パターナリズムとリバタリアンの迎合

文字数 4,902文字

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

今日のテーマは、「第五章 俺の日常と梅雨の幽霊」の9話にあわせて『パターナリズムとリバタリアン』についてちょっとかきます。厳密には7話だけど。


さて、これはそもそもどういう話題なのだろう?

ゴルフっぽいのと脳みそが欲しい奴。
バタリアンって今でも通じるのか……?

そうだなぁ、パターナリズムからいこうか。簡単にいうと、被保護者に対して保護者がかける制限だ。全然簡単じゃないな。ようするに親が子どもにエロい画像を見れないように設定するとか、相手に対して本来自由に行動できるところを制限する行為一般だ。

用語として出てくるのは19世紀くらいから使われるようになったけど、議論を呼び出したのは法哲学の分野だと思う。

法哲学ってなんだ?
意味合い的にはいろいろあるんだけど、近代以降の法律っていうのは天から降ってくるんじゃなくて人間が決めるんだ。日本だと国会だな。で、法律というのはいろいろなものを規制するわけだから、どういうものを規制するのが適切かというのを考える学問が法哲学の古典的な役割の1つかな。法価値論っていって、どういう法が正義に叶うのかとかそういうことを考えるものだ。
最初にパターナリズムに関連して一番問題になったのは売春。売春というのは世界で一番古い職業とかいわれることもあるけど、昔からあるものなんだわ。これを法律で禁止すべきかどうか、という論争が巻き起こる。性病の蔓延というかそういうものも多いが、弱者の女性が売春を強要されることが多いから、簡単に言うと女性を守るために売春が刑罰化されたりするわけだ。でも、まあ好きでやってて仕事にしてる人も極一部いるわけで、そういう人にとっては権利侵害になるんだよ。
ハート=デブリン論争っていうのがあって、これは同性愛と売春を刑法で規制するのは如何なものかっていう論争を法哲学者のハートさんと裁判官のデブリンさんが喧々諤々でやった。中身としては面白いんだけど、ようは道徳ってなんなのか、非道徳行為は刑法で規制されないと社会が滅ぶか、とか、1個の道徳が正しいとなんでいえるんだ、とかそんなことを言い争ったわけだな。なお、ハートさんは結構いろんなところに議論ふっかけてる。
コメントしづらいです……。
まぁ基本的に法律っていうのはルールを決めるものだから、結局は多少不利益を被る人がいても「公共の福祉」とかで決まっちゃうものなんだ。まあみんなが仕方ないよね、と思えば国会で通る。まあ、性風俗を自由にしておくと疫病が流行ったりするからな。実利があって社会の共通認識とずれない場合は問題ない。

いまずれかかってるのはギャンブルとか麻薬の使用とかだけど、この項の主眼は政治問題ではないので、それが規制されるべきかどうかという問題はスルーします。

それでギャンブルの話をすると、理性的な人は適度に遊んで適度に儲かったり損したりするだけだ。でもこういう射幸心をあおるような業態のものは吶喊しちゃう人間が一定程度でるんだよな。だからそういう人のために、国家が国民を大事に思って規制をしておこう、というのがパターナリズムの考えだ。

まあ、この辺の理屈も納得できなくもないかもしれない。

オランダとか麻薬は犯罪じゃないってきいたけど、治安悪かったりするのか?
まあオランダは成人してれば一定の範囲の使用も栽培も違法っちゃ違法だが、問題がなければ罰せられないっていう制度になってる。治安については国の文化とかにもよるし、正直よくわからないな。でも麻薬有無関係なく、日本は他の国より随分治安はいいと思うから、日本と比べるのはナンセンスな気もする。

で、そんなパターナリズムで日本でガチバトルしたところが表現の自由だ。

日本の憲法21条1項では「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」としている。ようは表現は自由にやれ。なんでこんな定めがあるのかっていうと、自分の意見を表明することは自由への一歩として必要だからだ。ここも意味付けに議論はあるが、とりあえずスルー。

でも、日本ではエロい本を普通に売っちゃだめだよっていう法律があって、これが憲法に定められた表現の自由を侵害するっていう争いがある。

古くはローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」、マルキドサドの「悪徳の栄え」、永井荷風の「四畳半襖の下張」あたりで確立された「わいせつ」はなにかとかいう判例をもとに、その後大島渚の「愛のコリーダ」とか映像作品に波及して、最近ではろくでなし子のデコまんとかが問題になってる。

特にメープルソープ事件なんかは面白い。メープルソープさんの写真集が「わいせつ図画」にあたるかどうかという話なんだが、これ実は日本で売ってた写真集をアメリカにもっていって、持って帰った時に成田の税関で捕まった事件なんだよ。日本では普通に売ってる。法律によって文言の解釈が違いうるから、このへんは面白いな。でもこの税関の理論は簡単に言うと「性器がうつった写真を自由に日本にいれてたら治安が乱れる」だが、これだと医学書が全部輸入禁止にならんかと思うんだが。まあ実際は芸術性の争いになってた。


さて、これらの話の判断基準について話を展開するとやたら長くなるので今回はスルーする。それでこれらは芸術性とわいせつ性が殴り合った事件だが、そもそもなぜこれが問題になるかというと青少年の健全な育成にわいせつはよろしくないというパターナリズムに端を発している。

今回はわたしらいちゃだめな回なんじゃないかなぁ?

一応設定としてはまだ高1のはずだと思うんだけど。

エロい? 話はここまで。

唐突に話が飛ぶが、自由は大事だ! というのは案外最近の認識だ。ようやくリバタリアンの話にうつる。

のまえにリベラリズムの話をしよう。リベラリズムというのは自由主義といわれている奴だ。今ではいろいろな意味合いで自由主義という言葉が語られるが、そもそもは絶対君主制に対して個々人の自由を唱え、議会制民主主義と法の支配を求めた。17世紀から始まる市民による革命の歴史だ。革命政権がよって立つために、人間と言うのはそもそも自由で、王や貴族なんかに縛られることはないと主張する。もともとの自由の範囲は結構狭いんだけどね。

さて、法哲学をかじった人はが最初につまずくのが、リベラリズムとリバタリアニズムは何が違うのっていうところ。

ベラとベタ?
妖怪人間っぽいなそれ。

一応これから書くのは一般的な話で、結構考え方は国と時代によってかわってくる。ので、必ずしも共通解じゃないことを理解頂きたい。

さて、リベラリズムという考えが発露したのは宗教改革のころだけど、前述の市民革命のときからより強く主張されるようになった。ようは、「個人の自由」というものを最大限に保護しましょうというものだ。さて、問題はその自由っていうのがどこまでかという話だ。人を殺すのも自由? って話を認容するわけにはいかないし、捕まえて他人を自由にするっていう話を容認するわけにはいけない、それは結局捕まった人や殺された人の自由が侵害されるから。

そこでルソーさんは考えた。社会契約論ってやつだ。人間はみんな自由意思をもってそれぞれ独立した存在でしたいことをするのがいいけど、殺人であったり対戦争であったりと生存の障害とかがあればお互い協力しようって。その協力の総体が社会における契約、つまり国家だ。

んん? なんか難しい話になってきた?
まあ、簡単にいうと、みんなフリーダムになるとマッ★マックスとか北★の拳的世界になるから最低限の決まりを作ろうってこと。それが夜警国家っていう奴だ。夜は警備します的な。でその帰結としては、基本的には個人は好きなようにやるっていう考えがある。で、この辺からリベラリズムがよくわからなくなる。人によって「リベラリズム」っていう内容がバラバラになるんだわ。でもど真ん中の話をすると、経済的な話に傾いていく。

リベラリズムは自由にさせすぎるのはやばい、ようするにお金持ちが好き勝手もうけて市民とか労働者が割を喰うのはよくないだろうっていう話の流れになる。それでリベラリズムを修正するんだっていって一定の福祉政策をしたり、富の再配分ってのをやったりする。

それに反対する立場としてリバタリアニズムがあって、そういう福祉的な活動は自由の侵害であるという立場をとる。税金はせっかく稼いだ財産権の侵害だ。

と一応書いてみるけど、さっき書いた通り国や時代によって違うので、全く別のことが書いてある場合がある。ほんと、統一して!

さて、それでようやくリバタリアニズムとパターナリズムがそろったぞ。

リバタリアンパターナリズムという謎の言葉がある。リバタリアンというのは自由を求めるもので、パターナリズムは善意の規制だから本来そぐわないんだけど、これは「個人の自由を権力が阻害しないでより良い結果に誘導する思想」だ。このワードの恐ろしさがわかるだろうか。リベラリズムによるパターナリズムは先ほども述べた通り法律という権力によって自由を規制するものだから少し違う。

規制せずに自主的に思想を誘導する……? なんか最近みたワードだね……。
行動心理学とか行動経済学でナッジという言葉がある。ナッジ理論は2017年にノーベル経済学賞を取った。自分が気が付かないうちに心の動きを誘導されて一定の行動をとるように周辺環境を整えるんだ。

一番有名なのはオランダ空港の男性用小便器にコバエのシールを張るとシールに向かって用を足すために汚れが減る。こういう人の選択が解析されて自然に誘導する理論?がナッジだ。身の回りで目につくところでは小売業とかにもよく使われているな。どういうキャッチコピーが集客力があるかとか。

マーケティングとは微妙に違うんだな。マーケティングは企業が自社の利益のために行うものだが、ナッジは特定の企業や事物に捕らわれず広く人の行動パターンを分析して構築されている。

それでナッジは誘導する制度とかシステムとか枠組みをさすが、リバタリアンパターナリズムというと誘導を是とする思想だ。

リバタリアンパターナリズムというのは、誤解を恐れず言うと、基本的には上位者がより良い結果を導き出すために下位者を快適な誘導によって一定の行動を行わせる。快適だから、違和感は感じない。さて、この帰結はどこにいくのだろうか。最終的に良い結果を得る主体は誰なのか。

誘導する、というからには誘導者と非誘導者がいるわけだ。誰かの目的のための無意識の誘導。この誘導がいい方向を向いているならいいが、そうでなくなればどうか。デマゴーグとかなら表面的にも扇動者は目に見える。ただ、これは何も目に見えない。そういう恐ろしさが秘められている、気はする。

そう考えると、この意味のリバタリアンっていうのは何なのかな。リバタリアンっていうのは個人の自由を縛るものは排除する考えじゃないのかな。無意識に誘導されるのは自由なのか? なかなか考えると趣深いな。

うーん、ピンとこないなぁ。

自由と思えば自由っていうのじゃ駄目なのか?

そうかもね。これは気づかないうちに行われるものだから。

ちょっと関係ない話だけど、ヘッドライナーというゲームがある。これはデマゴーグのたぐいではあるのだけど、プレイヤーはノヴィニュースという新聞の編集長になって、世の中にどんなニュースを流すかを選択する。プレイヤーが行うのはこの選択だけだ。

その選択によって社会の形が変わり、未来が変化する。なかなか示唆的で面白かった。

Steamとかswichとか、結構いろんな媒体でたまにセールやってるから、ご興味ある方はぜひ。

ディストピアってなんだろうっていうパワーワードを置いて次回予告。

さて、えーと9話のはずだから、タツさんメインで話が回り始めるころか。

次の備忘は12話にあわせて、「ディープラーニングって何だろう?」だ。

アイちゃんの中で何が起こっているのか、そういった話になるの、かも? しれない。

というところで、引き続きお読みいただけると、とても嬉しいです♪

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登場人物紹介

東矢一人。新谷坂高校の寮に住む。

1年の春、新谷坂山の怪異の封印を解いてしまい、再封印のために散らばった怪異を追う。

作中ではイラストよりもう少し存在感薄いイメージ。

ナナオさん。本名は末井奈也尾。

作中では髪はアップにしている。

にぎやかしと友情担当。

ギャルっぽいなりだが人情に熱く、困った人を放っておけない。

黒猫のニヤ。

新谷坂山の怪異を封印していた。

雨谷さん。雨谷かざり。

「雨谷かざりは同じ日をくり返す。」だけ登場予定。

藤友晴希

坂崎安離

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