パターナリズムとリバタリアンの迎合
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今日のテーマは、「第五章 俺の日常と梅雨の幽霊」の9話にあわせて『パターナリズムとリバタリアン』についてちょっとかきます。厳密には7話だけど。
さて、これはそもそもどういう話題なのだろう?
そうだなぁ、パターナリズムからいこうか。簡単にいうと、被保護者に対して保護者がかける制限だ。全然簡単じゃないな。ようするに親が子どもにエロい画像を見れないように設定するとか、相手に対して本来自由に行動できるところを制限する行為一般だ。
用語として出てくるのは19世紀くらいから使われるようになったけど、議論を呼び出したのは法哲学の分野だと思う。
いまずれかかってるのはギャンブルとか麻薬の使用とかだけど、この項の主眼は政治問題ではないので、それが規制されるべきかどうかという問題はスルーします。
まあ、この辺の理屈も納得できなくもないかもしれない。
で、そんなパターナリズムで日本でガチバトルしたところが表現の自由だ。
でも、日本ではエロい本を普通に売っちゃだめだよっていう法律があって、これが憲法に定められた表現の自由を侵害するっていう争いがある。
古くはローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」、マルキドサドの「悪徳の栄え」、永井荷風の「四畳半襖の下張」あたりで確立された「わいせつ」はなにかとかいう判例をもとに、その後大島渚の「愛のコリーダ」とか映像作品に波及して、最近ではろくでなし子のデコまんとかが問題になってる。
特にメープルソープ事件なんかは面白い。メープルソープさんの写真集が「わいせつ図画」にあたるかどうかという話なんだが、これ実は日本で売ってた写真集をアメリカにもっていって、持って帰った時に成田の税関で捕まった事件なんだよ。日本では普通に売ってる。法律によって文言の解釈が違いうるから、このへんは面白いな。でもこの税関の理論は簡単に言うと「性器がうつった写真を自由に日本にいれてたら治安が乱れる」だが、これだと医学書が全部輸入禁止にならんかと思うんだが。まあ実際は芸術性の争いになってた。
さて、これらの話の判断基準について話を展開するとやたら長くなるので今回はスルーする。それでこれらは芸術性とわいせつ性が殴り合った事件だが、そもそもなぜこれが問題になるかというと青少年の健全な育成にわいせつはよろしくないというパターナリズムに端を発している。
エロい? 話はここまで。
唐突に話が飛ぶが、自由は大事だ! というのは案外最近の認識だ。ようやくリバタリアンの話にうつる。のまえにリベラリズムの話をしよう。リベラリズムというのは自由主義といわれている奴だ。今ではいろいろな意味合いで自由主義という言葉が語られるが、そもそもは絶対君主制に対して個々人の自由を唱え、議会制民主主義と法の支配を求めた。17世紀から始まる市民による革命の歴史だ。革命政権がよって立つために、人間と言うのはそもそも自由で、王や貴族なんかに縛られることはないと主張する。もともとの自由の範囲は結構狭いんだけどね。
さて、法哲学をかじった人はが最初につまずくのが、リベラリズムとリバタリアニズムは何が違うのっていうところ。
一応これから書くのは一般的な話で、結構考え方は国と時代によってかわってくる。ので、必ずしも共通解じゃないことを理解頂きたい。
さて、リベラリズムという考えが発露したのは宗教改革のころだけど、前述の市民革命のときからより強く主張されるようになった。ようは、「個人の自由」というものを最大限に保護しましょうというものだ。さて、問題はその自由っていうのがどこまでかという話だ。人を殺すのも自由? って話を認容するわけにはいかないし、捕まえて他人を自由にするっていう話を容認するわけにはいけない、それは結局捕まった人や殺された人の自由が侵害されるから。
そこでルソーさんは考えた。社会契約論ってやつだ。人間はみんな自由意思をもってそれぞれ独立した存在でしたいことをするのがいいけど、殺人であったり対戦争であったりと生存の障害とかがあればお互い協力しようって。その協力の総体が社会における契約、つまり国家だ。
リベラリズムは自由にさせすぎるのはやばい、ようするにお金持ちが好き勝手もうけて市民とか労働者が割を喰うのはよくないだろうっていう話の流れになる。それでリベラリズムを修正するんだっていって一定の福祉政策をしたり、富の再配分ってのをやったりする。
それに反対する立場としてリバタリアニズムがあって、そういう福祉的な活動は自由の侵害であるという立場をとる。税金はせっかく稼いだ財産権の侵害だ。
と一応書いてみるけど、さっき書いた通り国や時代によって違うので、全く別のことが書いてある場合がある。ほんと、統一して!
リバタリアンパターナリズムという謎の言葉がある。リバタリアンというのは自由を求めるもので、パターナリズムは善意の規制だから本来そぐわないんだけど、これは「個人の自由を権力が阻害しないでより良い結果に誘導する思想」だ。このワードの恐ろしさがわかるだろうか。リベラリズムによるパターナリズムは先ほども述べた通り法律という権力によって自由を規制するものだから少し違う。
一番有名なのはオランダ空港の男性用小便器にコバエのシールを張るとシールに向かって用を足すために汚れが減る。こういう人の選択が解析されて自然に誘導する理論?がナッジだ。身の回りで目につくところでは小売業とかにもよく使われているな。どういうキャッチコピーが集客力があるかとか。
マーケティングとは微妙に違うんだな。マーケティングは企業が自社の利益のために行うものだが、ナッジは特定の企業や事物に捕らわれず広く人の行動パターンを分析して構築されている。
それでナッジは誘導する制度とかシステムとか枠組みをさすが、リバタリアンパターナリズムというと誘導を是とする思想だ。
リバタリアンパターナリズムというのは、誤解を恐れず言うと、基本的には上位者がより良い結果を導き出すために下位者を快適な誘導によって一定の行動を行わせる。快適だから、違和感は感じない。さて、この帰結はどこにいくのだろうか。最終的に良い結果を得る主体は誰なのか。
誘導する、というからには誘導者と非誘導者がいるわけだ。誰かの目的のための無意識の誘導。この誘導がいい方向を向いているならいいが、そうでなくなればどうか。デマゴーグとかなら表面的にも扇動者は目に見える。ただ、これは何も目に見えない。そういう恐ろしさが秘められている、気はする。
そう考えると、この意味のリバタリアンっていうのは何なのかな。リバタリアンっていうのは個人の自由を縛るものは排除する考えじゃないのかな。無意識に誘導されるのは自由なのか? なかなか考えると趣深いな。
ちょっと関係ない話だけど、ヘッドライナーというゲームがある。これはデマゴーグのたぐいではあるのだけど、プレイヤーはノヴィニュースという新聞の編集長になって、世の中にどんなニュースを流すかを選択する。プレイヤーが行うのはこの選択だけだ。
その選択によって社会の形が変わり、未来が変化する。なかなか示唆的で面白かった。
Steamとかswichとか、結構いろんな媒体でたまにセールやってるから、ご興味ある方はぜひ。