呪いってなぁに? 丑年記念の丑の刻参り編
文字数 4,466文字
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今日のテーマは、「外伝:叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼」にあわせて『呪いとは?』について丑の刻参りをメインにざっくりかきます。
さてこれはまた漠然としたテーマですが、呪いっていうと何が思い浮かぶ?
相手を模した人形をコンコン打って人を呪う。ということでだから今回は丑年にちなんで丑の刻参りの話にしよう。蟲毒とか符呪も色々あるんだけどそれはそれで1テーマかけそうなので、丑の刻参りに寄せて書くことにする。
丑の刻参りの形式は江戸時代くらいですでに固まっていたようだ。
でもこれもともとは不幸を撒くものではなかったんだよね。丑の刻参りっていうと京都の貴船神社が有名だけど、貴船明神が「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると願いが叶うというのが原型らしい。これが人を呪うものになったのは鎌倉時代ごろ。
貴船神社は行ったことあるけど、結構清涼な雰囲気の神社だ。でも木の結構高いところにくぎ打ったような穴が結構残ってるから、やっぱ昔からメッカなんだなと思った。
1番わかりやすく相手に呪いをかける方法。それは相手に「呪いをかけた」と宣言することだと思う。
身もふたもないが、「お前は呪われているぞ!」といわれるといやな気分になる。そこに強い恐怖を感じるとカテコールアミンが過剰に分泌される。これは神経伝達物質、ようするにドーパミンとかアドレナリン、ノルアドレナリンのことだ。これによって動悸が激しくなり、不整脈になり、心臓麻痺すら起こりうる。暗示にかかりやすい人だと1つの不幸で勝手に呪いを想起して、本来ならば気が付かないような不幸を転がるように発見し続けて病む。
別にわざわざ藁人形を打ち付ける必要がない。
ただまあ、普通の人だと「呪う」っていわれても「ふーん」ってだけだから、そこに藁人形とか心霊写真とか怪しげな呪符とかそういうのがあると、「理解できないものが悪影響を及ぼしている」という心理状態になって病む。いわゆるノーシーボ効果だな。
基本的にはこれが呪いだと思ってる。言霊理論に似てるかも。
でも自分的には丑の刻参りって結構特殊な形式だと思っていて。あれは知られちゃいけないんだよ。知られると自分に効果が反射するっていう縛りをつけてる。縛りが多い、つまり自分に犠牲を負わせることによって効果を倍増させて他人に悪影響を及ぼすというスキームだと思うんだが、ハ〇ター×ハ〇ター風にいうと制約と誓約? でもこのスキームってそもそも呪いを「発」できることが前提だから素人(?)が人を呪うのに向いてない気がする。だから呪いが広まらないように+効果が及ばないように後付けされた設定じゃないかと思わなくもないんだよな。でもここはまだ未研究なので妄言です。
まあ一人の方が集中できそうだし、でもなんとなく7日も打ってる間に「何やってんだ俺」的に正気に戻ることを期待しているのかもしれないが、そこはわからないな。
でも、どうなんだろう。してる人を見たらトンカチもって追いかけられたみたいな話もあるしな。
そういえば人を呪い殺すっていうのは犯罪にあたると思う?
殺意はめっちゃあっても、それが人を殺す行為、いわゆる実行行為と直結しないとダメなんだ。だからどんなに呪っても人を死に至らしめる具体的な行為がないとだめ。
「不能犯」っていう概念があって、どれだけそれをやっても死という結果を科学的にもたらさない行為はもともと不能ってことで罰せられない。有名な判例としては大正時代に人を殺そうと思って硫黄を鍋に入れて食わせたり硫黄入り水を飲ませたりして気持ち悪くさせた行為を殺人未遂じゃないって認定した。多少の硫黄じゃ人はしなないの。まあ、傷害罪にはなったみたいだけど。
呪術の点ではそういえば雨谷かざりの部分の備忘録でハイチではブードゥを人に施すのが刑法に規定されていると書いた記憶があるけど、刑法ってのはその国の文化も包摂されるから、日本がコテコテの呪術国家ならば人を呪い殺す罪ってのが作られたかもしれないね。
だから日本で呪いで殺せたらそれは即完全犯罪になる。そして推理小説でそれをやったらボコられる。
話が前後して申し訳ないが、また呪いの話に戻ろう。
ジェームス・フレイザーっていう社会人類学者がいてな、この人はギリシャ神話と各地の神話を対比して、呪いや原始宗教とかが社会に対する影響を研究していた。その本に「金枝篇」っていうのがある。
そこでは呪術というのを「類感呪術」と「感染呪術」ってのにわけた。なんかこれ、前にも書いた気がする。どこでだったかな。だからダブってたらすみません。家の話書くときに設定作るのに調べなおしたのかもしれない。家は長丁場だから最初調べてたことを結構忘れてる。
感染呪術っていうのはもっとわかりやすくて、呪う人の髪の毛とか爪とかそういった体の一部を取得して、そこから本人に対して呪いを送る。「似てる」とかじゃなくて本人を本人そのものから呪うんだ。本人の細部から呪いを感染させる。まあ最近の藁人形では髪の毛を入れるのも主流になったりしてるから、実際は複合してるのかな。
呪いとは違うけど、金枝篇では勝利した相手の頭の皮を剥いで食うと強くなるという話が例に出ている。胃を食べると胃がよくなるとか聖遺物を保持したいとかそういう概念なんだと思う。
例えば「丑の刻参り」がなされると知ったとき、昔は「呪い」それ自体に恐怖を感じたけど、今だと多分「丑の刻参り」をするようなヤベェ奴が身の回りにいることについての恐怖、のほうが強い。
生贄についてはいずれ本編のほうに出てきそうだから今回は割愛。なお藤友君の呪いは本編外の事情なので、無駄に設定だけはあるけど実体については本の中には出てこないかもしれません。
だって本当に書かない気がするんだもん! せっかくたてたのに!
でもこれだけじゃなんだから、金枝篇の記載だけひいとく。金枝篇では、日本の天皇について「神と崇拝されたのが翌日には犯罪者として殺されることに矛盾はなく首尾一貫している。王が神なら王は民を守らなければならず、これが守られないならば譲位しなければならないのだから当然である」的なことが書いてある。これはある意味外から見ないと持ちえない視点だなとすごくピコンと来た。祓詞というのがある。これは神道儀式の前に唱えられる言葉で、多分聞いたことはあると思う。
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す」
これはイザナミが黄泉路から逃げ帰ったときに海で体を清めたときの詞だけど、このときまたポコポコ祓戸の大神達がたくさん生まれて、以降日本の津々浦々で穢れを祓うための後神力をふるっている。
ここに「諸々の禍事・罪・穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」というワードがある。昔は禍事(凶事)と罪と穢れは同じことだったんだ。だから罪であっても祓えばいい。このころ贖うと祓うは同じ概念だった。何かに寄せて遠くに追いやる。蛭子神とか興味深いのだけど、その話はまた今度。
信心深い人が家で唱えるときは大祓詞が多いんだろうか? 「高天原に神留まり坐す」から始まるやつ。こっちの方は諳んじられるけど、神道の祝詞はクリーンな日本語だから結構好きだ。自分はコテコテの無神論者です。
で、時代が下ると罪は刑罰で、穢れは祓いで解消するようになる。穢れは科学の光で払しょくされてきてるから、現在では刑しか残ってない。妖怪がいないと浪漫がない、そんなことを思って書いてます。