ドッペルゲンガーの幻影
文字数 3,434文字
今日のテーマは、「第五章 俺の日常と梅雨の幽霊」の6話にあわせて『ドッペルゲンガー』についてちょっとかきます。厳密には5話かな。この備忘は5章の中でわりと緩い備忘だ。中身も薄いし妄言が半分くらいをしめているが。
さて、ドッペルゲンガーとはなんだろう?
もちろんドッペルゲンガーの特性としてそういわれることも多いけど。
さて、ドッペルゲンガーの正体はなんだろう?
幻覚ともいわれるし、生霊ともいわれる。
とりあえず超常現象としてのドッペルゲンガーの話をしようか。似たような現象としてバイロケーションってのもあるけどその違いについて。
ドッペルゲンガーの基本的な特徴として言われていることがある。
それは、ドッペルゲンガーは本人に関係のある場所に出現(だから本人・知人が目撃する)するけど、ドッペルゲンガー自体は他の人と話をしたりはしない。でも物理的な存在だから物をもったり扉をあけたりできるけど、突然消えてしまう。それで本人がドッペルゲンガーを見ると死ぬ。
ドッペルゲンガーってのは自分じゃないものなんだ。
同じ人が本人の意思(仮)で同時に違う場所に二人出現する。幽体離脱みたいなものともいわれるけど、分身の方はなんかちょっと変だったりする。漫画とかである分身の術をイメージすればいいのかな。
まあだから何なのってのはあるが、ようはドッペルゲンガーのほうは自分の意思と無関係に発生する者ってことだな。
ドッペルゲンガー自体わりと新しい怪異なんだよ。初出はジャン・パウルっていう人のジーベンケースっていう1796年の小説といわれていて、このドッペルゲンガーのキャラが受けて色々考察本が生まれた。ドイツ人もサブカル好きだよな。
ドッペルゲンガー自体はジャン・パウルの造語みたいなんだが、もともとは幽体離脱して他の場所で現れるっていう民間信仰らしい。なんとなくバイロケーションよりだな。それで魂がでて他のところで予言とかするらしい。で、こっからドッペルゲンガーとは何ぞやてきな考察が流行るんだけど、結局人が作った造語の意味を深読みしても面白くないので、病気の話をしよう。
自己像幻視っていう。現象としては自分の姿が見えて、だいたいは短時間で消える。これは別に精神的な話ものじゃなくても発生しうるもので、側頭葉と頭頂葉に腫瘍ができたりするとみるらしい。てんかんの場合や統合失調症の症例も報告されている。
で、ドッペルゲンガーの話は以上だ。特に広がらないんだこれ、新しい話だし、別に妖怪ってわけでもないから。あ、そういえばドッペルゲンガーにあった有名人は芥川龍之介とかリンカーンがいます。
これはリアルの病気の話ではないと明言します。ですから、心理学的な、精神学的な、そして実際の人物像をさしての批判というのは当てはまらないことを一応宣言しておきます。
そして以下はTemppの妄言を多分に含むところです。
空想の中で空想の病気を書くから、「実際はそんなんじゃない」とか批判されてもどうしようもないので。
さて、物語というのは基本的には葛藤がないと始まらない。そして葛藤の最も顕著な例が自分語りとか自己批判だと思うんですよ。だって何か思うところがなければブツブツいったりしないもの。そしてそれは外に対してのものじゃない。
でも、自分語りでブツブツいったりするのは気味悪ぃから、わかりやすく表層化させる作業として二重人格、そして自分語りをそれとなく他人に広げたい場合に用いられているのがドッペルゲンガーな気はする。
ドストエフスキーは二重人格というタイトルでドッペルゲンガーを描き、エドガーアランポーはドッペルゲンガーが主題のウィリアム・ウィルソンを描いた。そしてオスカー・ワイルドはドリアン・グレイの肖像を描きスティーヴンソンはジキル博士とハイド氏を書いた。19世紀のことだな。
基本的に描かれたのは善悪の対立、キリスト教的史観と現実との乖離を示している。ただ、基本的には19世紀には善が勝つ話が多い。この時代の自己の葛藤は、結局善が強いこの時代の価値観をなかなか超えられなかったんだな。この善なる哉的な強固な価値観を打ち破るために、耽美とか怪奇とかいろいろな方向性を探ったが、結局打ち破れたのはゲーテのファウストだけだった。ゲーテは本当に魂が強い。
でもこの時代の他の作品は善なる心と悪なる心が戦ってた。メロ〇パンナちゃんみたいだな。
でもファウストは違うんだ。最初から望んで快楽に身をゆだねた。つまり、客観的に、ポジションはどうみても悪から始まっている。
まあそもそもファウストは冒頭からぶっ飛んでる。神と悪魔がかけをして、ファウストが悪魔の誘惑に負けたら魂を悪魔にやることに神が同意している。そしてその後神のいうこともぶっとんでる。「人間なんて迷うもんだから、今別に堕落してみえても最終的に善ならいいじゃん。」 そして悪魔のいうこともぶっ飛んでる。「私はいつも悪を行うけど、それは全部善なんですよ。」 酷いお手盛り感があるが、基本的にはこれがファウストの世界観だ。最終的に契約は果たされたから、本当はファウストの魂は悪魔が取得すべきなんだ。でも天使たちは悪魔からファウストの魂をある意味一方的に強奪していく。そして悪魔は思う。「天使って悪魔じゃんか。」
このエンディングの解釈は正直下手に書いたら叩かれそうなところでもあるんだけどまぁ。最終的にはファウストは善なるものだったのかはさておき、そもそものその前提がどんぶり勘定に思える。
このころはキリスト教的価値観がくずれていって個人主義が台頭する直前の時期だった。ダーウィンが進化論とか騒ぎだしたし、科学技術も発展してきて神の御業の効果が薄れた。
個人主義が台頭してくれば好き勝手書いてよくなるわけだけど、そうでもない時期はどうしたらいいか。そうすると自己の葛藤を自己のものであると描きつつ、二重人格とかドッペルゲンガーとして分離させたり、悪魔のささやきと言う形で二極化するしかなかったんじゃないかな、そして19世紀の間はゲーテ以外結局のり超えられなかった。
ゲーテも変な人だしな。自然回帰っていうのかな、なんとなくあるがまま、というと老子っぽいが、キリスト教ではナシナシの輪廻転生も信じてたみたいだ。宰相っていう社会的地位があったから自由に発言できたのかもしれないけど。
前に7の【「推理小説」の限界点】でも書いたけど、価値観ってのは多様化している。だから自分を分裂させてまで葛藤をしたりはしないんだよね。
「そーゆー人もいるよね」っていうのはかなりのパワーワード。
あったとしてもミステリーとかのトリック的な意味合いで語られる文面の方が多いんじゃないかな。
そう考えると、今大っぴらにかけないことって何があるかな。自由主義の否定とかは書きづらいような気もするけど。正直よくわからないや。
ということで今日はここまでだ。
次回は【パターナリズムとリバタリアンの戦い】だ。
なんでこんな話になってるかっていうと、藤友君が過保護だからだな。
ちょっと哲学?政治学的な小難しい話になるが、お読みいただけると嬉しいです。
やっぱりドッペルゲンガーで長文かくのは無理かった。想定通りだが。