第75話 検査と再検査

文字数 5,049文字

 4月。桜子は中学3年生になった。
 3年への進級時はクラス替えがないので、昨年と同じメンバーで再び1年が始まる。

 成長期真っ只中の桜子の身長は現在164センチで、クラスの女子の中では2番目に高い。対して161センチの健斗は男子の中で3番目に低かった。そんな二人が並んでいると、よく(のみ)の夫婦とからかわれるが、人からどう言われようと二人は全く気にしていない。
 それらの野次には多分にやっかみが含まれる。それはそれだけ二人が周囲から羨ましがられている証拠でもあった。 

 そんな事情もあって、今や健斗は低身長男子たちの希望の星である。恋愛に背の高さは関係ない。その前向きな姿勢が、これまで劣等感に苛まれてきた低身長男子たちの意中の女子への告白を後押ししていた。

 当の桜子も健斗との身長差はまったく気にしていない。とはいえ、それなりに気は遣っていて、デートの時はできるだけヒールの高い靴を履かないようにしたり、立ち位置に気を配ったりしている。
 そんな二人でも椅子に座ると身長の逆転現象が起こる。もちろん健斗の座高が高い――足が短いのが原因だが、それはよく周囲の笑いの種にされていた。

 今年も新入生の間では桜子の話題で持ち切りだ。去年は『超絶美少女天使』と呼ばれていたが、どうやら今年は「天然天使様」らしい。言い得て妙というべきか、誰が言い出したのかは不明だが、桜子のキャラを形容するのにこれ以上の言葉はなかった。

 努力の甲斐もあり、今では桜子の背泳ぎも記録を狙えるレベルまで達していた。実際に県大会へ出られるほどのタイムが出ており、来る夏の大会では上位入賞も夢ではない。
 このように桜子自身も期待されていたが、彼女が指導した後輩たちも着実に力をつけている。中には全市大会で優勝したり上位に食い込む者もいるほどだ。

 部活動中は厳しいけれど、一歩離れれば優しい先輩として桜子は後輩たちから慕われている。特に女子たちからは羨望の眼差しで見られており、事あるごとに仕草や話し方まで真似されるほどだ。
 スイミングスクール仕込みの桜子が持ち込んだ練習メニューは、今ではS中学水泳部の正式な練習方法として定着していて、実際に部員たちが顕著な成長を遂げていた。
 
 そのような実績もあり、顧問の根竜川は桜子に後輩の指導のほとんどを任せている。そもそも自身に水泳経験のない名ばかり顧問の根竜川には技術的な指導は無理なので、それも仕方のないところではあった。 

 3年生の桜子は、8月の大会を最後に部活を引退することになる。せめてそれまでは悔いが残らないようにと、一生懸命努力しようと決意していた。


 ◆◆◆◆


 桜子が住むS市から電車で6駅離れたところにあるM市のM中学校。柔道部の強さが有名で、これまでも柔道の強豪高校へ多数の推薦入学者を輩出している。
 松原剛史(まつばらごうし)も例に漏れず、すでに有名私立高校から柔道推薦の話が来ていた。
 
 朝に登校してきた剛史が下駄箱の中に封筒のようなものを見つけた。ハートのシールが貼られているところを見るとラブレターと思われた。
 剛史には「来る者は拒まず」のポリシーがある。だからラブレターの差出人には必ず会うようにしているが、ここ最近は興味を引くほどの女子はいなかった。
  
 剛史は面食いで有名である。たとえラブレターをくれた相手でも眼鏡に適わなければまったく相手にしない。昨年の夏に桜子と出会ってからは特に顕著で、ここ最近はどんなに可愛い女の子でもお断りしていた。

 事あるごとに思い出す、天使か女神と見紛うような美しくも愛らしい桜子の姿。一度(ひとたび)見てしまえば、有象無象の女子たちとは付き合える気がしない。
 あれだけの女の子とは今後も出会えることはないだろう。そう思わざるを得ない剛史は、以来誰とも付き合わずにフリーのままだった。
 
 このラブレターの送り主も桜子ほどの容姿ではないに違いない。けれどわざわざ自分のために書いてくれたのだから、一度は会うのが礼儀だ。
 仕方なく剛史は、放課後に指定された場所へ向かった。


 校舎裏の花壇前。そこへ着いた剛史は、遠目からでもわかるほどにすらりと背の高い女の子を見つけた。その女子は剛史に気付くと、緊張と喜びの入り混じった複雑な表情で口を開いた。
  
「と、突然の手紙をごめんなさい! そ、それと、来てくれてありがとうございます! 3年4組の東出真由美です。あ、あなたのことが好きです! 今すぐに返事を下さいとは言いません。お友達からでもいいので、お付き合いしてくれませんか!」
 
 間近で見た真由美の容姿は整っていた。背は高くスタイルも良く、顔だって可愛い。外見だけから判断するなら、性格は控えめで大人しそうだ。
 剛史は大人しい女の子を自分色に染めるのを好む。けれど相手が思い通りになった途端に飽きてしまう。

 この女子も滅多に見ないほど外見的レベルは高いが、桜子を知ってしまった後だとわざわざ付き合うほどとも思えない。
 剛史は真由美の挨拶から一拍置いて告げた。

「悪いが、俺は君をよく知らないし魅力も感じない。だから付き合えないな」

 雑談の一つすら交わすことなく即座に断りを入れる。直後に反応を確かめもせず踵を返そうとしていると、突然背後からバタバタと足音が聞こえてきた。
 振り返りつつ剛史が言う。

「追い縋っても無駄だ。俺はお前と付き合う気など――うごっあ!!」

 
 突然すごい勢いで突き飛ばされたかと思うと、気付けば剛史は盛大に吹き飛ばされていた。しかしさすがは柔道部員と言うべきか、即座に受け身を取ってそのまま構える。

 見れば目の前に小柄な少女が転がっていた。相当な勢いで突っ込んできたのだろう。制服のスカートが捲れ上がって白いパンツが丸出しになっている。
 咄嗟に剛史はそれが真由美であると思った。断りに逆上して殴りかかってきたのだろう。けれど少女の向こうに立ちすくむ本人を見るに至り、その断定が誤りだと気付く。
 
 一体何が起きたのか。そしてこいつは誰なのか。何一つ理解できないままに剛史が呆然としていると、パンツ女がスカートを押さえながら大声で喚き出す。興奮しているのか、その頬は赤く染まって見えた。

「最っ低! どれだけ勇気を出して真由美が告白したと思ってるのよ! それを魅力がないの一言で片づけちゃってさ! バッカじゃないの、この女たらし! ふざけんじゃないわよ!」

 謂れのない罵詈雑言。それを正面から浴びながら、剛史が改めて女子を眺めてみる。
 彼女はとても小さかった。身長は140センチあるかどうか。およそ中学生とは思えないメリハリのない幼児体形と、肩口まで伸びた栗色の髪。実年齢のわりに幼く見えるものの、妙な威圧感に満ちた鋭い目付きが特徴的な少女。

 剛史がこの状況を素早く理解する。どうやらこの女子は真由美の友人らしく、陰に隠れて様子を窺っていたのだろう。そして真由美の告白が断られたことに腹を立て、飛び出して来たに違いない。

「なんだよお前。どこから湧いて来た?」

「うっさいわね、人をボウフラみたいに言わないで! あのさぁあんた、振るにしたってもっとマシな言い方とかあるでしょ! なによ『魅力がない』って。真由美が可哀そうだと思わないの!?」

 この女は一体何を言っているのか。
 思いながら剛史が真由美を見ると、彼女は大粒の涙をこぼして泣いていた。確かにその姿は憐れみを誘う。友人ならば援護したくなるのも当然だろう。
 とはいえ、ラブレターを書いたのも告白したのも真由美が勝手にしてきたことである。別に剛史が頼んだわけでもなければ、断ったからと責められる道理はない。 

 負けじと剛史までもが少女を睨みつけ、その場に一触即発の雰囲気が漂い始める。後に腐れ縁となるこの二人の出会いは、互いに最悪の印象だった。


 ◆◆◆◆

 
 小林家では浩司の腰痛を検査するために病院へ行くことになった。
 検査結果がわかるのは1週間後。その際には家族も一緒に来るように言われたので、怪訝に思った浩司が質問してみても、別け隔てなく全員にお願いしていると答えるばかりで決して医師は詳しい説明をしようとしない。仕方なく二人は、そういうものかと納得せざる得なかった。

 病院からの帰り道。心配そうな妻へ向けて浩司がおどけたように言った。

「そんな顔するなよ、きっとなんでもないって。最近ちょっと重い物を持ったりと無理したからなぁ。認めたくないが、俺ももう年だ。体にガタがきたのかもしれん」

「なに言ってるの。お父さんにはまだまだ頑張ってもらわないといけないのよ。これから桜子は高校も大学もあるのだし、まだまだ先だと思うけど、花嫁衣裳だって決して安くないんだから」

「ははは、確かにな。俺はあいつのために長生きせにゃならん。これから学校を卒業して就職して、結婚して子供を産んで……全部見届けないと死んでも死に切れんからな」

「うふふ、そうね。私たちは桜子のために生きているんだもの。あの子の両親になると決めた時あらずっとね。――あぁ、でも本当に時が経つのは早いものね。あっという間に中学3年生なんだもの。そりゃあ、お互いに年も取るわけだわ」

 このとき楓子は何か予感めいたものを覚えていたのかもしれない。口では冗談めかして答えていたが、その瞳は決して笑っていなかった。


 検査結果の説明を受ける日。浩司は楓子を伴って病院へ来ていた。
 家族同伴と言われていたにもかかわらず、本人より先になぜか楓子が医師に呼ばれる。聞けば、あらかじめ話しておきたいことがあるとのこと。

 仕方なく浩司が待合室で待っていると不意に名前を呼ばれて診察室に入る。すると楓子が顔面を蒼白にしており、どうしたって平静を保っているようには見えなかった。 
 その様子が気になりつつも医師から話を聞けば、結果は要再検査。
 なんでも、左の腎臓に影があるらしく、それが何であるかを知るために詳しい検査をしなければならないそうだ。

 家に帰った浩司が診察室でのことを楓子へ尋ねてみた。しかし彼女は、浩司が聞いたのと同じことしか聞かされていないと言い張るばかり。
 何か隠しているのだろうか。ふと浩司は思ったものの、その時はあまり深く考えずに軽く流したのだった。

 3日後に浩司は超音波検査とCT検査を受け、さらにその1週間後に再び楓子とともに検査結果を聞きに来た。
 前回同様、先に楓子が呼ばれて、その10分後に浩司が呼ばれた。そこで見た楓子の顔は以前にも増して青ざめて、医師の表情もやや沈んでいるように見えた。
 嫌な予感を覚えた浩司は、姿勢を正しつつ医師が口を開くのを待った。

「いいですか小林さん。単刀直入に申し上げますが、あなたの腎臓に腫瘍が見つかりました」

「腫瘍……?」

「はい、腫瘍です。左の腎臓に一つ。それでその腫瘍ですが、良性なのか悪性なのかは実際に開けてみなければわかりません。どのみちそれが原因で腎機能が低下していますので、手術による摘出は避けられないでしょう」

「えっ……? 摘出……ですか?」

「大丈夫ですよ、心配しなくても。もともと腎臓は二つありますから、一つくらい取っても問題ありません。それに今は傷口も小さく、身体に負担の少ない手術もありますからね。何も心配いりませんよ」 
 
 思っていたよりも大事である。その事実に浩司は思わず隣の楓子を見つめてしまう。
 対して楓子は安心させるような微笑を返したが、そこには隠し切れない戸惑いと混乱が透けて見え、余計に浩司を不安にさせた。
 患部が患部だけに緊急に手術が必要だと医師は言う。したがって明日の午後に入院し、明後日には手術をすることがその場で決まったのだった。

 
 その日の夜。しばらく断酒を強いられる入院を明日に控えて、浩司は深夜まで酒を飲んでいた。
 家に帰ってきてからも、医師に何を言われたのかを浩司は楓子に尋ねなかったし、楓子も何も言わない。
 それでも長年連れ添った夫婦である。以心伝心と言うべきか、楓子が何かを隠しているであろうことは浩司にはわかっていた。しかし敢えて言わないということは、きっとそれを知ることが浩司のためにならないからなのだろうと理解していた。
 
 予感はある。それも最悪の。
 しかし浩司は決して言葉に出さない。なぜなら、それを口にした途端に現実のものとなりそうだったからである。
 絶えず襲い掛かる目に見えない不安感。それを紛らわせるために、浩司は酒を飲む手を止めることができなかった。
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