第12話 わが麗しのフォルモサ
文字数 2,623文字
「ごめんなさいね、こず枝さん。なんだかさんざんな目に遭 わせてしまって」
「ううん。今日はとっても楽しかったわ。可愛いお友だちもできたし」
芝生に押し倒され、荒い息が顔にかかった時、これで自分の短い人生は終わるのだと思った。
ところが――
湿ったやわらかいものが、ぺろぺろとわたしの顔を撫で回す。こ、これって?
毛はビロードのように光沢のある黒一色。ぴんと立った耳。しかも、柴犬のそれよりずっと大きくて長く、ちょうど「八」の字を逆さにしたように頭から突き出ている。
熊かと思ったのは、鏡華さんの愛犬だったのだ。
あのかっこいい運転手の方 は、車を駐車場に戻した後、犬の散歩に行っていたのだそうだ。そして帰ってきたとたん、犬は庭にお嬢さま(と不審者?)がいるのに気づき、制止も聞かずに飛んで行ってしまったのだと言う。
身体が大きいとは言っても、落ち着いて見ればもちろん熊ほどじゃなかった。恐怖によって眼に映る大きさがだいぶ狂っていたらしい。眼はまん丸ではなく、眼尻が少し釣り上がっている。
鏡華さんから、こういう眼の形は〈杏仁 型〉と言うのだと教えてもらった。〈杏仁〉というのはアーモンドのことだ。確かに、漆黒 のアーモンドをちょっと斜めにして嵌 め込んだような眼をしている。
『じゃあ、鏡華さんの眼も杏仁型と言うの?』
と訊くと、
『女性の眼の場合はね、〈鳳眼 〉っていう言葉があるの。でも、〈鳳凰 の眼〉なんて大袈裟よね』
いつもきびきびと話す鏡華さんが、珍しく頬を紅くしたのが、ひどく可愛かった。
ううん、全然大袈裟じゃない。わたしの大好きな鏡華さんのお眼。
『ねえ、この犬、名前は何て言うの?』
『シャオ・ヘイ』
鏡華さんは涼しい顔で答えた。
『シャオ・ヘイ? どんな字を書くの?』
鏡華さんはわたしの掌 に指で書いてくれた。
小黒。
え?
『小 っていうのは一種の愛称なの。だから日本語の感覚で言えば、さしづめ〈黒 ちゃん〉ってところね』
黒、ちゃん?
いやあ、そのネーミング・センスはいかがなものでしょうか。
『あら、台湾の犬の名前って、だいたいこんな風なのよ。小黒 、小白 、小黄 とか――』
黒ちゃん、白ちゃん、黄色ちゃんですか。
まあ、そりゃあ日本でも、犬の名前でクロとかシロとかいうのは、けっこうありふれているかもしれない。でも……。
漱石先生は、『吾輩は猫である』なんて書いているわりに御本人は犬好きで、猫には名前すらつけなかったくせに、犬には〈ヘクトー〉なんてすごい名前をつけていたことが、この間読んだ『硝子戸 の中 』に書いてあった。〈ヘクトー〉というのは、トロイ戦争の勇者として知られるトロイの王子の名前だ。
さすがにそこまでかっこよくなくてもいいのだけれど、こんな立派な洋館の、芝生の青々としたお庭を駆けまわって美しいお嬢さまと戯 れる犬の名前としては、もう少し洒落 た感じのものであってほしかった気がする。
フートボールの練習は今日はここまでということになって、後はシャオ・ヘイとボールの追いかけっこをして遊んだ。
ちょっと見た感じでは、尖って突き出た耳が悪魔の化身みたいに恐ろしげだが、実は女の子で、しかもよく見ると漆黒の眼にはやさしい光が湛 えられていた。わたしたちはすぐお友だちになった。
そして今は皆食堂で、おやつをいただいているというわけ。
おやつは、〈豆花 〉だった。
台湾の伝統的な食べ物で、豆乳をゼリー状にしたものだと鏡華さんが教えてくれた。
深いお皿に入れられた〈豆花〉に甘い生姜 の汁がたっぷりかかり、更に茹 でた小豆 や落花生 がのっている。
もちろん、食べたのは初めて。スプーンで掬 って慎重に口に運ぶ。冷たい豆花はすべすべして絹 みたい。ふわっとやさしい甘さが舌の上いっぱいに広がって、わたしは思わずうっとりと眼を閉じた。
「美味 しい」
溜息を吐 くように言うと、鏡華さんは嬉しそうに笑って、
「よかったわ、お気に召して。まだたくさんあるからお代わりしてね」
食いしん坊と思われたくないから遠慮するつもりだったのに、結局甘い誘惑には勝てず、図々しくお代わりしてしまった。
わたしの傍らには、今日できた新しいお友だちがお行儀よく座っている。
「だめよ。シャオ・ヘイ」
鏡華さんは
「食べるの? 豆花」
「大好物なの」
「ちょっとあげてもいい?」
「いいわ。でも、本当にちょっとだけにしておいてね。最近太り気味なの」
わたしが豆花を少し掌 にのせて、「はい」と鼻先に近づけると、シャオ・ヘイはぺろりと食べた。勢いが良すぎて鼻の頭に豆花の滓 がついてしまったので、とってあげようと思ったら、するっと舌が伸びて鼻の頭を包むように嘗 めとってしまった。
身体が黒一色だから余計にそう見えるのか、シャオ・ヘイの舌は桃の花びらみたいに鮮やかできれいだった。
もっと欲しそうに、潤んだ眼でじっとわたしを見上げる。
「もっとあげたいけど、太っちゃうんだって。がまんしなきゃ」
女の子だもんね。
頭よりもお腹の方が喜ぶと鏡華さんが言うので、お腹を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めて、甘えるように大きな身体をわたしの方へ擦 り寄せてくる。ああもう、可愛い!
「これは、台湾の犬なのよね?」
「そう、わたしたちは〈フォルモサ犬〉って呼んでいるわ」
「フォルモサ?」
「フォルモサっていうのはポルトガル語でね、大航海時代の16世紀に欧羅巴 に広まった台湾の美名なの。元々の意味は〈麗 し〉。航行中のポルトガル船の航海士が、望見した台湾のあまりの美しさに思わず『フォルモサ!』と叫んだからだと言われているわ」
「フォルモサ! 素敵ねえ。わたしも行ってみたいなあ」
「じゃあ、夏休み、わたしが帰省する時、こず枝さんも一緒に行かないこと?」
「ほ、本当?! 鏡華さん、それ本気で仰ってるの?」
「もちろんよ。こず枝さんなら、大歓迎だわ。わが麗しのフォルモサへようこそ!」
鏡華さんがふざけて、最後の部分を何かの口上 みたいに抑揚 をつけて言ったので、わたしは思わず噴き出した。
「約束よ、指切りげんまんよ。うわあ、夢みたい」
台湾。ポルトガル人がフォルモサと呼んだ島。いったい、どれほど美しいところなのだろう。
「ところで、こず枝さん」
鏡華さんが、ちょっと改まった口調になって言った。「あなた、二年生の柏 木 さんてご存知?」
意外な名前が、鏡華さんの唇から零 れ落ちた。
「ううん。今日はとっても楽しかったわ。可愛いお友だちもできたし」
芝生に押し倒され、荒い息が顔にかかった時、これで自分の短い人生は終わるのだと思った。
ところが――
湿ったやわらかいものが、ぺろぺろとわたしの顔を撫で回す。こ、これって?
毛はビロードのように光沢のある黒一色。ぴんと立った耳。しかも、柴犬のそれよりずっと大きくて長く、ちょうど「八」の字を逆さにしたように頭から突き出ている。
熊かと思ったのは、鏡華さんの愛犬だったのだ。
あのかっこいい運転手の
身体が大きいとは言っても、落ち着いて見ればもちろん熊ほどじゃなかった。恐怖によって眼に映る大きさがだいぶ狂っていたらしい。眼はまん丸ではなく、眼尻が少し釣り上がっている。
鏡華さんから、こういう眼の形は〈
『じゃあ、鏡華さんの眼も杏仁型と言うの?』
と訊くと、
『女性の眼の場合はね、〈
いつもきびきびと話す鏡華さんが、珍しく頬を紅くしたのが、ひどく可愛かった。
ううん、全然大袈裟じゃない。わたしの大好きな鏡華さんのお眼。
『ねえ、この犬、名前は何て言うの?』
『シャオ・ヘイ』
鏡華さんは涼しい顔で答えた。
『シャオ・ヘイ? どんな字を書くの?』
鏡華さんはわたしの
小黒。
え?
『
黒、ちゃん?
いやあ、そのネーミング・センスはいかがなものでしょうか。
『あら、台湾の犬の名前って、だいたいこんな風なのよ。
黒ちゃん、白ちゃん、黄色ちゃんですか。
まあ、そりゃあ日本でも、犬の名前でクロとかシロとかいうのは、けっこうありふれているかもしれない。でも……。
漱石先生は、『吾輩は猫である』なんて書いているわりに御本人は犬好きで、猫には名前すらつけなかったくせに、犬には〈ヘクトー〉なんてすごい名前をつけていたことが、この間読んだ『
さすがにそこまでかっこよくなくてもいいのだけれど、こんな立派な洋館の、芝生の青々としたお庭を駆けまわって美しいお嬢さまと
フートボールの練習は今日はここまでということになって、後はシャオ・ヘイとボールの追いかけっこをして遊んだ。
ちょっと見た感じでは、尖って突き出た耳が悪魔の化身みたいに恐ろしげだが、実は女の子で、しかもよく見ると漆黒の眼にはやさしい光が
そして今は皆食堂で、おやつをいただいているというわけ。
おやつは、〈
台湾の伝統的な食べ物で、豆乳をゼリー状にしたものだと鏡華さんが教えてくれた。
深いお皿に入れられた〈豆花〉に甘い
もちろん、食べたのは初めて。スプーンで
「
溜息を
「よかったわ、お気に召して。まだたくさんあるからお代わりしてね」
食いしん坊と思われたくないから遠慮するつもりだったのに、結局甘い誘惑には勝てず、図々しくお代わりしてしまった。
わたしの傍らには、今日できた新しいお友だちがお行儀よく座っている。
「だめよ。シャオ・ヘイ」
鏡華さんは
彼女
をやさしく睨んだ。「またお客さんからおやつをもらおうとして」「食べるの? 豆花」
「大好物なの」
「ちょっとあげてもいい?」
「いいわ。でも、本当にちょっとだけにしておいてね。最近太り気味なの」
わたしが豆花を少し
身体が黒一色だから余計にそう見えるのか、シャオ・ヘイの舌は桃の花びらみたいに鮮やかできれいだった。
もっと欲しそうに、潤んだ眼でじっとわたしを見上げる。
「もっとあげたいけど、太っちゃうんだって。がまんしなきゃ」
女の子だもんね。
頭よりもお腹の方が喜ぶと鏡華さんが言うので、お腹を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めて、甘えるように大きな身体をわたしの方へ
「これは、台湾の犬なのよね?」
「そう、わたしたちは〈フォルモサ犬〉って呼んでいるわ」
「フォルモサ?」
「フォルモサっていうのはポルトガル語でね、大航海時代の16世紀に
「フォルモサ! 素敵ねえ。わたしも行ってみたいなあ」
「じゃあ、夏休み、わたしが帰省する時、こず枝さんも一緒に行かないこと?」
「ほ、本当?! 鏡華さん、それ本気で仰ってるの?」
「もちろんよ。こず枝さんなら、大歓迎だわ。わが麗しのフォルモサへようこそ!」
鏡華さんがふざけて、最後の部分を何かの
「約束よ、指切りげんまんよ。うわあ、夢みたい」
台湾。ポルトガル人がフォルモサと呼んだ島。いったい、どれほど美しいところなのだろう。
「ところで、こず枝さん」
鏡華さんが、ちょっと改まった口調になって言った。「あなた、二年生の
意外な名前が、鏡華さんの唇から