第61話 第二の人格

文字数 3,964文字

「どうして、こうなった……」 

 頭を抱え、必死に考えてみたところで元に戻る方法がわからない。
 桜子の姿のまま秀人が顔を青くする。もしかすると、次に目覚めたときには桜子に戻っているかもしれない。根拠もなくそう考えた秀人は、とりあえず二度寝することにした。

「ねぇ桜子、どうしたの? 早く起きないと学校に遅刻するわよ」

 耳元で声が聞こえる。どうやら母親が起こしに来たようだ。
 ……そうか思い出した。ついさっき二度寝したのだった。
 もう学校へ行く時間だ。早く起きないと……

 がばっ!

 金髪の少女が勢いよくベッドから起き上がる。果たしてその中身はどちらだろうか。

「……俺だ」

 予想していたとはいえ、懸念が現実のものとなってしまった。秀人が思わず天井を見つめる。怪訝に思った楓子が顔を覗き込んできた。
 怪しまれてはマズい。とりあえず秀人はニコリと微笑んでみたものの、それは彼特有の片方の口角だけを上げた皮肉っぽく見えるものだった。

「ど、どうしたの、変な笑い方して……寝呆けてるの? 大丈夫?」

 いや、全然、まったく、1ミリも大丈夫ではない。
 正直にそう(こぼ)したくなる秀人だが、まさか言えるはずもない。仕方なくベッドから起き上がろうとしていると下腹部に妙な違和感を覚えた。

 そういえば、今朝起きた時からずっと下腹部に痛みがあった。それどころではなかったのですっかり忘れていたが、今も腹に力を入れると痛くて苦しい。

 腹でも下したか?
 昨夜は何を食ったか……いや、これはそんな痛みではない。

 謎の腹痛に秀人が眉を顰める。それでも無理に起き上がろうとしていると、楓子が下半身を指差して叫んだ。
 
「きゃあ、ちょっと待って! どうしたの!? 大丈夫? あなた、パジャマが血だらけじゃない……」

 指さす先を見てみると、自身のパジャマが血塗れになっているのに秀人は気付く。見れば尻を中心に赤い染みが広がっていて、ベッドのシーツも汚れていた。

 いつの間に怪我をした?
 これほどの出血だ。傷はそれなりに大きいはず。しかし言われるまで気付かないとは……

 動揺した秀人が自身の身体をまさぐり確認する。すると楓子が突然微笑み、優しく秀人を抱きしめた。

「ねぇ桜子。多分それって怪我とかじゃないと思うのよ。お母さん、アレじゃないかなぁって思うのだけれど」

「……?」

「ふふふ……きっとね、あなたも大人の仲間入りをしたのよ。おめでとう、桜子」
 

 秀人は男である。しかし楓子の一言により自身の異変を理解すると同時に、女性の痛みがこんなにも辛く苦しいものなのかと初めての経験に脂汗を流してしまう。
 とにかく下腹部が重くて痛くて、まともに立っていられない。秀人が腹を押さえて辛そうにしていると、今日は学校を休むようにと楓子が勧めてくる。

 その申し出は願ってもないことだった。腹の痛みは置いておくとしても、とにかく今は元に戻る方法を見つけるのが最優先だ。学校なんかへ行っている場合ではない。
 母親の提案に甘えて、秀人は学校を休むことにした。迎えに来た健斗に休むことを伝えてもらい、取り急ぎシャワーを浴びてシーツを取り換え、症状の処置を教わりながら再びベッドへ横になる。

 その間、秀人は可能な限り口を開かないようにした。声も姿も桜子そのものだが、所作や口調は一朝一夕で真似できるものではない。変に喋ると母親に疑われる。
 とはいえ、やはり母親である。喋らないなら喋らないなりに違和感を抱いたようだ。しかしそれは大人の仲間入りを果たしたことを娘なりに思うところがあるのだろうと無理に納得すると、ゆっくり休むように告げて部屋から出て行った。
 
 ぱたり、と小さな音を残して部屋のドアが閉まる。それを見送った秀人は、横になったまま今後のことを考えた。
 
 見た目が桜子でも、中身が自分であることにはいずれ気付かれてしまうだろう。もちろん自分たちの関係を説明する気はないし両親も理解できるはずもないが、それでも桜子に迷惑がかかるのは間違いない。
 ならば可能な限り口を開かないようにして、時間を稼ぐべきだ。  

 桜子の身体は疲れていたらしい。その後秀人は目を瞑るとすぐに眠りに落ちたのだった。


 周囲は真っ暗だった。鼻先さえも見えない暗闇にもかかわらず、なぜか自分の姿は見えている。そんな摩訶不思議な空間で秀人が目を凝らしていると、目の前に浮かび上がった薄明かりが人の形になった。

「鈴木さん、酷いです! いい加減にもとへ戻ってくださいよ!」

 それは桜子だった。どうやら怒っているらしい。
 もっともそれは当然だろう。許可なく勝手に身体を操られるなんて、決して気持ちの良いものではない。温厚なはずの桜子が、プンスカと文句を言いたくなるのもわかる。
 
「いや、それがだな……実は戻り方がわからなくてな……」

「えーっ!? どうしてそんなことに!? 大丈夫なんですか!?」

 言い辛そうに頭を掻きながらの報告に、驚きのあまり桜子が大声を上げる。
 身体を乗っ取ってから、ずっと彼女は周囲が見えていたらしい。身体の自由はきかないものの、視覚は秀人と共有していたようだ。

 自分の身体に異変が起きたのも、学校を休んだのも、シャワー中に秀人が胸の感触を確かめていたのも知っていた。
 ちなみに桜子は、秀人に自分の身体を見られるのは諦めたらしい。

「とにかくだな。次に目が覚めたとき、元に戻っているのを期待するしかない。そもそも俺とお前が入れ変わる方法ははっきりとわかってないんだからな」 

「確かにそうですけど……」

 桜子と入れ替わる感覚が秀人にはわかっているが、今の状況はこれまでと真逆なので彼自身も戸惑っていた。もっとも、感覚と言ったところではっきりと示せるような明確なものではなかったが。

 その後も二人が話していると、徐々に秀人の視界が暗くなってくる。それは桜子自身の意識が目を覚ます合図だった。
 そして瞳を開ける。

 しかし桜子は、変わらず秀人のままだった。



 昼になり、腹を空かせた秀人が痛む腹を擦りながらキッチンへ向かう。そこではちょうど絹江が昼食を作っていた。美味そうな匂いに秀人が小さな鼻をひくつかせていると、絹江が気付いて近寄って来る。

「桜子や。もう起きて大丈夫なのかい? おやまぁ。その様子じゃ、まだみたいだねぇ」

 絹江が目を細めて桜子を見つめる。同時に彼女は、可愛い孫娘の様子がいつもと違うことに気付いたが、それでもいつもと変わらない様子で口を開いた。

「朝も食べとらんし、腹が空いたじゃろう? 昼ご飯にチャーハンを作ったからお食べ」

「うん……ありがとう」

 浩司と楓子は1階の店舗にいるらしく、絹江と桜子は二人きりで昼食を食べ始めた。様子を窺うように秀人の顔を見つめる絹江。急ににっこりと笑いかけると、安心させるように優しく語り掛けた。

「桜子や。何か苦しいことでもあるんじゃないのかい? ばあちゃんに言ってごらんよ」

「……」

「ほれっ、何を言っても驚かんから、遠慮せんで言ってみんさい」

 秀人は悩んでいた。このまま桜子のふりを続けたところで誤魔化せるはずがない。ましてやこの仲良し家族だ。父親も母親も、そして祖母も、娘の些細な変化に気づくのは時間の問題だった。

 両親が桜子に二重人格の疑いを持っていることも、近いうちに病院を受診させようとしているのも秀人は知っていた。ならば病気ということにして、この人格を受け入れさせるのも有りか。

 桜子の表情が変化する。目付きが急に鋭くなり、口も片側の口角が上がった皮肉そうなものになった。そして言う。

「そうか。なら教えてやる。俺は桜子じゃない、鈴木って名だ」
 
「そうかいそうかい。あんたさんは鈴木さんてぇのかい。それじゃあ、初めましてかねぇ」

 突然の告白にも驚かず、絹江がにこやかに会話を続けようとする。
 口調も態度も確かに桜子とは違っているが、声も容姿も間違いなく孫娘のそれである。桜子の病気については以前から絹江の耳にも入っていたが、たとえどんな病気であろうと可愛い孫である事実に変わりない。
 そんな桜子のことが、絹江には不憫で仕方がなかった。

「鈴木さんや。あんたは桜子の知り合いなのかい?」

「あぁ、俺は桜子の友達だ。俺がこいつを守っているんだ」

「そうかい。ありがとうね、鈴木さんや。ほんに桜子はいい友達を持ったねぇ」

 本心はどうであれ、表面上は平静を装ったまま、その後も絹江はにこやかに秀人と会話を続けた。


 食事が終わり、秀人が自分の部屋へ戻って行くと、浩司が廊下の陰から顔を出して桜子の部屋の方を見た。

「すまん、お袋。様子は見させてもらった」

 その言葉を聞いた絹江の瞳に涙が浮かんだ。

「あの子が不憫でたまらんよ。まだ年端もいかん子供だってのに……心を裂かれてしまうだなんてねぇ……ほんに可哀そうだよ……」

 その様子を見た浩司も、釣られて目に涙を浮かべた。

「あぁ本当にな。あんな事件に巻き込まれたばかりに……まだ14歳の子供なのになぁ……」
 

 その日の夜。浩司と楓子が二人きりになると楓子が涙を流し始めた。
 ここ最近は桜子の男性恐怖症は改善しつつあったので安心していたが、気付けば別の病気で苦しんでいた。桜子自身は気付いていないだろうが、今や彼女の中には別の人格が生み出されていたのだ。

 昼間の様子を思い出す。桜子はいつもの可愛らしい声で話していたが、鈴木と名乗るその口調は粗野な男のものだった。訊けば桜子の友達で、彼女を守っていると言っていた。
 額面通りに受け取るならば、鈴木は自我を守るために桜子が作り出した第二の人格であるに違いない。

 恐れていたことが現実のものとなった。
 もはや躊躇している場合ではない。浩司も楓子も、早急に医師の診察を受けるべきだと判断したのだった。
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