新聞 / 老いとは / 陽光
文字数 1,678文字
食堂のリビングスペースで近江 八郎 が一人で新聞を読んでいる。
少し前なら鳩間 と一緒に囲碁や将棋、花札やポーカー等をして楽しんでいたが最近は見掛けない。それを尋ねると「姉ちゃんに気を遣ってのことだろう」と近江 は言った。
実は鳩間 は響乃森ハウス に潜入した私立探偵で、ここで行方不明になった松本 桃花 という女性を追っていた。
紗和 は鳩間 の情報収集の手伝いをすべく施設内を駆けまわりチームメンバーともファミリーとも頻繁に言葉を交わした。その成果を小さな紙片にまとめて鳩間 に手渡す際、鳩間 が紗和 の身体に触る振りをする、いわゆる『セクハラ作戦』を採用した。何故こんな回りくどい方法をとったかというと、施設のそこかしこに設置された監視カメラで紗和 の動向が監視されている可能性があったからだ。その『セクハラ作戦』がバレたのか、或いはセクハラそのものの対策なのか本当のところは定かではないが、鳩間 は紗和 に近づけないようにされてしまった。食堂やリビングは紗和 が一日に何度も出入りする場所だから自分がいてはやり辛かろう、と鳩間 が自重したのではないか、と近江 は言うのである。
――何だか申し訳ないことをしたな…
作戦を提案したのも、探偵業務を手伝いたいと言ったのも紗和 本人である。
「今日は天気が良くて気持ちがいいな。」
新聞越しに近江 が紗和 に話しかけてきた。珍しいことだ。
「ええ、良い日差しですね。」
紗和 は南に向いた大窓のガラスを拭きながら答えた。
「あんたは、どうしてここで働いているんだね。」
近江 の不意を突いた質問に紗和 は思わず仕事の手を止めてしまった。その老紳士の言葉にも眼差しにも確固たる意志が息づいていることが分かる。鳩間 と同じように、彼もまた認知症を装っているだけなのかもしれない。
「…全然やったことない仕事してみたかったし、ここ給料も良かったので…」
「まあ無理に言わんでもいいさ…」
故に、取り繕った返答もすぐに偽物とバレる。が、それには拘らず近江 は続けた。
「俺は次のやつでいく。」
――…え!?
出掛ける予定がある、ということだろうか…彼の次の言葉に、何となく嫌な予感を抱きながらも紗和 は首を傾げて見せた。
「明後日 ここを出る。」
――!?
明後日は森から歌声が聞こえる日…その夜は必ず数人のファミリーの行方が途絶える。近江 も…?やはりそういうことなのだろうか。
「ご自宅に戻られるのですか?」
一縷の望みをかけるような気持ちだった。
「違うよ、でも…居るべき場所に
近江 は新聞紙をきれいにたたんでテーブルに置いた。そして続ける。
「週に一度、あの機械を動かすんだろ?」
「…はい。」
――やっぱりそうか…
「うんざりだったよ。やっと終われる。連れ合いも逝き、働けなくなり家族にも疎まれ、それでも年金保険制度等で過去に働いた分は老後の一助になるし、最低限の暮らしなら国が護 ってくれる。でもね、つい自問してしまう。その価値が俺にあるか?と。俺の命が長らえることを誰か望むか?と。」
近江 八郎 はじっと手を見る。その皺 のひとつひとつに己 が人生を、重ねた幾月幾年を透かし見るように。そして尚続ける。
「長生きしましょう!ぴんぴんころり…挙句、どこかの頭の鈍った年寄りが若者を車でひき殺す。日本の未来を案じている場合じゃない。もうとっくに仕組みが壊れているんだ。老兵は去らねば…」
「そう…かもしれないですね。高齢者には生きる意味が必要、と仰るのですか?」
すんなり肯定も出来ず、自分の中に確かな答えもすぐには探せず、質問だけを返した。
「生きる意味なんて年齢に関係なく誰も正解を知らなくていい。自分で決めていいものなんだから…。
でも生き甲斐はあるべきだ。」
「生きることに、しがみついてはいけませんか?」
「しがみつけるならまだいい。それさえ諦めた沢山の高齢者が死ねずにいるんだ。本当の老いとはつまり『諦め』なんだよ。」
老人はふぅと静かな息をつき目を閉じた。
「俺もそうだった。だから響乃森ハウス を知って飛びついた。順番待ってる間もそこそこ楽しかったが充分だよ」
紗和 は言葉もなくただ陽光の中にたたずんだ。
少し前なら
実は
――何だか申し訳ないことをしたな…
作戦を提案したのも、探偵業務を手伝いたいと言ったのも
「今日は天気が良くて気持ちがいいな。」
新聞越しに
「ええ、良い日差しですね。」
「あんたは、どうしてここで働いているんだね。」
「…全然やったことない仕事してみたかったし、ここ給料も良かったので…」
「まあ無理に言わんでもいいさ…」
故に、取り繕った返答もすぐに偽物とバレる。が、それには拘らず
「俺は次のやつでいく。」
――…え!?
出掛ける予定がある、ということだろうか…彼の次の言葉に、何となく嫌な予感を抱きながらも
「
――!?
明後日は森から歌声が聞こえる日…その夜は必ず数人のファミリーの行方が途絶える。
「ご自宅に戻られるのですか?」
一縷の望みをかけるような気持ちだった。
「違うよ、でも…居るべき場所に
還る
、という意味でそうかもな」「週に一度、あの機械を動かすんだろ?」
「…はい。」
――やっぱりそうか…
「うんざりだったよ。やっと終われる。連れ合いも逝き、働けなくなり家族にも疎まれ、それでも年金保険制度等で過去に働いた分は老後の一助になるし、最低限の暮らしなら国が
「長生きしましょう!ぴんぴんころり…挙句、どこかの頭の鈍った年寄りが若者を車でひき殺す。日本の未来を案じている場合じゃない。もうとっくに仕組みが壊れているんだ。老兵は去らねば…」
「そう…かもしれないですね。高齢者には生きる意味が必要、と仰るのですか?」
すんなり肯定も出来ず、自分の中に確かな答えもすぐには探せず、質問だけを返した。
「生きる意味なんて年齢に関係なく誰も正解を知らなくていい。自分で決めていいものなんだから…。
でも生き甲斐はあるべきだ。」
「生きることに、しがみついてはいけませんか?」
「しがみつけるならまだいい。それさえ諦めた沢山の高齢者が死ねずにいるんだ。本当の老いとはつまり『諦め』なんだよ。」
老人はふぅと静かな息をつき目を閉じた。
「俺もそうだった。だから