ハーブティというか薬草の歴史(西洋)
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いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今日のテーマは、「外伝:叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼」の7章位波家心中事件にあわせて『ハーブティの歴史』の話を雑にしてみます。藤友君がちょこちょこハーブティーを挿れてたので。あの、本当にネタがないの。誰か助けて! なんか7章に絡めたネタないかな!? ほんとに!!
一方、ハーブティというのはこのチャと全然違って、例えばラベンダーやローズマリーといったハーブと呼ばれる葉っぱを生のままとか乾燥して作られる。
基本的に原始文明でも生薬なんかは経験的に使われていたのだろうけど、多分1番古い文献としてはメソポタミア文明まで遡る。紀元前3000年頃には既にアヘンが栽培されて、当時は『喜びの花』と呼ばれていたらしい。ハッピーな感じ。その後紀元前2000年くらいにはヨーロッパとか中央アルプスに伝わり、紀元前1500年頃にはエジプトでアヘン製造がされて鎮痛剤に用いられていた。
この他にもイチジクとかザクロとかナツメヤシとかそういったものが美容用とか防虫薬として使われていたようだ。これらの治療は基本的に神殿で行われていた。
その後、エジプトで薬学が発達する。紀元前1500年頃のパピルスでは様々な病気の症例にあわせて生薬療法が記載されている。このころに使用されたものはさっきのアヘンを始め、サフランやセージ、ウイキョウやアロエ、シナモンも含まれたそうだ。ミイラに使う没薬、乳香、亜麻仁ものも含めて。
臨床実験に基づいて効果が検証なされた。
とはいってもあくまで古代、紀元前400年前後の話で、四体液説というのを前提としている。四体液説というのは血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁のバランスが崩れると病気になるというもので、でもこれって19世紀くらいまでは信じられていた。まぁ、バランスが原因かはさておき観察対象としては方向性は間違ってないわけで。例えば体内の悪い液を排出する試みが嘔吐下痢とか発汗とかそういうの、と考えると機序としては間違っていないのです。
基本的に四体液説はそのしばらく後のアリストテレスの四大元素説に繋がるんだけど、それはそれで面白そうなので別の機会にまわそう~。
なおヒポクラテス全集は写しが明治大学の博物館にあったように記憶してる。
ちょっとそれはあとに回す(推敲の過程でこうなった)。ヒポクラテスから時代を少し下るとローマ帝国期のペダニウス・ディオスコリデスという人がいる。この人はローマ帝国が拡大しきって世界中で集めた薬物の知識をまとめて『マテリア・メディカ』という本を作った。これが中世あたりまでの薬学の基本になった。この人はローマ帝国が拡大しきった世界中で集めた薬物の知識をまとめて『マテリア・メディカ』という本を作った。これが中世あたりまでの薬学の基本になった。
ヒポクラテスは植物は130種ほどの薬種だったのにディオスコリデスは植物だけでも600の薬種が入っている。
前のルネッサンスの絵の回でギリシャ・ローマの本は排斥されたと描いた気がするけど、この本はそれを免れヨーロッパでいき続けた数少ない本。
そっからは上に描いたように有機化学が発達して、アヘンからモルヒネ、キナからマラリア特効薬のキニーネが抽出され、その他にもアスピリンやサリファ剤(抗生物質)が生成されるようになった。
基本的に民間にハーブの知識が広がったのは宗教改革あたりから。それでそのころからハーブをベースにした香水とかも広まっていく。
さて、ハーブティを嗜好品として飲み始めたのは中世からっぽいんだけど、すいません、あまり真面目に調べてません。ていうか仕込みもなにもないのでうろ覚えの知識ばかりと以降はいま調べたに等しい状態。
ネタがなさすぎて仕方がないので藤友君が公理さんに出したお茶の解説でもしようかな。
ヨーロッパというかモロッコなのかな。アッツァイっていう。
でももともとモロッコではお茶の文化が入ったのは19世紀。イギリスから渡ったもので、基本的に水と茶をいれたヤカンを火にかけて砂糖をいれてミントを入れる。モロッコは熱いところだからミントの爽やかクールなところが好まれたのかも知れない。
そういえばで、あんまり知られていないけどモロッコ人はめちゃお茶が好きらしい。
あと何出したっけ。カモミールティーか。
これはさっき言ってたメソポタミアのころから生薬として使われていた。カモミールはドイツとかヨーロッパ北部を中心としたジャーマンカモミールとイギリスとヨーロッパ南部を中心にしたローマンカモミールがある。
カモミールティに使われるのはだいたいジャーマンなイメージだな。ちょっとリンゴっぽい味がするんだけど、基本的には紅茶とかとブレンドされていることが多い。