浴室 / 33 

文字数 1,325文字

響乃森ハウス(ここ)で働き始めてから三日経とうとしている。
家事全般と一日三回の食事の見守りに関しては帆奈美(ほなみ)はもう殆ど紗和(さわ)に指示をせず、見ているだけである。
昨日から入浴の補助にも入っている。老人は柔軟性やバランス感覚が低下しているため、滑りやすい浴室での移動には特に注意をはらっている。とは言えやはりこちらも食事同様、見守ることが主な業務となる。
「おばさんって幾つ?」
使用済みのタオルをまとめていると、ファミリーの検温を終えてひと段落した中里(なかざと)紗和(さわ)に話しかけてきた。帆奈美(ほなみ)によると、中里(なかざと)優菜(ゆうな)はこれでも一応看護師(かんごし)である。勤務態度も年上の大人に対する態度もすこぶる悪いが、大事なチームメンバーよ、と帆奈美(ほなみ)は言っていた。
「36です。」
だから紗和(さわ)も丁寧に答えた。明らかに年下だが、職場の先輩である。
「へえ、けっこういってるね。33くらいかと思った。」
「有難う御座います。」
3年若く見てくれたことに感謝を述べたつもりだが、中里(なかざと)はそれが気に入らなかったようで、僅かに眉間のシワを深くした。が、不思議と紗和(さわ)中里(なかざと)優菜(ゆうな)に腹が立たなかった。
――私が20代の時、年上を尊敬出来てただろうか…、
紗和(さわ)は自問した。相手の能力や容姿や境遇に関わらず、たった一年でも自分の方が若かったとすれば、そこに得体の知れない優越感を持ってはいなかっただろうか…。年齢を重ねることを、自己の価値を失うことと考えてはいなかっただろうか…。だからこの子が、優菜(ゆうな)が今何に怯えているのかを知りたい、と紗和(さわ)は思った。一方で、そんな風に他人に自分の過去を透かし見るような独特の親近感を持ったことに紗和(さわ)自身が戸惑ってもいた。

 *

「小松さん、まだ起きてたんですか?」
消灯時間は過ぎていた。小松ふみの部屋のドアから灯りが漏れていたので覗いてみたのだ。
「あら桃花(ももか)ちゃん」
三日働いて紗和(さわ)にはハッキリと分かった。やはり〖響乃森(ひびきのもり)ハウス〗のファミリー達は皆、中程度から重度の認知症患者である。会話がかみ合わない、名前を間違える、覚えられない、食堂やトイレの場所が分からなくなる、時には情緒が不安定であり、感情の起伏が激しいこともある。
小松ふみはファミリーの中でも比較的軽度な方であろうか、やはり記憶力は低い。一方で、その場の思考や受け答えは明瞭であることが多いように感じられた。
――ダメ元で聞いてみるか…
「あの、知ってたら教えて欲しいんですけど…」
「何かしら」
小松ふみはワクワクしたような眼差しを紗和(さわ)に向けた。
「ここって、みなさんでやってる合唱部がある、歌のサークルがある、とかって話、聞いたことないですよね?」
「合唱部?…サークル?…」
小松ふみはしばし考え込むが、
「…どうだったかしら、分からないわ、ごめんなさい。」
と本当にすまなそうに答えた。
「あ、いえいいんです。有難う御座います。じゃ、おやすみなさい。」
消しますよ、と言って消灯し小松の部屋を出た。
日中、会話する機会があったファミリー5人にも同じ質問をしたが成果はなかった。昨晩聞いた美しいハーモニーが何なのかを知りたかった。が、仕事に集中していない、と思われたくなかったからか、或いは直感がそうさせたのか、チームメンバーにはそれを悟られないようにしよう、と紗和(さわ)は思った。
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登場人物紹介

福森 紗和

36歳 新人チームメンバー

小野崎 帆奈美

48歳 業務主任

中里 優菜

24歳 看護師

ファミリーのお年寄り達 1

ファミリーのお年寄り達 2

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