法家の思想と当時の諸相
文字数 4,440文字
今回は、『荊軻伝』に関連して、「法家の思想」についてです。
うわぁ法家思想って書こうとしたら放火しそうってでたぞ!?
荊軻伝書いたのは結構前だけど、もともと戦国春秋は好きなので多分いける。あと今、歴史は干将莫耶の話と紂王の話を少し書いている。時代としては干将莫耶のほうが近いのだが、思い出しついでに。
ところで法家っていうのはどういう考え方かわかる?
とりあえず基本的な時代背景から。春秋戦国は様々な思想が花開いた時期で、これは諸子百家と呼ばれている。分類自体は漢の時代に行われたものなのだけど、司馬炎は陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家と系統を分類している。けれどもこれは分類上の問題で、春秋戦国当時は濃淡はあれども儒家と墨家が強かったようだ。
儒家というのは孔子から始まる思想で論語や四書五経とか、現代も息づいている。春秋以前の三帝や周の政治をよしとして仁義礼智信の徳を重視して人との関係の継続を重要視している。荊軻伝でも書いたけど、始皇帝の焚書坑儒においては博士の書物所持は禁止されてなかったから、最大多数の儒家の思想はかなり残った。
当時は軍拡の時代で諸国が領土を増やすために争っていた。それで儒教っていうのは上に従えというのが正しいあり方になる。つまり上が戦争をしていたら止められないんだな。儒学の仁というのは人との深い関係性を重視する。親を敬え、師を敬え、王を敬え。でも墨家はそこが差別的だと主張したんだ。家族だからといって他より優遇する、そういう差別こそが不利益の起こりである。墨子の思想は十論とも呼ばれるけど、中心は万人を愛する無差別の兼愛と非攻。非攻といっても侵略戦争は否定するけど防衛戦争は否定しない。墨子は基本的に技術集団で、守城・土木技術や鍛冶、戦術なんかを得意としていて、トンカチ持って攻められている城に入って無差別に防衛する。結局墨子は秦が統一すると同時に滅ぶ。守城して滅んだのかもしれないし負けて自害したのかもしれない。そもそも墨家の思想は統一とか軍拡に真っ向反対するから君主には嫌われるんですよ。だから秦から激しく弾圧はされて滅んだという話が有力。でも墨子の本だけは残っている。焚書坑儒を免れたのは技術に関する本だからではないかという気もする。
墨家の逸話は常軌を逸している。例えば墨家の孟勝は楚の城を守ろうとして破れたから約束を守れなかったといって400人で集団自殺した。あ、この話短編でかきたいなぁ……。
それで法家というのはメインストリームではなかったのだけれども、そもそも法家は儒家の説く徳治主義に反対して法治主義を解いたんだ。結局儒家という徳治主義では人間関係を重視するものだから信賞必罰が人の意思によってしまう。だから法家は法によって厳格に定めた基準において政治を行うよう求めた。
現象面としては墨家に近いけど思想背景が全く違うところは面白い。墨家は博愛、つまり差別禁止という意味で1つの価値基準をベースに秩序を守ることを求め、登用に貴賤を問わないことを求めた。だからそのベースには人がある。
でも徳治主義っていうのは周から800年続いていて、春秋戦国でも孔子が広く広げた価値観でさ、法家が法治主義を進めようとしてもなかなか難しかったんだよ。なお、始皇帝が統一した後の漢代以降ずっと続いているし史記を記した司馬遷も周贔屓だ。
法律を守らせようとするには何が必要だと思う?
だから仮に法家が法律を定めてもそのままじゃなあなあになったんだ。だから商鞅は強行した。商鞅というのは荊軻でもちょっと話がでてるけど、孝公の時代に秦で法律を厳格にした人だ。法家の人ではあるけどどちらかというと政治家なイメージが有る。孝公には覇道を求められたから法を敷いて富国強兵をすることを説いた。
だから市場の南門に木を立ててこれを北門まで運んだら10金を与えると立て札が掲げられた。でも運ばれなかった。書いてあっても偉い人が反故にしたらお金もらえなくて草臥れ損。当時はそういう世界。そうすると50金と上書きされた。暇な男が運んだら本当に50金をもらえた。商鞅はその事実を示してから法を発布した。けどやっぱり急には人の意識は簡単に変わらなかった。上の者も変わらなかった。上が変わらなければ下は従わないとまずいのが徳治政治なわけですよ。
それで秦の恵文王が太子(皇位継承する王子)だった頃に法律に違反して、流石に太子を処刑できないから教育係の公子2人の鼻を削いで入墨の刑にして侍従を処刑した。公子だって王族なわけで。
ほとんど一番上の王族だって法に厳格に裁かれるってことがわかって秦ではようやく法が守られるようになった。
でもこれ、変法を求めた孝公の時代はよかったんだけど孝公がなくなったらその次は恵文王でさ。当然商鞅が大嫌いなわけ。だから商鞅に謀反の罪を着せようとしたから商鞅は逃げ出して、荊軻で書いた旅券のエピソードを経て捕まって車裂きになった。
でもこれって傷害・盗みは官吏のいうまま的な空気があるから徳治政治に後戻りじゃん?
だからまあそれだけではうまくいかないから実際は法は定められたんだけど。で結局法家って表立っては出てこないけど道家と混じって黄老思想っていうのが流行った。何故道家と法家が混ざっているのかさっぱりわからないが、「無為而治」といって簡単な法律を置いておけば何もしなくてもなんとかなるっていう思想。神の見えざる手的なあれ?
それから秦の政治っていうのは法治主義ではあるけれどもその法というのは為政者の都合で定められる。だから必ずしもいい法律かというとそういう判断はあまりないんだ。商鞅はどっちかっていうと政治家だから。
中国から離れるけどヨーロッパでは中世は絶対王政で主権の対象が国王だった。これは神が王に人民を支配することを認めていたからで、王権神授説というやつ。でもイギリスの13世紀の裁判官のヘンリーが「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある」と言っている。
けれども結局その法というのは国王が定めるものだった。中国の法家と同じ。そっから市民革命が起こって法を定めて国が運用するようになったんだけど、アメリカで正義によって権力を拘束するべきだったという概念が生まれる。それが法の支配で、基本的人権の尊重、憲法の最高法規、裁判所の違憲審査、適正手続の保障が中身となっている。だから人権が損なわれるような法律は国(法を定める国会)から離れて裁判所で違憲審査がなされるし、手続自体が適正でなければ無効だ。これは人と国の契約だから、それが憲法に定めれれている。
農業を振興させるために関所や市場の税を重くするとか、納税は粟の物納だけにするとか。君主に権力を集中するために成人男性が2人いる家庭は人頭税を倍にしては強制的に分家させるとか(でもこれは家族が同居するというのが中華の風習では獣と同じと考えられていて野蛮と侮られるのを防ぐという意味もあった)。そもそも商鞅も公子だからな。国のための法だ。だからその国の主権(王)が変わると覆されてしまう。当時、個々人の人権的な観念はなかったきはするな。