炎 Ⅳ

文字数 2,662文字

 マグナス軍の行軍はゆったりとしたものだった。大将であるベルマーは余裕たっぷりで、斥候を放ちはするものの、積極的な情報収集はしなかった。
「ローエンドルフ軍が侵攻したといっても、我が領内の砦を簡単に抜けるはずはあるまい。兵こそ少ないが、砦そのものの防備は年々強化されている。ローエンドルフ軍は魔法戦術が得意というが、砦はその辺りの守りにも抜かりはない」
「まったく、ボードワン殿のおっしゃる通りでございます」
 力説するベルマーに対して、ようやく酒が抜けてきたピスコが、適当な相槌を打つ。ピスコはいちおう副将のような立ち位置だが、特に何か献策を述べようという気がないようだった。
 二人のやりとりが耳に入ってきたガウェインは、あからさまなため息をついた。それは呆れと失望が混じったものだった。ヘイムダル傭兵団にいた頃は違ったからだ。ゲッツとリブロは進軍中も意見を交換していたし、斥候も四方八方に放ち、尚且つ敵地に潜入させている密偵からの報告も受けていた。総合的な情報を分析し、戦いに臨んでいたのだ。それに比べて、ベルマーとピスコの両名は、負けるはずがない、という根拠のない自信を持ってゆったりと進んでいる。もはやこの戦いの帰趨がガウェインには見えていた。
「トラントの平原を抜ければ、イルマ砦だ。あそこを守っているのは私の直属の部下だったゲイリーだ。気骨もあるし、戦の腕もある。簡単には抜かれんよ」
 ベルマーが口もとでにやりと笑う。感服したとでも言うように、ピスコが芝居がかった拍手をする。トラント平原は街道が入り組んでいる地形で、軍が通行するのにうってつけである。ただ街道を岩場が隔てている箇所もあり、進むには注意が必要だった。
 しばらくすると、ベルマーが出した斥候が戻ってきた。その顔面は何やら血の気が引けている。
「ボードワン将軍、ローエンドルフ軍の攻撃を受けているであろうイルマ砦を偵察致しましたが、ローエンドルフ軍の姿がありませんでした」
「なにぃ。まだ到着していないというのか?」
 想定外の報告を受けて、ベルマーも眉を釣り上げた。
「おそらく途中で悠々と昼飯でも喰らっているのでしょう。まったく、呑気な奴らです」
 両手を広げたピスコが、肩をすくめて笑った。しかし、斥候兵は緊張した面持ちを崩さない。
「それが…。ローエンドルフ軍だけではなく、イルマ砦を守る我が軍の守兵も、忽然と消えているのです」
「なんだと⁉」
 ベルマーが白眼を剥いて語気を強めた。斥候兵の肩がぴくりと震えている。
「ゲイリーには千五百の兵が与えられていたはずだ。奴の直属部隊五百と合わせて、兵力は二千。それが人影すらないと申すのか⁉」
「城塔にも守兵の姿はなく、門の付近に小隊もおりませんでした」
 少し考えるような顔をしたベルマーだが、すぐに別の伝令を二騎呼びつけた。
「もう一度確認するのだ。本当に兵がひとりもいないか、お前たちで確認せよ」
 ベルマーに檄を飛ばされた三騎が、慌てて駆け出した。ベルマーは進軍を停止させ、斥候の報告を待つことにしたようだ。
「一体、何事でしょうな。守兵も昼寝でしょうか」
 この期に及んでピスコは呑気な冗談を述べている。さすがにベルマーが睨み付けると、ピスコも表情を取り繕って背筋を伸ばした。
「私の考えでは、ローエンドルフ軍は攻撃の真っ最中。そこをゲイリーと呼応して、挟撃で破るつもりだったが…。ローエンドルフ軍だけでなく、守兵の姿もないとはどういうことだ」
 ベルマーが独り言を呟く。このような時こそ副将の助言が必要だが、沈黙が吉と思い定めたピスコは、真顔で微動だにしない。
 斥候が戻り、守兵の姿がないと再確認された。ベルマーは軍をイルマ砦に進めた。イルマ砦は静寂に包まれ、マグナス軍の旗がはためく音だけが響いていた。ベルマーは先頭の兵に入城を命じた。
 ガウェインは全身に悪寒が走るのを感じた。イルマ砦から伝わる、不気味な何か。それがガウェインの肌を撫でていた。
「どうしたの、ガウェイン?」
 ガウェインの様子がおかしいことを察したパランデュースが、顔を覗き込んでくる。意を決したガウェインは、ピスコの副官に馬を寄せた。
「あの砦に入るのは危険です。きっと、罠があります」
 ガウェインの忠告に、副官は首を傾げた。
「罠、といってもな。どのような罠だ。第一、ローエンドルフ軍の姿すら見えていないのだぞ。それならば砦に入り、守りを固めたほうがよいだろう」
「ローエンドルフ軍の姿も見えない、とおっしゃいましたか。ローエンドルフ軍の動き、逐一報告を受けておりましたか。どのような陣容で、どのような行程を進んだかわかっているのですか。恐れながらそのような情報はこれまでひとつとして耳にしておりません。ここにローエンドルフ軍が来ていないという考えが、浅はかなのではないでしょうか?」
 ガウェインの意見に副官が考え込んだその時、だった。突如イルマ砦から火の手が上がったのだ。次の瞬間、弓兵が城壁から出現し、マグナス軍に向かって一斉に矢を放った。どこに潜んでいたのかと、驚くほどの数だった。
「くっ、罠か⁉ 手の込んだ真似を。全軍、退け‼」
 砦から悲鳴があがる。すでに砦の中に入った部隊は、潰滅しているようだ。軍を反転させている間にも、城壁から矢が届く。
「ガウェイン」
 喧騒の中、パランデュースがガウェインを呼ぶ。
「駆けろ、パランデュース。騎兵に踏み潰されるなよ」
「そ、そんなぁ」
 弱気な声を出すパランデュースだったが、脚は意外と速く、しっかりと駆けていた。ガウェインは自分の部隊の指揮もある。パランデュースだけに気を配る訳にもいかなかった。
(ローエンドルフ軍はあらかじめ、この砦の守将を調略していたんだ。そして砦からすべての兵を退かせて、マグナス軍を誘引。砦に火を放って先鋒を潰滅させた。となると、次の一手は…)
 退却するマグナス軍の隊列は乱れていた。まとまって進んでいるのは、ガウェインの小隊と、ベルマーの部隊だけである。他は我先にと街道を駆けている。
 馬蹄。不意に風に乗って響く。脇道の街道から騎馬隊が駆けてくる。
「ローエンドルフ軍、ローエンドルフ軍だあー‼」
 ひとりの兵が叫び声をあげる。ベルマーが陣形を組むように命令を出すも、すでに混乱は収拾がつかない。日頃の教練や統率を疎かにしている証拠である。
 騎馬隊の先頭。紅い馬・ヴァーミリオンを駆り、特製のグレイブ・フラガラッハを構えるのは、ローエンドルフ軍五英大将のひとり、ガラハッド・ローゼンベルクだった。

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