ軽くボールへ蹴りますから、あなたはわたしの方へ蹴り返すのよ。準備はよくって?」
「よ、よくってよ!」
 さあ、おいでなさい。わたしは思わず両の拳を握りしめる。
 鏡華さんは、本当に軽くボールを蹴った。ころころとまっすぐこちらへ転がってくる。
 何よ、馬鹿にしてらっしゃるの。こんなのろのろボール、蹴り返すのはわけもないことよ。わたしは右足を後ろに引くと勢いよく――
「あっ、違うわ!」
 鏡華さんの声が響いたが、時既に遅し。芝生と空の位置が逆さまになったと思ったら、わたしはいやというほど地面にお尻をぶつけていた。

「こず枝さん、いい? 直接蹴り返しちゃだめ。足の側面で、一旦ボールを止めるの」
「うん」
「上から押さえつけるんじゃなくて、ボールの勢いを殺すように足の側面で軽く受けるの」
「うん」
「ボールが完全に静止してから蹴り返すってことをお忘れにならないで。最初はゆっくりでいいから。蹴る時も爪先じゃなくて、やっぱり足の側面を使うの。当たる部分の面積が大きければ大きいほど、ボールをコントロールし易くなるから。これが、パスの基本練習よ」
「うん」
「じゃあ、またやってみる? それとも、もう少し休んだ方がいい?」
 鏡華さんが心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「うん、大丈夫。やってみるわ」
 言葉とは裏腹(うらはら)に、わたしの眼はたぶん死んだ魚のようになっていたに違いない。
 ものの見事に引っくり返ってお尻を地面に強打してから、わたしはすっかり(どく)()を抜かれてしまった。自分がスポーツに向いてないのが、しみじみわかった。ああ、ボールひとつ、まともに蹴り返せないわたし。

 でも、おかげで余計な力が抜けたのか、練習を再開した後は、少なくとも(から)()りすることなく、足でボールに(さわ)れるようにはなっていた。
 それでも、ボールを一旦止めるというのがなかなか難しい。うっかり足の側面ではなく爪先に当たってしまうと、ボールはあさっての方へ転がってゆく。

 鏡華さんは、教え方がうまかった。
 わかり易く、具体的に改善点を指摘してくれるし、こちらがうまくできなくても、決していらいらすることなく、辛抱強く繰り返し教えてくれる。

(鏡華さんが先生だったら、たちまち生徒たちの憧れの(まと)になってしまうわ)

 ふと、そんな想像が頭に浮かんだ。
 もし鏡華さんが新しい先生として(まな)()に現れたら、生徒たちはさぞや色めきたつことだろう。先生の一挙手(いっきょしゅ)一投足(いっとうそく)を息を()めて見守り、そして(ひそ)かに、深い溜息を洩らすことだろう。

 繰り返しボールを蹴っているうちに、だんだんコツが呑み込めてきた。三本に一本は、鏡華さんの真正面にボールを蹴り返せるようになった。
「こず枝さん、お上手よ」
「やったあ!」
 フートボールって、けっこう楽しい。
 ようやくそう思えるようになった時だった。

「いけない!」
 突然、鏡華さんが叫んだ。
 巨大な黒い(かたまり)が、わたしの方へ疾風(しっぷう)のように迫ってくる。
 瞬間的に、熊だと思った。
 どうして横浜の山手のお邸で熊に襲われるのかしら?
 そう言えば、台湾にも熊がいて、実地調査に(おもむ)いた日本人の植物学者が熊に襲われたという新聞の記事を見たことがあったっけ?
 須臾(しゅゆ)()に、人間ってけっこういろいろ考えられるものだ。
 どれも、身を守る役には立たぬことばかりだったけれど。
 そして客観的には、ただぼうっと突っ立っているようにしか見えなかったであろうわたしの視界いっぱいに、跳躍(ちょうやく)する真っ黒い影が(おお)(うつ)しになった……。
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登場人物紹介

春野こず枝(はるの・こずえ)

本作の主人公兼語り手。香蘭女学校一年生。

母も香蘭女学校の卒業生だったが、去年亡くなった。現在は、あまり売れていない文士の父親と二人暮らし。

鏡華と「少女探偵団」を結成する。

※余談だが、使用させていただいているフリーイラストが美しすぎて、小説作者(南ノ)でさえ、「こず枝さん、あんたこんな美少女じゃないよね」と密かに思っているという噂がある。

林鏡華(リン・キョウカ)

「鳳眼」の美少女で、こず枝とは腹心の友。

台湾出身だが、父親が横浜で貿易会社を経営しているため、日本育ち。

一部の生徒にしか知られていないものの、もう一つの顔を持ち、特殊な事件を解決する。

こず枝とともに「少女探偵団」を結成。

※左の耳の上あたりの髪に、小さい紫色のリボンをイメージしていただくと、より小説のイメージに近くなります。

小野寺房子(おのでら・ふさこ)

香蘭女学校の「女王」と称せられ、下級生から憧れと畏怖の視線を集める五年生。

次期首相候補とも囁かれる大物政治家の御令嬢。

特技はフートボール。


薬師寺光子(やくしじ・みつこ)

こず枝と鏡華の級友(クラスメート)。

母親も香蘭女学校の卒業生で、こず枝の母の親友だった。

父親が小野寺家の執事のため、家族で小野寺邸に住んでいる。


柏木塔子(かしわぎ・とうこ)

香蘭女学校二年生。

一見なよなよした風情の美少女だが、なぜか「剛の者」と称される。

女王房子が唯一苦手とする相手だという噂がある。

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