第20話 男心とお年頃
文字数 2,540文字
小学5年生になった桜子は、相変わらず鈴木秀人の記憶を見続けていた。しかしこれが、日常生活に直接的な影響を与えることがなかったため、特に問題視していなかった。
時に既視感を覚えることもあったが、大抵は過去の記憶で見たものだ。実際に経験していないことや、見たことのないものに既視感を覚えるなどとても不思議な感覚だが、桜子は深く悩む必要がないと自らを説得し、そのまま受け入れるようにしていた。
ある朝、いつも通りに桜子の家まで迎えに来た健斗が、言葉を選びながら切り出した。
「あ、あのさ……明日から別々に学校へ行かないか?」
突如として浮かび上がった提案に、桜子は驚きを隠せなかった。これまでの4年間、毎日一緒に登校してきたにもかかわらず、今になってやめると言うのだ。そこには何か特別な理由があるに違いない。
なので桜子は尋ねてみることにした。
「ねぇ健斗。どうしたの急に。何かあったの?」
「い、いや……べつに何もないけど……」
目を合わせるのを避けるように視線を彷徨わせながら、言葉を探して口をもごもごさせる。無口で不愛想ながらも、普段ははっきりと物を言う健斗にとって、この態度は珍しかった。
そんな幼馴染の様子に不安を覚えた桜子は、その思いを隠さず口にした。
「あたし、健斗に何か嫌な思いをさせた? それなら謝るけど……」
直後に健斗が桜子の正面に向き直る。
「だから、何もないって」
「で、でも、あたし……健斗が急にそんなことを言うなんて……やっぱり何かあるんでしょう?」
「べつに何もないって!」
「だ、だって――」
「うるさいな! 何もないって、さっきからそう言ってるだろ!」
「あっ!」
桜子が話を終える前に、健斗が唐突に会話を終わらせて走り去っていく。一人残された桜子は、訳がわからず肩を落とし、とぼとぼと重い足取りで学校へ向かった。
学校の近くで友里と奈緒に合流すると、只ならぬ様子の桜子へ友里が尋ねてくる。
「おはよう桜子。どうしたの? なんかあった? 健斗はどうしたの?」
「あっ、友里ちゃん……。わかんない。急に怒り出して、走って行っちゃった……。あたし、何か悪いことしたかなぁ」
「ふぅーん……変な奴。わたし、あとで健斗に聞いてみるよ」
友里は健斗と同じクラスなので、あとで理由を聞いてくれるらしい。そんな友人へ桜子は感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、友里ちゃん。助かるよ」
「わたしに任せなさいって。それじゃあ、わかったら知らせるね」
教室の自分の席で外をぼんやりと眺めていた健斗は、桜子に取った嫌な態度を今さらながらに後悔していた。
二人は1歳の頃から兄妹のようにして育ち、しっかり者の桜子が姉役を、ぼんやりとした健斗が弟役を務めてきた。最近は互いに忙しく、学校以外での交流は減っていたものの、いつも朝のの登校時ばかりは仲良く会話を楽しんでいた。
それを他の男子たちから馬鹿にされてしまった。
健斗は常に桜子と一緒にいる。朝は一緒に学校へ行き、学校内でも近くにいることが多かった。するとその関係から、健斗が桜子のことを好きなのだと、男子生徒たちから冷やかされてしまったのだ。
それは健斗にとってとても恥ずかしいことだったので、彼は心の内で自分なりの理屈を作り上げてしまった。
自分と桜子はただの幼馴染みなだけで、べつに好きなわけではない。
みんなが勝手に決めつけて冷やかしてくるが、まったく冗談ではない。これ以上誤解されるのはまっぴらだ。
だからもう桜子と一緒に学校へは行けない。
そんな思いに駆られた健斗だが、やはり良心の呵責というものはある。彼がそれに押しつぶされそうになっていると、そこへ友里が駆け寄ってくる。
「健斗! あんた、桜子ちゃんになにしたの!? あの子、泣いてたよ!」
開口一番に放たれた非難の言葉。思わず健斗は狼狽えてしまったが、すぐに平静を取り繕って言い返した。
「なんだよ友里。俺はなにもしてねぇよ。もう女子と一緒に学校へ行くのが嫌になっただけだって!」
普段から不愛想なので誤解されがちだが、本来、健斗は優しい性格をしている。だから不必要に声を荒げたり、人を責めたりすることはないはずなので、意図してそういう態度を取っているのは明らかだった。
「あっそ。わかった、もういい」
これ以上の追及は得策ではない。そう判断して引き下がろうとする友里を健斗が睨みつける。しかしその裏では、予想に反して追及を逃れられたことに、健斗は密かに胸を撫で下ろしていた。
友里が多くの女友達から情報を集めた結果、健斗の態度の理由が明らかになる。それは彼が、いわゆる「お年頃」であることに起因していた。
桜子との関係を友人たちに冷やかされたことで、健斗は桜子を必要以上に意識するようになってしまったらしい。
理由は判明した。しかし、健斗の心が落ち着くのに時間が必要なのは間違いなく、第三者の介入はさらに状況を悪化させるだけだろう。
友里が昼休みにこの事情を説明したとき、桜子は初めこそ驚いたものの、次に安堵の表情を見せて感謝の言葉を口にした。
色々と事情はあるのだろうが、少なくとも自分は健斗に嫌われたわけではなかった。
桜子にとって、今はそれだけで十分だった。
健斗が朝に迎えに来なくなったことに、楓子はすぐに気づいた。事情を尋ねてみても、桜子は最後まで具体的な説明を避けて一人で学校へ向かってしまった。二人が喧嘩をしたわけではないことは明らかになったものの、その状況に楓子は心配の色を隠せずにいた。
「健斗君、急にどうしたのかしらねぇ。なにかあったのかしら……」
呟きながら桜子の背中を楓子が見送る。それを店の奥から眺めていた浩司だが、彼にはその理由が思い当たっていた。
「なんだ、お前。わからないのか?」
「えっ?」
「えぇと、その、あれだ。つまりは、健斗もお年頃ってことなんだろ」
「あ……あぁ、なんだ、そういうことね。――男の子って難しいわねぇ。子供だと思っていたけれど、少しずつ大人になっていたのねぇ」
「男心ってぇのは複雑だからなぁ。思えば、俺もそんな頃があったなぁ……」
子供の頃の自分を思い出して、遠くを見つめる浩司。その姿を見つめながら、楓子は小さな溜息を吐いた。
時に既視感を覚えることもあったが、大抵は過去の記憶で見たものだ。実際に経験していないことや、見たことのないものに既視感を覚えるなどとても不思議な感覚だが、桜子は深く悩む必要がないと自らを説得し、そのまま受け入れるようにしていた。
ある朝、いつも通りに桜子の家まで迎えに来た健斗が、言葉を選びながら切り出した。
「あ、あのさ……明日から別々に学校へ行かないか?」
突如として浮かび上がった提案に、桜子は驚きを隠せなかった。これまでの4年間、毎日一緒に登校してきたにもかかわらず、今になってやめると言うのだ。そこには何か特別な理由があるに違いない。
なので桜子は尋ねてみることにした。
「ねぇ健斗。どうしたの急に。何かあったの?」
「い、いや……べつに何もないけど……」
目を合わせるのを避けるように視線を彷徨わせながら、言葉を探して口をもごもごさせる。無口で不愛想ながらも、普段ははっきりと物を言う健斗にとって、この態度は珍しかった。
そんな幼馴染の様子に不安を覚えた桜子は、その思いを隠さず口にした。
「あたし、健斗に何か嫌な思いをさせた? それなら謝るけど……」
直後に健斗が桜子の正面に向き直る。
「だから、何もないって」
「で、でも、あたし……健斗が急にそんなことを言うなんて……やっぱり何かあるんでしょう?」
「べつに何もないって!」
「だ、だって――」
「うるさいな! 何もないって、さっきからそう言ってるだろ!」
「あっ!」
桜子が話を終える前に、健斗が唐突に会話を終わらせて走り去っていく。一人残された桜子は、訳がわからず肩を落とし、とぼとぼと重い足取りで学校へ向かった。
学校の近くで友里と奈緒に合流すると、只ならぬ様子の桜子へ友里が尋ねてくる。
「おはよう桜子。どうしたの? なんかあった? 健斗はどうしたの?」
「あっ、友里ちゃん……。わかんない。急に怒り出して、走って行っちゃった……。あたし、何か悪いことしたかなぁ」
「ふぅーん……変な奴。わたし、あとで健斗に聞いてみるよ」
友里は健斗と同じクラスなので、あとで理由を聞いてくれるらしい。そんな友人へ桜子は感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、友里ちゃん。助かるよ」
「わたしに任せなさいって。それじゃあ、わかったら知らせるね」
教室の自分の席で外をぼんやりと眺めていた健斗は、桜子に取った嫌な態度を今さらながらに後悔していた。
二人は1歳の頃から兄妹のようにして育ち、しっかり者の桜子が姉役を、ぼんやりとした健斗が弟役を務めてきた。最近は互いに忙しく、学校以外での交流は減っていたものの、いつも朝のの登校時ばかりは仲良く会話を楽しんでいた。
それを他の男子たちから馬鹿にされてしまった。
健斗は常に桜子と一緒にいる。朝は一緒に学校へ行き、学校内でも近くにいることが多かった。するとその関係から、健斗が桜子のことを好きなのだと、男子生徒たちから冷やかされてしまったのだ。
それは健斗にとってとても恥ずかしいことだったので、彼は心の内で自分なりの理屈を作り上げてしまった。
自分と桜子はただの幼馴染みなだけで、べつに好きなわけではない。
みんなが勝手に決めつけて冷やかしてくるが、まったく冗談ではない。これ以上誤解されるのはまっぴらだ。
だからもう桜子と一緒に学校へは行けない。
そんな思いに駆られた健斗だが、やはり良心の呵責というものはある。彼がそれに押しつぶされそうになっていると、そこへ友里が駆け寄ってくる。
「健斗! あんた、桜子ちゃんになにしたの!? あの子、泣いてたよ!」
開口一番に放たれた非難の言葉。思わず健斗は狼狽えてしまったが、すぐに平静を取り繕って言い返した。
「なんだよ友里。俺はなにもしてねぇよ。もう女子と一緒に学校へ行くのが嫌になっただけだって!」
普段から不愛想なので誤解されがちだが、本来、健斗は優しい性格をしている。だから不必要に声を荒げたり、人を責めたりすることはないはずなので、意図してそういう態度を取っているのは明らかだった。
「あっそ。わかった、もういい」
これ以上の追及は得策ではない。そう判断して引き下がろうとする友里を健斗が睨みつける。しかしその裏では、予想に反して追及を逃れられたことに、健斗は密かに胸を撫で下ろしていた。
友里が多くの女友達から情報を集めた結果、健斗の態度の理由が明らかになる。それは彼が、いわゆる「お年頃」であることに起因していた。
桜子との関係を友人たちに冷やかされたことで、健斗は桜子を必要以上に意識するようになってしまったらしい。
理由は判明した。しかし、健斗の心が落ち着くのに時間が必要なのは間違いなく、第三者の介入はさらに状況を悪化させるだけだろう。
友里が昼休みにこの事情を説明したとき、桜子は初めこそ驚いたものの、次に安堵の表情を見せて感謝の言葉を口にした。
色々と事情はあるのだろうが、少なくとも自分は健斗に嫌われたわけではなかった。
桜子にとって、今はそれだけで十分だった。
健斗が朝に迎えに来なくなったことに、楓子はすぐに気づいた。事情を尋ねてみても、桜子は最後まで具体的な説明を避けて一人で学校へ向かってしまった。二人が喧嘩をしたわけではないことは明らかになったものの、その状況に楓子は心配の色を隠せずにいた。
「健斗君、急にどうしたのかしらねぇ。なにかあったのかしら……」
呟きながら桜子の背中を楓子が見送る。それを店の奥から眺めていた浩司だが、彼にはその理由が思い当たっていた。
「なんだ、お前。わからないのか?」
「えっ?」
「えぇと、その、あれだ。つまりは、健斗もお年頃ってことなんだろ」
「あ……あぁ、なんだ、そういうことね。――男の子って難しいわねぇ。子供だと思っていたけれど、少しずつ大人になっていたのねぇ」
「男心ってぇのは複雑だからなぁ。思えば、俺もそんな頃があったなぁ……」
子供の頃の自分を思い出して、遠くを見つめる浩司。その姿を見つめながら、楓子は小さな溜息を吐いた。