検温と血圧 / 問診(会話) / 将棋

文字数 1,380文字

昨日につづき厳しい冷え込みの朝である。
カーテンを開くと窓ガラスの表面に静止していた空気が部屋の中に散り、ボタンの一つ外れた寝巻の紗和(さわ)を身震いさせた。
外窓の表面は昨日よりも白く凍り付いていた。
帆奈美(ほなみ)によれば、このあたりは地熱が高く地面が凍らない。また、海側の地域と違って、この辺りは降雪量が少ない。がその代わりに、海側とは比較にならない程の乾いて冷たい風が吹くのだ。
「もう肺が凍るくらい寒いんだから~!」
と何故か帆奈美(ほなみ)が自慢するみたいに言っていた。
とは言っても、温水循環式暖房設備のお陰でこの建物の中は非常に暖かい。仕事はほぼ屋内業務である。過分に快適な労働環境に感謝しつつ紗和(さわ)は身支度にかかった。

 *

食堂に下りると帆奈美(ほなみ)
優菜(ゆうな)ちゃんから預かってるの」
と言って紙片を手渡して来た。
そこには補助業務の内容が記されていた。
昨日、自分のアシスタントをするように一方的に宣告されたのである。
―― 一日6回の検温、血圧測定、問診メモに目を走らせ内容を瞬時に吸い込んだ。
―― 起床時と食事前、入浴時、就寝時か…これは?!
何という幸運だろうか、紗和(さわ)は心の中でガッツポーズした。
これで一日に6回もファミリー全員と充分に接することが出来る。ファミリー個々の状態を把握し、可能な限り会話をし、そしてもしかしたらあの不思議な合唱の正体が、そうでなくてもそのヒントくらいは手に入るかもしれない。
「出来る範囲でいいからね…紗和(さわ)ちゃん本来の仕事を優先してね。」
帆奈美(ほなみ)は言ってくれたが、
「いえ、中里(なかざと)さんがせっかく私を信頼して下さったので、」
精一杯やります、と紗和(さわ)は笑顔で答えた。

 *

当然だが仕事量が増えた。だが問題ない。
家事業務を今まで倍のスピードと量でやればいいのだ。
今までの倍の歩幅で歩き、階段を一つ飛ばしで昇降し、洗濯カゴを両手で一つ抱えて運んでいたものを、両手に二つ持つようにすればいい。勿論クオリティを下げないように注意しなければならない。
――出来るだけファミリー達とのコミュニケーションに時間を使いたい。
紗和(さわ)はハウスを駆けまわった。
何度もラクダちゃんを蹴飛ばしそうになり、その(たび)()けたり飛び越えたりした。

 *

ハウスの食堂はリビングとダイニングとキッチンが隔てなく並んだ広い空間になっている。そのリビングのソファに掛けた3人のファミリーの前に紗和(さわ)は立ち膝をついていた。
「小松さん、ナスお好きでしたよね。今日お夕飯ナスの煮浸しでしたよ。」
体温と血圧を計器で測りながら会話する。可能な限り効率的に。
「まあ嬉しい。教えてくれてありがとう。」
一日の献立は調理担当の清水(しみず)山口(やまぐち)に聞けば分かる。
「ちょっと低いかもですね、寒くないですか?」
小松ふみは痩せていて、今日は顔色もあまり良くない。
「大丈夫よ。」
「何かあったら遠慮なく言ってくださいね。」
紗和(さわ)は立ち上がった。
「またね桃花(ももか)ちゃん」
すると隣のソファから笑いが起きた。将棋を指している近江(おうみ)八郎(はちろう)鳩間(はとま)元治(がんぢ)であった。この二人はファミリーの中でも大分軽度で、一人で暮らすのに遜色(そんしょく)がないほどしっかりしている。小松ふみが紗和(さわ)を誰か別人と勘違いしていることを笑ったのだ。
――いや、少しニュアンスが違う気がする…
「言われてみれば、本当、似てるねえ。」
近江(おうみ)が笑みを浮かべて言うと、
「実は僕もずっと思ってたんだ。」
鳩間(はとま)も割と真面目な表情で同意したのだった。






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登場人物紹介

福森 紗和

36歳 新人チームメンバー

小野崎 帆奈美

48歳 業務主任

中里 優菜

24歳 看護師

ファミリーのお年寄り達 1

ファミリーのお年寄り達 2

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