春の花 Ⅳ

文字数 2,679文字

 ガウェインがエレインに助けられてから、およそ三週間が経過した。治療のため安静にしていたガウェインだったが、体の状態は快方に向かっていた。
 三週間、ガウェインは寝台で横になっていたが、その間でわかったことがあった。ここが目指していたルウェーズ州国だということ。自分を助けてくれたエレインが、高貴な身分にあること。そして、ここには戦いの気配がないこと。
 立ち上がっても体に痛みがないことを確認したガウェインは、外に出てみようという気分になった。住み心地の良い部屋であったが、じっとしているのは性に合わない。体が鈍っているので、動かしたいという気持ちが強かった。
 朝食を終えた後の館は静かであった。ガウェインは隣の部屋に待機している侍女に声を掛けた。赤い眼の侍女はデルーニ族であった。この侍女だけではない。館で働いている者の大半が、デルーニ族であった。そのデルーニ族を憎み、殺し合いをしていたという事実に、ガウェインは後ろめたさを覚えていた。
 事情を知った侍女が、先導して館の中を歩いて行く。ガウェインは侍女の後を追いながら、館の中を見回した。白く洗練された壁に、青い廊下。どこかの神殿と言われても納得してしまう造りであった。
 正面玄関から外へ出る。空から降り注ぐ陽光が、ガウェインを出迎えた。大きく深呼吸をしたガウェインは、思いきり体を伸ばした。
「久しぶりの外の空気はどうかしら?」
 ガウェインに声を掛けたのは、エレインの警護を務めているイグレーヌ・オズワルド・ローレライだった。
「イグレーヌさん、やっと動けるようになりました。本当にありがとうございます」
 床に伏せている間、エレインについてきたイグレーヌとも面識を持っていた。イグレーヌがデルーニ族の戦士であるということはすぐにわかったが、それにしては人間に対して敵愾心を持っていないのが、ガウェインとしては意外であった。
「あら、お礼なら私じゃなくて、エレイン様に言うといいわ。ガウェイン君の治療のために、わざわざ市場から薬草を買ってきたりしていたのだもの」
 ガウェインは少し頬を赤くした。あまりにも初心な反応に、イグレーヌが思わず吹き出していた。
「エレインは、何処にいるんですか?」
 イグレーヌが指を差した方角には、雄大に水を湛えたユーレン湖が見えた。まさかひとりで湖に出かけたのかと思ったが、すぐにイグレーヌが種明かしをする。
「そこの階段を下りた先は、庭園になっているの。エレイン様が草花を育てている場所ね」
 つまりそこで草花の手入れをしているということだった。邪魔にならないかとガウェインは逡巡したが、イグレーヌが先立って歩きはじめた。
「行きましょうか」
「あ、はい!」
 イグレーヌと共に階段を下りたガウェインは、一面に広がる花畑を眼にして、思わず感嘆の声を上げた。
「すごい。これを全部ひとりで?」
 すると、イグレーヌが小さく笑った。
「さすがにエレイン様おひとりで管理するのは難しいから、侍女や私たちも手伝っているわ。でも、季節ごとに何の花を植えるか、どこに植えるか、水が一日どれくらい与えるか、それをすべて指揮しているのはエレイン様ね」
「それでもすごいです。俺も畑を持っていたからわかります」
 花畑の中で、動く姿があった。しゃがんだり立ち上がったりするその様は、どこか兎のように見えて、ガウェインは自然と笑みになっていた。
 ガウェインとイグレーヌの存在に気づいたエレインが、大きく手を振った。それに応えたガウェインの背中に、イグレーヌの手が添えられた。
 ガウェインはイグレーヌの顔を見る。すると、イグレーヌが小さく頷いた。
「この庭園の出入口は、この階段だけです。私はここにいます」
 二人の時間を邪魔しない、というイグレーヌの意思表示だった。その気遣いが、ガウェインにとっては嬉しかった。
 駆け出したガウェインは、エレインのもとへ駆けて寄った。作業しやすいように、エレインは麻の服を身に付けていた。
「もう大丈夫なの?」
 エレインがガウェインの顔を覗き込む。思ったより近い距離間に、ガウェインはまた顔を赤くした。それに気づいたのか、エレインが慌てて後ずさりをする。
「…すごいね、ここは。これがエレインの庭園」
 改めてガウェインは、庭園を見回した。花だけではなく、根菜も育てているようだった。感心しきりのガウェインに対して、エレインが照れくさそうにしていた。
「私の、秘密の場所。秘密って言っても、みんな知っているけど」
 ガウェインとエレインが顔を見合わせる。どちらともなく、笑い出す。風が二人の笑い声をさらい、湖の方へ流れていく。
「ここの景色、綺麗でしょう?」
 エレインがユーレン湖へと眼を転じる。花が咲き誇り、優しい風がガウェインとエレインを包む。懐かしい匂いが鼻をつき、ガウェインの瞳から、一筋の涙が流れた。
 それに気づいているも、エレインは何も言わなかった。涙を拭ったガウェインは、ぽつり、ぽつりと、自分の身に起こった出来事を話し始めた。エレインがじっと聞き入ってくれていることが、ガウェインは嬉しかった。
 話を聞き終えた後も、エレインの視線はユーレン湖に向いていた。
「…自分が死ぬべきだったなんて、それは間違っていると思う」
 それは、はっきりとした意志だった。その時ガウェインは、エレインの奥底にある、芯の強さを見た。可憐なだけではない。風雨にさらされても咲き続ける、誇り高き一輪の花。そんな強さが、エレインの中には確かにあった。
「だって、世界はこんなにも綺麗なんだから」
 エレインがガウェインを見る。その優しき微笑みに、ガウェインは釘付けになった。
「明日が見えなくて辛くても、苦しくても、いつかきっと、視界が開ける。綺麗な世界が見えてくる。だから絶望しない。私はそう信じているから。だからね、ガウェインも絶望しないでほしい。生きなきゃ、駄目だよ」
 ガウェインの胸の中心に、エレインが掌を当てる。法力治療でもない。魔法でもない。それでも、ガウェインはたしかに、自分の体に力が満ちていくのを感じていた。
「約束だからね。絶望しないって、絶対に、生きるって」
 また、眼から涙が伝うのを、ガウェインは感じていた。もう、エレインの前で涙を流すことを、恥ずかしいとは思わなくなっているのが不思議だった。
「ありがとう、エレイン。俺、何があっても生きるよ」
 エレインがゆっくりと頷いた。
 心に刻まれた傷痕が癒えていく。苦痛に苛まれていた世界から解放されたガウェインは、澄み渡る空のように、晴れやかな表情になっていた。
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