第27話 奪われた笑顔

文字数 3,040文字

 9月上旬。誘拐事件から2ヵ月が過ぎた。
 桜子は従前どおり学校へ通っているが、明らかに以前ほど笑わなくなっていた。教室では窓の外をぼんやり眺めていることが多く、それを見た同級生たちが変に気を遣い、静かに距離を保つようになった。

 事件の内容については、担任から生徒たちへ簡単に説明されていた。もっとも、雑誌に掲載されるほどの事件だったのだから、たとえ説明がなくとも生徒や保護者たちは事件の全容をある程度理解していたのだろうが。
 健斗、友里、奈緒、陽菜、そして翔などの親しい友人たちは、以前と変わらず桜子と接しようとしてくれる。しかし、いささか行き過ぎた配慮が見え隠れするその言動は、まるで腫れ物に触れるかのようだった。
 
 事件の後、桜子には大きな変化があった。父親と同級生は問題ないが、それ以外の成人男性に近寄ることができなくなったのだ。
 周囲に人がいたり、相手と距離が保たれている場合は問題ないが、手が届くほどの距離で男性と二人きりになると突如全身が震え始め、頭を抱えて(うずくま)ってしまうようになった。

 この状態は、酒屋の奥で常連客と二人きりになった時に初めて発症した。この異変に気付いた両親が桜子にカウンセリングを受けさせた結果、「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)と診断されてしまい、発症から2ヵ月近くが経過した現在も克服できていない。


 箱根の刑事裁判が結審した。
 懲役7年の実刑が言い渡され、上告せずに判決を即時に受け入れることになった。論告の「およそ身勝手な行動であり、情状酌量の余地は全く無い」という、ここまで辛辣なものもそうないであろう裁判官の言い捨て方が印象的だった。

 裁判では桜子に対する箱根の行いが詳細に語られた。すると、そのあまりの内容に楓子は気を失いそうになり、浩司は激高して箱根に殴り掛かる寸前となった。

 箱根の弁護側陳述で述べられたことがある。そこでは桜子に反撃された際の状況が詳らかにされたのだが、箱根は両手首の腱と両足のアキレス腱を切断されて、まるで芋虫のように転がされていたそうだ。
 それはヤクザの私刑(リンチ)のように陰惨かつ計画的な行いであり、そこには、なにかしらの作為を覚えると言われてしまった。

 とはいえ、それは「箱根の刑を軽くするための印象操作に過ぎない」と検察には一蹴されていたし、裁判官にも「なんら落ち度のない幼気(いたいけ)な12歳の少女が、暴力から逃れようと必死にナイフを振り回した結果に過ぎず、意図的にそうしたとは到底認められない」と、一言で切り捨てられていたのだが。

 これで事件には一区切りがついた。しかし、どのような結果になろうとも、両親には絶対に許せないことがある。
 それは、桜子の笑顔を奪ったことだった。

 桜子は事件の後から明らかに笑わなくなった。
 かつては常に微笑むような表情を見せていたにもかかわらず、今では感情を感じさせない能面のようである。感情の起伏は乏しくなり、以前のように泣いたり笑ったりする桜子の姿が今ではとても懐かしかった。

 それでも時は止まってくれない。被害者やその家族が抱える傷がどれほど深くても、時間が経つにつれて事件の影は薄れていく。ゆっくりとではあるが、桜子の生活は徐々に以前の状態へと戻りつつあった。


 ◆◆◆◆

 
 9月下旬。
 本来ならば修学旅行に参加する予定だったが、桜子の状態を心配した両親は彼女を行かせることに躊躇した。本人の意向をしっかり確認し、桜子自身もパニックの発症を恐れて旅行への参加を望まなかったため、同級生たちが旅行に出かけている間、桜子は家で静かに過ごした。
 
 10月中旬
 小学生最後の水泳大会が開催された。しかし練習に参加できなかった桜子は、大会にもエントリーできなかった。コーチたちは非常に残念がっていたものの、桜子の心情を思いやり、無理を強いることはしなかった。こうして、桜子の小学生最後の水泳大会は終わりを迎えたのだった。


 来年の中学校進学に向けて家族会議が開かれた。議題は、近所の公立校に進むか、女子校を含めた私立校へ進むかというもの。
 桜子には小学校進学時に、友達と離れたくないという理由で近所の公立校へ進学した経緯がある。しかし、最近の桜子の交友関係は疎遠になっていたので、改めてここで考え直すことにした。

 現在の同級生たちは桜子の事件について知っているため、仮に同じ中学校へ進学したとすると、今までと同様に気を遣われたり、遠慮がちな対応をされる可能性が高い。であるならば、まったく新しい環境で新たなスタートを切る方が、桜子自身や周囲にとっても良いのかもしれない。
 などなど、様々な状況を考慮しつつも、両親は桜子の意向の尊重を第一に考え、彼女の本心を探るように慎重に話を進めていた。 

「――という理由で、私立校へ行くのも一つの方法だと思うんだが、お前はどう思う?」

 父親に尋ねられた桜子は、青くて美しいけれど、生気のない瞳で両親を見つめた。
 
「みんなと違う学校に行けるの? あたしのことを全然知らない人がいる所に行けるの?」

「そうだね。桜子を知らない人ばかりの学校もあるね」
 
「そう……。じゃあ、そこでいい……」

 こうして桜子が進学する中学校は、隣の市にある私立女子校に決まった。


 健斗は悩んでいた。
 最近、桜子が笑わない。教室の中でも常に一人でいることが増え、クラスメイトたちも彼女を避けるようになった。あのような事件に巻き込まれた後では仕方がないと思うものの、この現実には心が痛む。けれど、自分に何ができるのか、どうすれば桜子を助けられるのかがわからなかった。
 自分にできることは限られている。今までどおりに桜子と接し、事件についての記憶を少しでも早く薄れさせることが、彼女を支える最善の方法なのではないだろうか。 

 その日の夕方。お遣いを済ませたスーパーからの帰り道。健斗が小林酒店の前を通りかかると、桜子が店の前でチラシらしき物を通行人へ配っているのを見かけた。

 健斗が立ち止まって眺める。すると彼女は、通行人に近付いたり離れたりを繰り返す不可解な行動をしていた。健斗にはその行動の意味がすぐには理解できなかったが、しばらく観察しているうちに、男性だけを選んでそうしているのがわかってくる。そしてチラシを受け取った男と桜子が、立ち話をする様子も窺えた。
 
 健斗は驚きのあまり目を見開いた。あの事件以降、桜子は成人男性に近づけなくなっており、健斗はそれが精神的な後遺症であるとも聞いていた。そして彼女は、それを克服しようとして、見知らぬ男性通行人に接触しているのだとふと気づく。

 泣きそうな顔で、何度も見知らぬ男にチラシを渡し続ける桜子。健斗は衝動的に走り出していた。涙にくれながら、桜子の手を握り、そのまま酒店の中へ引き込んだ。

「もういい! もういいよ! ごめん桜子。俺は助けるって約束したのに、全然助けられていない! 俺は……俺は……大馬鹿野郎だ!」

「け、健斗……? ど、どうしたの? 何を言ってるの?」

「ごめん、桜子。話をしてよ……話してくれよ。俺は、お前の話をもっと聞きたいんだ」

 突然やって来たかと思えば、感情を高ぶらせ、目の前で健斗が大声を出し始めた。
 その姿に涙も忘れて面食らった桜子だったが、次第に冷静になって穏やかな口調で口を開いた。

「……とりあえず2階に来て。お店だと迷惑になっちゃうから」

 そう言うと桜子は、健斗の手を取って2階のリビングへと上がって行った。
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