ノート / 背中に衝撃 / 耳、澄ます 

文字数 1,331文字

響乃森ハウス( ここ )に来てから一番の冷え込みとなった。
紗和(さわ)が厚手のカーテンを開けると、二重窓の外窓には小さな氷の結晶が浮き出ていた。
手早く着替え、いつも通りの身支度にかかる。

紗和(さわ)は小さなノートをジーンズのズボンに忍ばせた。これは昨晩作ったものだった。
面接をしてくれた花井(はない)から、持ち物は「着替えくらいでいいよ」と言われていたが、一応筆記用具も持ってきていた。
この小さなノートは、2冊準備したB6サイズのノートの未使用のほうを3分割したものだ。B6サイズのノートはだいたい 17.6cm × 12.5cm。17.5cmの背表紙側にだいたい6cm間隔で印を付け、その点から真横に切り、短冊形の細長いノートを3冊作った。
――切り口がガタガタだけど、まあ…仕方ないか。
キッチンでハサミやカッターナイフを借りようとも思ったけれどやめた。
仕方なく手で切ったのだった。50枚綴(つづ)りのノートを出来るだけ真っ直ぐ切る、もとい千切るのは骨が折れたが、まずまずの出来であろう。
今まで使っていた、帆奈美(ほなみ)の言ったことや仕事中気付いたことをメモする用のノートは、今まで通りエプロンのポケットに入れた。小さな短冊形のノートを入れたジーンズの尻ポケットはエプロンに完全に隠れる。
「よし!」
紗和(さわ)は両の手のひらで頬を挟み込むように軽く叩き気合をいれ、洗面所に向かった。

 *

ドスン、と背中に衝撃が走る。
「よそ見してんなおばさん!」
よろめいたが体勢を立て直し、
「ごめんなさい…」
と洗濯カゴを持ったまま頭を下げた。
今日何度目だろうか…は敢えて数えていないがいい加減参る。
優菜(ゆうな)の背後からの体当たりを受けたのだ。
何が参ると言うに、対応が難しい…。一回くらい倒れなきゃ、と思って昼過ぎにぶつかってきたとき、紗和(さわ)は「きゃっ」と前のめりに床に突っ伏した。そしたら 優菜(ゆうな)も一緒に倒れてしまった…。これはいかん、と思い以降はよろめくだけにしている。
 昨日の食堂の左久間(さくま)の態度が引き金となって、紗和(さわ)優菜(ゆうな)から手酷くいびられている。胸中不思議なのが何故かこういうとき、被害はだいたい女性だけにある。ご多分にもれず左久間(さくま)優菜(ゆうな)から厳しく追及されたりもせず、いつも通り涼しい顔で過ごしている。ように見えた。

 *

夕刻、ファミリーの入浴補助時。
紗和(さわ)に肉体的なダメージを与えるのは難しいと見て、優菜(ゆうな)は作戦を変えて来た。
「おばさん、検温(けんおん)手伝ってよ。」
「…あ、はい!」
脱衣所の床の水滴をモップで拭きながら紗和(さわ)は返事をした。
「明日からこっちも手伝えって主任が。」
――言うはずないと思うが…
「わかりました。」
業務主任の帆奈美(ほなみ)を言いくるめたのか、ごねたのか、或いは花井(はない)を通したのか、は分からないが、どうやら紗和(さわ)は明日から優菜(ゆうな)のアシスタントにつくらしい。
 後で念のため帆奈美(ほなみ)に確認すると、
「何かごめんねー。根は()い子なんだけどね。」
本当のことらしい。
「でもね。紗和(さわ)ちゃんが
医療業務手伝えるようになったら本当に頼もしいと思うのよ?」
一応業務主任としての目論見がない訳ではないようだった。

 *

夜、自室。

カーテンをくぐり、窓を細く開け耳を澄ませた。
合唱は聞こえない。
初めてそれを聞いた夜から毎晩こうして確認している。
『1/27 ♪ ナシ』と短冊ノートに記録した。
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登場人物紹介

福森 紗和

36歳 新人チームメンバー

小野崎 帆奈美

48歳 業務主任

中里 優菜

24歳 看護師

ファミリーのお年寄り達 1

ファミリーのお年寄り達 2

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