第16話 本当のパパとママ

文字数 5,291文字

 春の訪れとともに、桜子は小学2年生になった。
 身長は伸びて、クラスの中で真ん中あたりに位置している。人種的特徴による顔の小ささ、手足の長さはより際立つようになり、たとえ同じくらいの身長であっても、他の子供に比べてすらりと背が高く見えた。

 肩甲骨まで届く金糸のような髪をツインテールにまとめ上げ、色とりどりのリボンで飾り立てる。朝の光の中で金色(こんじき)に輝く桜子の髪を結う楓子の手つきは、これ以上ないほどの深い愛情に満ちていた。
 今やこれは朝の日課となっており、ささやかではあるけれど、小林家が一日を始めるための大切な儀式だった。


 そんなある日のこと、学校の廊下が突如として不快な声に包まれた。入学してからというもの、桜子は比較的順調な学校生活を送っていたが、中にはその特徴的な外見をからかう者もいる。もはやその景色は見慣れたものになっていた。

「あっ、外人だ! 外人がいるぞ! おいお前、ここは日本の学校だから、外人は自分の国へ帰れよ!」

 廊下を歩く桜子を指差しながら、別のクラスの男子が不遜な言葉を浴びせてくる。けれど、慣れている桜子は、かまわずそのまま歩き続けようとした。
 無視された。そう思った男子の言葉がさらに過激になっていったが、変わらず桜子は一言も発さない。その沈黙は彼女の心情を雄弁に語っていた。

「な、なんだよ、無視すんなよ! 外人のくせに生意気だぞ!」

 まったく意味がわからない。「外人のくせに」とは、一体何なのか。あまりの理不尽さに思わず言い返したくなるのだが、かえって相手を喜ばせてしまうからと、敢えて桜子は無視を決め込む。するとその時、突然背後から大きな声が聞こえてきた。

「おい、お前! 桜子に変なこと言うんじゃねぇよ!」

 振り向くとそこには健斗がいた。廊下に轟く下劣な言葉を耳にした彼は、桜子がいじめられていると察して隣の教室から駆けてきたのだ。それを見た男子生徒が慌てて反論する。

「な、なんだよお前! 外人の仲間か!? あ、あっち行けよ、お前に関係ないだろ!」

「関係なくねぇよ! お前こそなんなんだ!? 桜子を虐めたら俺が許さねぇからな!」

 決して体の大きくない、いや、むしろ小さい方から数えた方が早いくらいの健斗だが、その声量と迫力は体格に勝る相手の方が後退るほど大きかった。

「くそっ……もう行こうぜ!」

 男子生徒たちが去った後、桜子が何も言わずに健斗の手を握る。健斗にとってその温もりは、このうえない勇気となった。

「健斗、いつも助けてくれてありがとう。とっても嬉しいよ」

 わずかに顔色を失いながらも、桜子が感謝の言葉を紡ぎ出す。しかし健斗はその顔を直視できずに視線をそらしてしまう。頬を染め、唇をわずかに引き結びながら返事を返した。

「べ、べつに……だ、だって俺は、お前を守るって約束したからな……」


 その約束は二人が4歳の春に交わしたものだった。幼き日の幼稚園の記憶。桜子が隣のクラスの男の子に髪色をからかわれた時に、健斗が盾となったのだ。それは彼が初めて「守る」と言った瞬間だった。
 その時のことを桜子自身は憶えていなかったが、健斗にとってのそれは、何よりも心に深く刻まれたものだった。

 健斗は桜子よりも小柄なので、少々頼りなく見えるかもしれない。しかしその外見とは裏腹に、彼は強い意志を持ってかつての約束を果たそうとしていた。その小さな体からは想像もつかないほどの勇気と決意が漲っていたのだ。

「ありがとう。健斗は優しいね」

「そ、そんなことねぇよ……」

 幼馴染の少女の優しげな笑顔と温かな視線。照れくささから逃れるように、頬を染めたまま健斗が走り去っていく。桜子の眼差しを受け止める勇気が、その時の健斗にはなかった。
 ややもすれば転びそうになるほどの駆け足は、彼自身の感情と桜子への思いが複雑であることを物語っていた。


 思えば久しぶりに「外人」と言われた。その言葉にチクリと心が痛む。ここ最近は正面からそう言われたことがなかったので、桜子はすっかり油断していた。

 自身が両親の本当の子供でないことは、桜子も薄々気づいていた。
 これまでも心無い子どもたちから何度も「外人」と言われてきたのだから、いかに幼い彼女であってもその言葉の意味くらいはわかる。
 物心ついた時から両親とは一緒だったし、途中で貰われてきた記憶もない。しかし自分の容姿はあまりの彼らと違うのだ。

 これまで怖くて訊く気になれなかったが、そろそろ真実を明らかにしてもいいのではないか。
 健斗の背を見送った桜子の瞳には、明らかな決意が宿っていた。


 学校から帰った桜子の様子が変だと楓子はすぐに気付いた。いつもなら帰ってくるなりおやつを食べるのに、今日は顔を俯かせて黙ったままだ。見れば桜子は肩を震わせて何かを我慢しているように見える。
 楓子は娘の前に膝をついて顔をのぞき込んだ。

「ねぇ桜子、どうしたの? 学校でなにか嫌なことでもあった?」

 優しい母の問いかけに、何度か桜子は口を開こうとしたのだが、結局は何も言葉にできずに黙ってしまう。
 すると楓子は、柔らかく娘の頭を撫でながら言葉を促した。

「ねぇ、なにか言いたいことがあるんじゃないの? 遠慮しないで言ってごらんなさい」

「……」

「あらあら。せっかくの可愛い顔が台無しじゃない。そんなに言いづらいことなの? ママに話してくれない?」

 なおも覗き込む母親の顔。ついに決心した桜子は重い口を開き始めた。

「ねぇママ。あたしは……ママとパパの本当の子供じゃないの?」

 思わず楓子はハッとしてしまう。そして頭の中で何度も娘の言葉を反芻する。
 幼稚園の時にも似たようなことがあったけれど、その時は桜子の理解が追いついていなかったので有耶無耶にした。
 しかしその桜子も今や7歳。言葉の意味をしっかりと理解しているに違いない。もはや適当に誤魔化すことはできないだろう。
 楓子は真実を伝える時が来たのだと感じた。 

「桜子……どうしてそんなことを言うの? 何かあったの?」

「あたしはいつも外人って言われる。あたしがパパとママに似てないのは神様にお願いしたからだって前に言っていたけど……本当は違うんでしょう?」

 確かにあの時の楓子は咄嗟にそう言ってしまったのだが、それを桜子は今でも憶えているらしい。ともすれば責任逃れと言われかねない己の言動の責任を取る意味でも、やはりここは話をしなければならない。そう思った楓子はついに心を決めた。

「とりあえず二階へ行こうか。そこでお話ししようね」

 顔に覚悟の色を浮かべながら、楓子は優しく娘を促した。


 促されるままにリビングのソファに座った桜子は、学校での出来事や自身の思いを訥々と口にする。その隣で娘の肩を抱きながら、楓子は時折うなずいた。
 自分は両親の実の子ではない。その言葉の意味を理性では理解しつつも感情が邪魔をする。そんな桜子の感情の揺れを察知した楓子は、娘の心のもつれを丁寧にほどいていこうと決めた。

「ねぇ桜子。あなたはね、ママのお腹から生まれていないの。ママとは違う人から産まれたのよ。でもね、その人は事情があって赤ちゃんだったあなたを育てられなくて、代わりにパパとママが桜子のパパとママになったの」

「……あたしを産んだ人ってどんな人? いまどこにいるの?」

「それはわからないわ。パパもママもその人とは会っていないから。今どこにいるのかもわからない。でもね、きっとあなたと同じ目と髪の色をした、とっても素敵な人だと思うの」

 母親の手が優しく髪を撫でる中、桜子は思いを巡らせて再び口を開いた。

「じゃあ……ママはあたしを産んでいないけど、赤ちゃんだったあたしを育ててくれたの?」

「そうね。私たちはあなたが赤ちゃんだったときからずっと育ててきたのよ。私のお腹から生まれていないから血は繋がっていないけれど、本当のパパとママのつもりであなたを愛してきたの。家族としてね」

「それじゃあ、あたしはママから生まれてないけど、ママとパパはあたしの本当のママとパパと同じってこと?」

 楓子の言葉は桜子の心にストンと落ちた。隣に座る母親の顔を見上げながら、どこかスッキリとした顔をして見せる。その彼女へ楓子が答えた。

「そうよ、同じよ。私たちはずっとあなたのパパとママなの。それはこれから先もずっと変わらないわ」

「うん、わかった……」

 桜子が楓子の胸に顔を埋めて大きく深呼吸する。それは愛する母親に甘える娘以外のなにものでもなく、今やそこには一切の不安も(わだかま)りも見えなかった。

「あぁ……ママの匂いがする……やっぱりママはママなんだね」

「そうね。ママはあなたのママなのよ。これまでも、これからも、ずっとね。ありがとう、桜子……」

 楓子は強い抱擁の中で最愛の娘の体温を感じ取りながら、暫し涙を流し続けた。その涙は深い愛情と複雑な感情の交錯する海に浮かぶ、小さな光の粒子のように静かに輝いて見えた。


 夜も深まり、桜子が夢の世界に旅立ったころ、楓子は浩司へその日の出来事を静かに語り始めた。目を閉じた浩司は、妻の言葉に耳を傾けて目尻にじわりと涙を浮かべる。
 いつかは娘へ真実を伝えなければいけないと覚悟していたが、その重すぎる責任を妻一人が担ってしまった。それへの深い感謝と申し訳なさを口にした。

「そうか、ありがとう。お前一人にすべてを任せてしまって、本当にすまなかった……」

 そう告げた浩司はグラスに新たな酒を注いで楓子の前へ差し出す。そして二人は乾杯を交わして静かに飲み始めた。
 その夜、浩司は瓶が空になるまで黙々と酒を飲み続けた。それには決して言葉では言い表せない複雑な思いが込められていた。


 ◆◆◆◆


 小学2年生の夏。8月の柔らかな陽光が街を照らしていた。
 今日も今日とて桜子は、家業である酒屋の手伝いに勤しんでいた。未だ幼い彼女にできることは限られいたが、商品を丁寧に陳列し直したり、店先を箒で掃くなど、できる範囲で仕事をこなしていた。

 その懸命な姿を楓子が店内の片隅から温かく見守る。それからゆっくり桜子に近づいて優しく話しかけた。

「ねぇ桜子。あなた、なにか習い事をしてみない?」

 手を止めた桜子が、首を傾げながら母親を見る。

「習い事……ってなに?」

「えぇと、なにか好きなこと、やってみたいことを習うことかな」

「うーん……別に習いたいことはないかなぁ。いまはお店のお手伝いがあるし」

「それじゃあ、塾に通ってお勉強する?」

「お勉強はいや。あのね、ママは子供の頃になにか習ってたの?」

「ママは水泳を習っていたよ。だから今でも泳ぎは得意なの」

 自慢げな顔をする母親。それを見つめて桜子は言った。

「へえ、ママって泳ぐのが得意だったんだ。ぜんぜん知らなかったよ。――うん、それじゃあ、あたしも水泳を習おうかな。ママみたいに泳げるようになりたい」

「あらあら、そんなに簡単に決めちゃっていいの? 他にも色々あるじゃない、習字とか英会話とか」

「だからお勉強は嫌だってば。――うーん、やっぱり泳げるようになってみたいな。だから水泳がいい」

「わかったわ。でもね、もう少しだけ考えてみましょうか。今度、もう一度訊くから、その時にも変わらず水泳がしたいと思ってたら申し込んであげる」

「うん、いいよ。あたしももう少し考えてみるね」

 その1週間後。桜子は週に2日、水泳教室へ通うようになった。


 ◆◆◆◆


 3年生になった。 
 新たな始まりとともに桜子は悩んでいた。
 
 彼女の心の奥深くには、時折顔を出す「別の人の記憶」が存在する。それらはぼんやりとした不鮮明な映像のようで、まるで別の誰かの視点から見た世界を自分の記憶として思い出しているような奇妙な感覚を伴っていた。
 これまではその意味を理解できずにいたが、成長した今となっては、それが何を示しているのかを少しずつ理解し始めていた。

「これってもしかして、前世の記憶っていうやつなんじゃないのかなぁ……」
 
 最近の桜子は、前世の記憶を持つ主人公が活躍するアニメに夢中だった。それが彼女の内面に深い共鳴を呼び起こしていた。時折思い出す記憶のような断片がただの想像や夢ではなく、実際に別の人間の経験なのではないかという疑念が心を捉えて離さなかった。

 ただの夢や幻想として片付けるには、この映像はあまりに鮮明かつ具体的すぎた。見たこともない光景や知っているはずのない人々が、まるで生きているように記憶の中に現れる。特に自分が知る人物の若い頃の姿は、リアリティがありすぎて驚かされるばかりだった。

 ある時、桜子は学校のテストを受けている光景を目にする。答案用紙には「鈴木秀人」と記されており、自分の前世が男であったことに衝撃を受けた。
 
 この不思議な体験を母親に相談しようと何度か思い立ったものの、桜子は自分の言葉がいかに非現実的かを理解していたため、結局は口に出すことができなかった。
 また、これらが日常生活に直接的な影響を及ぼすことがなかったので、意図して考えないようにしながら、自分の中で静かに収めようとしたのだった。
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