「推理小説」の限界点?
文字数 4,725文字
今日は「第三章 5本の腕と向日葵のかけら」の3話目に絡めて、『推理小説の構成要素』をもにょもにょと考えつつ、推理小説の歴史? とかを少し書きたいと思います。
本編はもともと最初は推理小説を作ろうと思ったのだけど、色々な方向で破綻したから、思い切ってこの方向はあきらめた。4話目から若干推理要素の残滓が残っているけど、中途半端感が否めない。
やっぱ推理物ってあこがれがあって、なんていうか、散らばったパーツがまとまって謎を溶かしていくカタルシス? っていうの? 読んでて楽しい。
次はそういうの描きたいな、と思ってます。
誰がやったか(Who done it?)、何故やったか(Why done it? )、どうやったか(How done it )という要素にばらせば、怪異が出ても推理小説は成り立つんじゃないかなって思ったんだ。今回はそれ以外のところのキャラの動きで破綻したが。
今回は『誰がやったか』で進めてみたくてやってたんだけど、いろいろ後付けしたらバラバラになったので、弱冠やけっぱち気味。他にねえじゃねえかっていう感じだけど、一応少しだけ風味を残しました。容疑者って複数いるから容疑者なんだね……反省した。
まあ愚痴ってもしょうがないから気を取り直して。
そもそも、怪異で推理小説が立つかっていう問題だけど、最初の推理小説って呼ばれてる小説は何か知ってる?
エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』といわれている。ただ、これ以前にも推理小説的な話はたくさんあるんだ。聖書でソロモン王は裁判するし、アラビアンナイトの「3つのリンゴ」は最古の探偵小説ともいわれる。
その中でなぜ『モルグ街の殺人』が始まりと言われてるかというと、やっぱ今の推理小説の典型的なイメージをもってるからなのかな。【探偵】【ストーリーテラー】【猟奇的な死体】【恐怖】【推理の披露】【予想外の犯人像】というパッケージだ。
でもこの『モルグ街の殺人』、有名すぎて犯人を伏せる意味もないような気がするが、これって怪異じゃね?
『モルグ街の殺人』は訳が古めかしいが青空文庫で読める。今から読んでもなんていうか、色気があるな。だけど推理小説って時代時代によって求められるものって結構違ったりもする。
と思ってやってたんだけどなー。
で、推理小説には面白く楽しむための色々なルールがある。
推理小説好きならノックスの十戒とかヴァンダインの二十則とか知ってると思う。なお、ヴァンダインの20則目はその他条項だから、実質的には29則だろ?
さっきナナオさんが言ってた吸血鬼に襲われるのはいずれにしても論外だ。
2.探偵方法に、超自然能力を用いてはならない
3.犯行現場に、秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない
4.未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない
5.中国人を登場させてはならない
6.探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない
7.変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない
8.探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない
9.サイドキックは、自分の判断を全て読者に知らせねばならない
10.双子・一人二役は、予め読者に知らされなければならない
中国人ってのはようは怪人のことだ。スーパーマンとかスパイダーマンとか出しちゃいけないみたいな。
ノックスのほうはなんとなくわかる。推理ものに求める共通認識という感じで。ただ、正直ヴァンダインの方はなんていうか、遊びがなさすぎるというか、単に『謎だけだぜ』といわれているようで、微妙な気にはならないか? ラブロマ入れんなとか死体だせとか。
ヴァンダインに従って出すと、ナンプレみたいな小説にならないのかという?
ヴァンダインはいわゆる英国式探偵小説というジャンルだけど、この方式は形式化を目指して先鋭化していく。文学じゃなくて、『推理小説』という知的ゲーム方向に特化する。唯一解に最も早くたどりつくゲーム。
で、ゲームってのは公平じゃなきゃだめなんだ。1人にだけわかる理論で先行するのはフェアじゃないし、怪奇現象という一般人が解し得ないものは登場させちゃいけない。だからひたすら『フェア』を求める。
誰もが参加できる共通認識、つまりルールを決める必要がある。
だから、参加者を迷わすような、余計な情報は排除する。
ヴァンダインの二十則の根底には推理小説の物語性の排除があって、16則は『余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌は省くべきである』というものだ。
小説って何か。このルールに則ったものは、果たして小説なんだろうかという疑問があって、どっちかっていうとクイズだよね。
多様性のかけらもないぞ。
江戸川乱歩は推理小説だけでなく、推理小説の論考もたくさんかいてる。そもそも江戸川乱歩は『推理小説』の命名の一役を担っているともいわれる。
推理小説が流入したころの日本の近代文学は、明治時代のロマン主義から始まり、自然主義と反自然主義とか、要するに価値観が戦っていて、私小説とかでも人としての内面に回帰していた。そして『金色夜叉』とか大衆文学が勃興した時代で、読者は面白いものをもとめてる。その後はプロレタリア文学とか泥臭い人間が描かれる。
こう言ってはなんだが、文学としては人間とは何か、小説としては感情重視の娯楽が求められていたんじゃないかな。
結局日本で受けたのは江戸川乱歩をはじめとした怪奇やエログロの中に推理要素を混ぜたものだった。死、狂気、恐怖の中で人間をこそ描く。
日本の文学会の中で、新しい『小説のジャンル』として人間性を排した形式的探偵小説は受けいれる下地がなかったわじゃないかな。
英国でももちろんさまざまな人間を中心にした話はある。ジュールベルヌとかまさにロマン。形式的探偵小説も、最初は『モルグ街の殺人』とか人の情動を動かす作品から始まっている。それを進化させて知的ゲームに昇華?したものだから、すでに土台がある点で状況がちょっと違うよね。そういえば、モルグ街は江戸川乱歩的な気もするな。
そもそも形式的推理小説っていうのは世界大戦とかそういう時代の話で人がたくさん死んでる中で、人の個性、違うな、人間性?を排除して単に物体と考えようとしたっていう話を聞いたことがある。でも平和になるとそれは通用しなくなる。何故っていうと、冷戦とか戦争面でも対話性が必要になるし、価値観は多様化して、世の中そんなに単純じゃないってことを人が理解する。たった一つの解っていうのはむしろ存在しないし、見え方や考え方によって違う。
だから形式的な探偵小説というのは減っていって、人間を重厚に描いたハードボイルドとか、人間の恐怖をテーマにしたスリラーとか細分化されていく。
上記まではわりあい意図的に「探偵小説」と「推理小説」をごちゃまぜにして書いてるんだけど、基本的にはこういうのって分類にすぎなくって、その枠組みってあんまりこだわらなくていいんじゃないかな、と思う。結論としては、なんだそりゃっていう感じだが。
ノックスはともかく、ヴァンダインは今の流行りにあわないし、無理にあわせると確実に物語としてつまらなくなると思う。いや、これで面白いのができたらものすごいとは思うけど。なお、日本で唯一形式的探偵小説で成功したといわれているのが、横溝正史の本陣殺人事件だ。
だから、ヴァンダインの否定する『心霊のお告げ』を起点に証拠を集めて真実をあぶり出すってのもアリだと思う。だから2章幕間のアンリ探偵事務所も案外面白いかなと思っている。
Tempp的には、謎があって、それを解くという要素があれば『推理小説』でいいかなと思っています。
今回の『5本の腕と向日葵のかけら』は、最終的に前は、ひねりを全部カットしてトリックすらなく状況証拠で決め打ちするっていうひどい話だから、正直にいうと、前半に誰が犯人か推理要素が欠片あるだけで全く探偵小説じゃない。
むしろ今回の話で唯一他を騙そうとしてるのは後半の探偵だけで(トリックというほどじゃないけど)、こちらは構成的に全然推理小説じゃない。
最初に『モルグ街の殺人』が最初の推理小説でそれ以前にも推理要素のある作品は多いと書いたけど、結局作者がどう見せたいかっていう話じゃないかな。
しばらく後に本格推理書くときはもう少し捻ろうと思っています……。まだ冒頭しか作ってないけど、ある人物が朝もやの中で紙袋の中に人の頭部だけ入れて運んでるところから始まる、予定だ。次作るときは、メタメタに容疑者を量産するぞ!
次は8話と合わせて、海の危険、的な話を書く予定です。
ということで、今後ともお読みいただけると大変うれしいです。