第28話 わたしたち、正々堂々戦うと誓いませう
文字数 3,758文字
「ところで、フートボールの試合の日まであまり時間がないけれど、準備の方はいかが」
房子さまの言葉を聞いて、わたしはがっかりしてしまった。やっぱりやるのか。
こうして皆で膝を交えて話し合って、ようやく少し打ち解けられた気がしていた。だから、「決闘のことはもう水に流しましょう」と房子さまが仰って下さるのではないかと密かに期待していたのだが、どうやらそうは問屋が卸 してくれないようだ。
「大丈夫です」
鏡華さんは、相変わらず淡々と答える。
「でも、まだチームメイトの数も揃っていないって聞いたわよ」
「柏木さまに、わたしたちのチームに入っていただこうと思っております」
房子さまは一瞬、「わたし、何かとんでもない聞き違いをしたのではなくって」という顔をされたが、鏡華さんが柏木さんに視線を向けているのに気づくと、まだ自分を見つめ続けている柏木さんの顔を両手でぐいっと鏡華さんの方へ向けた。なんだか、人形の首を動かすような動作だった。
「ほら、林さんがあなたにお話ししてらっしゃるわよ。そっぽを向いていては失礼でしょう」
「はい、お姉さま」
柏木さんは、房子さまの言葉にはやたらと素直だ。鏡華さんの方へ向き直ると、膝に手を置いてかしこまった。「御免あそばせ。わたくしにお話って、何でしょうか」
「柏木さま、ご一緒にフートボールを致しましょう」
鏡華さんはそれだけ言って、あとはただ微笑んでいる。
「ふーと、ぼーる??」
火星の言葉でも聞いたような顔で、柏木さんは人差し指を頬にあて、小首を傾 げる。
「房子さまも出ます」
「やりますわ」
ちょっとお待ちになって! わたしは思わず叫びそうになった。柏木さん、全然状況がわかってないでしょう。房子さまは、敵なのよ。
房子さまも何か言いかけたが、諦めたように首を振ると、「もういいわ」と呟いた。
「それでも、まだ一人足りないのではなくって」
「もう一人は、薬師寺さんにお願い致します」
鏡華さんは静かな眼を、今度は薬師寺さんに向けたのだ。
(いくらチームメイトが足りないからって……それはいくらなんでも)
わたしは鏡華さんの無謀さに呆れてしまった。薬師寺さんは小野寺家の使用人ではないものの、房子さまのお付きのような存在。いくらわたしたちと同じ級だからって、房子さまに敵対するような行動を採 るわけが――ところが、わたしは意外なものを見た。薬師寺さんの眼鏡の奥の眼が輝いていたのだ。
「もし房子さまのお許しさえ得られれば、喜んで入らせていただきますわ」
ど、どういうこと……?
この時、薬師寺さんの視線がふと動いて、わたしを捉えた。柔らかい眼の色だった。
「だってこのチームには、春野さんがいらっしゃるんですから」
わたしはかなりわかり易い表情をしたらしい。房子さまが薬師寺さんの肩を軽く突っついた。
「ちゃんと話してあげなければいけないわ。この方はなにしろ、あなたと同じ級にいることも知らなかったんだから」
「わかりました」
薬師寺さんは、わたしをまっすぐに見つめながら、こう言った。
「春野さん、わたしの母もね、以前香蘭の生徒だったの。あなたのお母さまと同じ級で、二人は親友だったそうよ」
「やっぱりそうでしたのね!」
わたしは自分でも気づかぬうちに立ち上がって薬師寺さんの傍らに行くと、その手を両手で包み込むように握っていた。
「同じ級にいたのに気づかなかったわたしがこんなことを言っても、信じて下さらないかもしれないけれど、一週間前、ここであなたをお見かけした時、わたし心の底から驚いたの。だって、母の香蘭時代の写真の中にいた方にそっくりだったから」
「たぶんそれと同じお写真、わたしも見ているわ。母が一番大事にしている写真なの」
わたしの眼がぼうっと霞んで、周りが見えなくなった。
薬師寺さんも立ち上がり、わたしの肩をそっと、やさしく抱くようにしてくれた。わたしはもう堪 らなくなった。何度もしゃくりあげながら、震える声を絞り出した。
「わたしの母は身体が弱くて、何年もほとんど寝たきりで、それで、それで去年……」
「母から聞いているわ。春野さん、お辛かったわね」
「だから、だからね、母からわたし、何も聞いていないの。母の香蘭時代の話なんて、何も。最後もあまりに突然で……。もっといろいろ聞きたかったのに、お話したかったのに。だから、だから、わたし……」
あとは言葉にならなかった。お母さまの死からずっと、わたしの身体の中で固く凝 っていたもの。それがほぐれて、澄んだ水となって、両眼からほろほろとこぼれ落ちるのだった。
薬師寺さんに肩を抱かれていると、写真の中のお母さまもわたしの傍らに立って下さっているような気がした。まるで女学校時代のお母さまと今のわたしが重なり合うような、不思議な感覚だった。
わたしの涙の最後の一滴が出尽くすまで、皆待っていてくれた。
房子さまも、黙って待っていてくれた。
「というわけですが、房子さま。わたくし、こちらのチームに入ってもよろしいでしょうか」
薬師寺さんが改めて房子さまに尋ねた時、わたしはもう、元の鏡華さんの隣の席に戻っていた。鏡華さんは黙ってわたしの手を握っていてくれた。
「いいわ。でも、ひとつ条件があるの」
「条件……」
房子さまの言葉に、薬師寺さんの顔が少し緊張した。
「やるからには、全力でおやりなさい。わたしに妙な遠慮をしたら、許さないわよ。手を抜かれて勝つなんて、何の意味もないもの。わたし、そういうのが一番嫌いなの。よくって?」
わたしは房子さまを、ちょっと見直した。
この方は女王さまは女王さまでも、決して暴君ではないのだ。
『ちょっと! どこのどなたか存じませんけれど、香蘭の生徒をいじめるのは、このわたしが許さなくってよ!』
魔物の前にして、房子さまはそう言い切った。あの時は相手が魔物だとは知らなかったのかもしれないし、実際問題として房子さまの行動はあまり役に立たなかった――どころか、余計に状況を悪くしていたようだったけれど、それでも房子さまが香蘭女学校を愛し、その生徒を守ろうとした心だけは信じていいと思った。姉妹になるか否かは別問題として、だが。
「はい、全力で戦わせていただきます」
薬師寺さんも安心したような笑顔で、そう答えていた。
「あのう」
おずおずとわたしは口を挟んだ。「わたしからも、ひとつ小野寺さまにお訊きしてもよろしいでしょうか」
房子さまは「今泣いた烏がもう……」という顔をわたしに向けたが、皮肉な感じはなかった。
「かまわないわ。何ですの?」
「あの時、どうしてフートボールをお持ちになっていたのですか」
房子さまはちょっと顔を赤らめたが、案外素直に答えてくれた。
「わたしなりの武器のつもりだったのよ。だって、わたしは剣術とかできないんですもの。仕方ないでしょう」
房子さまは魔物に向ってフートボールをお蹴りになった。あれは勇敢な行為と言っていいと思う。結果は――いや、それは問うまい。わたしなんて、お台所の擂り粉木を持ち出そうとか考えていたのだから、他人 のことを言えた義理ではないのだ。
次に、薬師寺さんが空き家を見張っていた件の話になった。
いくら柏木さんの一方的なお手紙攻撃の結果だとは言え、柏木さんの失踪には、房子さまもやはり責任の一端を感じていたのに違いない。それで、房子さまが薬師寺さんに命じて、柏木さんの失踪場所である空き家の調査をさせていたのかと思ったら、さにあらず。なんと薬師寺さんが自発的に空き家の様子を調べていたと言うのだ。
「実はわたくし、探偵小説を嗜 みますの。それで、この不思議な事件に興味を持ったというわけですわ」
薬師寺さんは、そう言って笑っていた。もちろん嘘ではないのだろうが、それだけが理由ではないように、わたしには思えた。房子さまが気に病んでいるのを間近に見て、薬師寺さんは房子さまのお力になって差し上げようとしたのではないか。小さい頃から同じお邸で育っただけあって、お二人の関係は、余人には窺い知れぬものがありそうだった。
薬師寺さんは、鏡華さんとわたしが空き家にいるのを見て驚き、すぐに房子さまに報告した。そこで房子さまは俄然興味を抱き、運転手に命じて林家のお車を追跡することにしたのだそうだ。
つまりあの日、わたしたちは房子さまと薬師寺さんに、ずっと尾行されていたことになるのである。
わたしはずいぶん驚いたのだけれど、鏡華さんは頷きながら聞いていた。おそらく、夏子さんは尾行されていることに気づいていただろうし、夏子さんなら、見ればすぐ小野寺家のお車だとわかったはずだ。だから鏡華さんは、とっくにご存知だったのだろう。
ただ、夏子さんも鏡華さんも、まさか房子さまがフートボールを手に空き家の中に乗り込んでくるとは夢にも思わなかったのだ。
房子さまのお人柄を見誤っていたのは、どうやらわたしだけではなかったらしい。
「他に何かお聞きになりたいことはあって?」
わたしたちが首を横に振るのを確かめると、房子さまはすくっと立ち上がった。片手を鏡華さんの前に差し出す。
「わたしたち、正々堂々戦うと誓いましょう」
鏡華さんが、その手をしっかりと握り返す。
「望むところです」
そう答えて、鏡華さんは莞爾 と笑った。
房子さまの言葉を聞いて、わたしはがっかりしてしまった。やっぱりやるのか。
こうして皆で膝を交えて話し合って、ようやく少し打ち解けられた気がしていた。だから、「決闘のことはもう水に流しましょう」と房子さまが仰って下さるのではないかと密かに期待していたのだが、どうやらそうは問屋が
「大丈夫です」
鏡華さんは、相変わらず淡々と答える。
「でも、まだチームメイトの数も揃っていないって聞いたわよ」
「柏木さまに、わたしたちのチームに入っていただこうと思っております」
房子さまは一瞬、「わたし、何かとんでもない聞き違いをしたのではなくって」という顔をされたが、鏡華さんが柏木さんに視線を向けているのに気づくと、まだ自分を見つめ続けている柏木さんの顔を両手でぐいっと鏡華さんの方へ向けた。なんだか、人形の首を動かすような動作だった。
「ほら、林さんがあなたにお話ししてらっしゃるわよ。そっぽを向いていては失礼でしょう」
「はい、お姉さま」
柏木さんは、房子さまの言葉にはやたらと素直だ。鏡華さんの方へ向き直ると、膝に手を置いてかしこまった。「御免あそばせ。わたくしにお話って、何でしょうか」
「柏木さま、ご一緒にフートボールを致しましょう」
鏡華さんはそれだけ言って、あとはただ微笑んでいる。
「ふーと、ぼーる??」
火星の言葉でも聞いたような顔で、柏木さんは人差し指を頬にあて、小首を
「房子さまも出ます」
「やりますわ」
ちょっとお待ちになって! わたしは思わず叫びそうになった。柏木さん、全然状況がわかってないでしょう。房子さまは、敵なのよ。
房子さまも何か言いかけたが、諦めたように首を振ると、「もういいわ」と呟いた。
「それでも、まだ一人足りないのではなくって」
「もう一人は、薬師寺さんにお願い致します」
鏡華さんは静かな眼を、今度は薬師寺さんに向けたのだ。
(いくらチームメイトが足りないからって……それはいくらなんでも)
わたしは鏡華さんの無謀さに呆れてしまった。薬師寺さんは小野寺家の使用人ではないものの、房子さまのお付きのような存在。いくらわたしたちと同じ級だからって、房子さまに敵対するような行動を
「もし房子さまのお許しさえ得られれば、喜んで入らせていただきますわ」
ど、どういうこと……?
この時、薬師寺さんの視線がふと動いて、わたしを捉えた。柔らかい眼の色だった。
「だってこのチームには、春野さんがいらっしゃるんですから」
わたしはかなりわかり易い表情をしたらしい。房子さまが薬師寺さんの肩を軽く突っついた。
「ちゃんと話してあげなければいけないわ。この方はなにしろ、あなたと同じ級にいることも知らなかったんだから」
「わかりました」
薬師寺さんは、わたしをまっすぐに見つめながら、こう言った。
「春野さん、わたしの母もね、以前香蘭の生徒だったの。あなたのお母さまと同じ級で、二人は親友だったそうよ」
「やっぱりそうでしたのね!」
わたしは自分でも気づかぬうちに立ち上がって薬師寺さんの傍らに行くと、その手を両手で包み込むように握っていた。
「同じ級にいたのに気づかなかったわたしがこんなことを言っても、信じて下さらないかもしれないけれど、一週間前、ここであなたをお見かけした時、わたし心の底から驚いたの。だって、母の香蘭時代の写真の中にいた方にそっくりだったから」
「たぶんそれと同じお写真、わたしも見ているわ。母が一番大事にしている写真なの」
わたしの眼がぼうっと霞んで、周りが見えなくなった。
薬師寺さんも立ち上がり、わたしの肩をそっと、やさしく抱くようにしてくれた。わたしはもう
「わたしの母は身体が弱くて、何年もほとんど寝たきりで、それで、それで去年……」
「母から聞いているわ。春野さん、お辛かったわね」
「だから、だからね、母からわたし、何も聞いていないの。母の香蘭時代の話なんて、何も。最後もあまりに突然で……。もっといろいろ聞きたかったのに、お話したかったのに。だから、だから、わたし……」
あとは言葉にならなかった。お母さまの死からずっと、わたしの身体の中で固く
薬師寺さんに肩を抱かれていると、写真の中のお母さまもわたしの傍らに立って下さっているような気がした。まるで女学校時代のお母さまと今のわたしが重なり合うような、不思議な感覚だった。
わたしの涙の最後の一滴が出尽くすまで、皆待っていてくれた。
房子さまも、黙って待っていてくれた。
「というわけですが、房子さま。わたくし、こちらのチームに入ってもよろしいでしょうか」
薬師寺さんが改めて房子さまに尋ねた時、わたしはもう、元の鏡華さんの隣の席に戻っていた。鏡華さんは黙ってわたしの手を握っていてくれた。
「いいわ。でも、ひとつ条件があるの」
「条件……」
房子さまの言葉に、薬師寺さんの顔が少し緊張した。
「やるからには、全力でおやりなさい。わたしに妙な遠慮をしたら、許さないわよ。手を抜かれて勝つなんて、何の意味もないもの。わたし、そういうのが一番嫌いなの。よくって?」
わたしは房子さまを、ちょっと見直した。
この方は女王さまは女王さまでも、決して暴君ではないのだ。
『ちょっと! どこのどなたか存じませんけれど、香蘭の生徒をいじめるのは、このわたしが許さなくってよ!』
魔物の前にして、房子さまはそう言い切った。あの時は相手が魔物だとは知らなかったのかもしれないし、実際問題として房子さまの行動はあまり役に立たなかった――どころか、余計に状況を悪くしていたようだったけれど、それでも房子さまが香蘭女学校を愛し、その生徒を守ろうとした心だけは信じていいと思った。姉妹になるか否かは別問題として、だが。
「はい、全力で戦わせていただきます」
薬師寺さんも安心したような笑顔で、そう答えていた。
「あのう」
おずおずとわたしは口を挟んだ。「わたしからも、ひとつ小野寺さまにお訊きしてもよろしいでしょうか」
房子さまは「今泣いた烏がもう……」という顔をわたしに向けたが、皮肉な感じはなかった。
「かまわないわ。何ですの?」
「あの時、どうしてフートボールをお持ちになっていたのですか」
房子さまはちょっと顔を赤らめたが、案外素直に答えてくれた。
「わたしなりの武器のつもりだったのよ。だって、わたしは剣術とかできないんですもの。仕方ないでしょう」
房子さまは魔物に向ってフートボールをお蹴りになった。あれは勇敢な行為と言っていいと思う。結果は――いや、それは問うまい。わたしなんて、お台所の擂り粉木を持ち出そうとか考えていたのだから、
次に、薬師寺さんが空き家を見張っていた件の話になった。
いくら柏木さんの一方的なお手紙攻撃の結果だとは言え、柏木さんの失踪には、房子さまもやはり責任の一端を感じていたのに違いない。それで、房子さまが薬師寺さんに命じて、柏木さんの失踪場所である空き家の調査をさせていたのかと思ったら、さにあらず。なんと薬師寺さんが自発的に空き家の様子を調べていたと言うのだ。
「実はわたくし、探偵小説を
薬師寺さんは、そう言って笑っていた。もちろん嘘ではないのだろうが、それだけが理由ではないように、わたしには思えた。房子さまが気に病んでいるのを間近に見て、薬師寺さんは房子さまのお力になって差し上げようとしたのではないか。小さい頃から同じお邸で育っただけあって、お二人の関係は、余人には窺い知れぬものがありそうだった。
薬師寺さんは、鏡華さんとわたしが空き家にいるのを見て驚き、すぐに房子さまに報告した。そこで房子さまは俄然興味を抱き、運転手に命じて林家のお車を追跡することにしたのだそうだ。
つまりあの日、わたしたちは房子さまと薬師寺さんに、ずっと尾行されていたことになるのである。
わたしはずいぶん驚いたのだけれど、鏡華さんは頷きながら聞いていた。おそらく、夏子さんは尾行されていることに気づいていただろうし、夏子さんなら、見ればすぐ小野寺家のお車だとわかったはずだ。だから鏡華さんは、とっくにご存知だったのだろう。
ただ、夏子さんも鏡華さんも、まさか房子さまがフートボールを手に空き家の中に乗り込んでくるとは夢にも思わなかったのだ。
房子さまのお人柄を見誤っていたのは、どうやらわたしだけではなかったらしい。
「他に何かお聞きになりたいことはあって?」
わたしたちが首を横に振るのを確かめると、房子さまはすくっと立ち上がった。片手を鏡華さんの前に差し出す。
「わたしたち、正々堂々戦うと誓いましょう」
鏡華さんが、その手をしっかりと握り返す。
「望むところです」
そう答えて、鏡華さんは