近世哲学後半概論 デカルトからヒュームまで
文字数 5,209文字
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今日のテーマは、「外伝:叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼」の5章カルト教団集団自殺事件にあわせて『近世哲学後半』の話を雑にしてみます。5章で本当は3本書きたかったのだけど、ちょっとバタバタしててすいません。もしもう1本いれるとしたらなんだったんだろ。宗教法人の税制優遇とか? 誰得だな……。
ええと、家の話をちょっとするけど、5章は宗教なのに宗教じゃないというネタが単独のネタで、それとは別に家の呪いの強固性と、あと呪い自体が何を目的としているのか、というのの薄っすら示唆をしたかったんだ。だからデカルトの話をしたかったわけじゃなくて、もともと鳩の話は鳥葬的なバイアスを5章と6章の間に置く予定でそれを5章に合体させてしまったから、一捻りなんかあるかねと思ってデカルトで松果体という自分でも意味がわからねぇという流れを創出してしまった。
あの、Tempp自身も教団の理屈は意味わかんねぇと思ってますので、読者様がそう思われても当然だと思っているところです。
この時点で、お前最初といってることが違うんじゃないか? と思うんだけど、自分の本にも『論理的にはおかしい気がするけどそれが事実なんでは』という結論的にはじゃあ神はどこいったんだよっていう話が展開される。家の話とデカルトの積み残しは以上だ。
ここは医学の発展の違いというのかな、当時は松果体は脳の1番奥深くにあるから重要な器官だと思われてたんだよ。それに脳っていうのは基本的に左脳と右脳に別れてるんだけど、松果体は唯一別れていない器官だと思われていたんだ。まあ顕微鏡でみると別れてるんだけどね。そんなわけで、なにか神秘的だなと思われていた。
スピノザはデカルトの心身二元論、つまり精神と肉体が別々だという考えに反対した。簡単に言うと、精神と肉体は連動していて、それだけじゃなくて世界のすべてが1つの存在で、その全てが神だというものだ。汎神論とか一元論ともいう。もともと請園恭生は家に住む前はこの考えだったんだよな。それでたまたまデカルトの本を第三者機関の男に手渡され、フラウによって捻じ曲げられたわけで。そう考えると少し可愛そうなような。ってお前が書いたんだろっていうのはスルーする。
一方スピノザのいう神というのは全て。デカルトがわけた人の精神も肉体も全て神、ようするに神というものに独立した神性とか人格というのを認めない。他とわけて信仰すべき神ってものがいないっていうことだから、これは当時のキリスト教としては異端で無神論者だと散々叩かれた。
でも後世の『神は死んだ』っていうニーチェとか情報性を重視するカントに影響を与えた。
でもそうだな、ちょっと話は違うんだけど、ライプニッツという人がいる。スピノザの少し後の人で、多元論の人と言われている。保険会社とかだと「ライプニッツ係数」というので有名なライプニッツさん。17世紀の人っていうのを知った時は思ったより古くてちょっとびっくりした。ライプニッツさんは多彩でな、二進法を作って計算機とかも作ってるんだ。
さてそのライプニッツさんは哲学においては『モナトロジー』という考え方をした。ようは世界は神が作った『モナド』という小さい単位(原子みたいなもの)からできている。神がそれにプログラムを施し、世界にばらまくと、そのプログラムに基づき世界は予定調和的に最良のバランスを取るというものだ。これは予定調和説という全てが神が決め給うた論。
物凄くシステマティックで、なんか哲学というよりは物理学の話に似ているような気がする。量子力学は神の世界に足を突っ込んでるし、親和性はありそうな。
のこの考え方は基本的に人間というのは初めから理性というものをもっていて、その理性によって世界を理解し、理解しうる能力をもっていると考えられている。だからまあデカルトとかは感覚とかは最初に備わる理性と違うから排除する方向で考えるんだ。
これとは違う考え方があって、それはイギリス経験論と呼ばれる。これのスタート地点は一切の白紙。生まれた時は何もなくて、経験に寄って知識や理性を供えていくという考え方だな。
この論争はカントが登場するまでは続くけど、スタート地点をどこにもってくるかというのは結構問題だった。
結構思考方法に違いが出るんだよ。経験論は白紙のところから積み上げるから帰納法的な考え方に親和性がある。経験という事実を積み上げていって事象を読み解くんだ。事実から共通点をさがすというか。でもこの方法は複数の事実を検討することから始めるから時間がかかるし結構面倒。
合理論はもともと最初に理性というのがあり、そこから事象を読み解いていくから演繹法に近いのかもしれない。でもこの方法だと最初の方で躓くと間違いは取り除けなくて最終的にわけのわからないものになってしまう恐れがある。デカルトは感覚とか不確かなものを切り捨てていって、最初に見つけた理性をベースにした。ここまでは現在でも価値のある考えだけど、そっから神を指定してトップダウンで世界を組み立てた。神が混ざったからあとは結構ぐだぐだになった。
ってことで経験論の話をする。中世で最初に有名なのはベーコンかな。経験論の考え方の走りだ。
『知は力なり』っていう言葉で有名だけど、五感という入力媒体をもとに経験によって正しい知識を得ることが大切っていう考え方。でもそのための邪魔者がイドラ。これは先入観とかだけど、知識を獲得するために4つのイドラが立ちふさがる。なんとなくRPGっぽいし、古代哲学っぽい考え方な気がする。
そのイドラは①種族のイドラ(錯覚とか感覚の誤謬によるもの)、②洞窟のイドラ(環境とか国の方針、親の方針とかによる偏見)、③市場のイドラ(人が集まることによる噂とか)、④劇場のイドラ(偉い人が話している言葉)という4つがあってそれが邪魔してるっていうんだな。
そっからジョン・ロックに続く。統治二論とか政治論のほうが有名なんだけど、この人はお医者さんだったんだよ。デカルトの理論だと人間は生まれながらに神性を持ち合わせていることになるんだが、ロック的には赤ちゃんを見て、神? どこが? って思うわけなんだ。そこで人間というのは白紙で生まれてそこに経験によって知識を書き込んでいく、という機序を見出した。まあ、経験論だ。
ロックは五感が得るふかふか、とかいい匂いとかの『単純概念』と、これを複合してケーキだなと認識するような『複合概念』というのがあると考えた。で、この考え方っていうのは①何かの物がある、から②人間が何かを五感を近くするというプロセスがある、と考えた。まあ当然といえば当然。
で、これの逆を言ったのがバークリーという人だ。
バークリーは②人間が何かを認識する、から①物がある、と考えた。ええと、なんていうか、概念というか、主観を個人主体にもってきたのかな。物体は五感で知覚できるから、その人の意識で存在できるという考え方。
じゃあ人が見てない時は存在しないのかっていう話になってしまうんだけど、そこは世界は『神』が常に全てを知覚しているので、物は常に存在する、という考えでクリアする。
結局この話がどういう結論になるかというと、たとえば2人が同じリンゴを見たとしても、それぞれが知覚したリンゴはそれぞれの内側で再現されるからそれが異なる可能性があること。
ようするに個々人の精神の中では同じものが異なってしまう可能性がある。この発想は当時としては衝撃的だった。なんつか自分には量子力学の話にみえるんだけどまあそれはおいといて。
で、世界も同じように知覚して認識して存在している。で、こういった認識、観念の束が実体で近くする精神がある。その原因は神。ここでまた神をぶっこんでくるのはバークリーが主教さんだったからなんだけどな。デカルトも数学を成立させるために神をぶっこんだけど、神をぶっこみはじめるとよくわからなくなるな。
もう一つバークリーがデカルトに似てるなと思うところは、その『知覚する人間自体』については存在すると考えた。我知覚するゆえに我あり?
ヒュームは『人間なんていない』。結局バークリーは人間は認識とか観念の束を取得していると考えた。ヒュームはもう一つ進めて、取得するべき人間は存在しなくて、その『束』しかないと考える。人間は知覚の束。
物凄い数のふかふかとか甘いとか眠いとかそういった知覚の束をぎゅっとまとめたものを『自分』と認識しているだけで、『私』という実体は存在しない。『私』すら知覚にすぎない、という考え方。
これは結構な衝撃だ。デカルトの『全部を疑う私はいる』というのも破壊した。
ヒュームはデカルトと合わせて懐疑論的な方面でも有名だけど、結構面白い。なんていうのかな、たとえばデカルトは原因と結果があれば繋がり(因果関係)はあっさり認めている。トップダウン方式。でもヒュームはその因果関係自体が本当に成立しうるの? っていうところを疑う。結局心理的な習慣に過ぎないんじゃないの、っていう。でもそれを実証はできない。